第3話:空の傷跡と、反攻の狼煙
けたたましいアラートが鳴り響く中、俺たちは半ば突き飛ばされるようにして、屋上へと続くタラップを駆け上がった。
肺が焼け付くような感覚と、心臓が耳元で鳴っているかのような激しい鼓動で、ひどく遠く感じられた。
庭園への重い防護扉が開かれた瞬間、生ぬるい風と、都市の喧騒がなだれ込んでくる。だが、その日常の音は、目の前に広がる光景によって、一瞬で意味を失った。
「……嘘だろ」
誰かが、かすれた声で呟いた。
空が、割れていた。
まるで、巨大なハンマーで打ち付けられた分厚いガラスのように、青空そのものに、黒々とした巨大な「ひび割れ」が走っている。
その亀裂の奥は、光すら届かない絶対的な闇に満ちていた。俺は咄嗟にARコンタクトをオフにしたが、目の前の光景は少しも変わらない。これは網膜に投影された虚像ではない。
「……ノイズの正体は、これ……」
リュナが、震える声で呟く。
「何、これ……。映画みたい……」
響は、目の前の非現実を、ただ呆然と見上げていた。
その傷口から、ぽつり、ぽつりと、黒い雫が滴り落ちるように、何かが地上へと落下してくる。それは、半年前の悪夢を凝縮したかのような、異形の魔獣たちだった。
「封じ込めチーム出動! 目標、落下地点周辺の民間人避難と、敵性存在の排除!」
携帯端末を片手に牧原先輩の怒号が飛ぶ。
組織は、この未曾有の事態に、混乱しながらも即座に対応を始めていた。
それぞれの端末に、現場の映像が映し出される。
落下した魔獣は数体。
だが、半年前とは初動からして違っていた。
落下地点を予測したかのように展開した都市防衛軍のヴァンガードが、十字砲火を浴びせる完璧なキルゾーンを形成している。
「撃て!」
隊長の号令と共に放たれたのは、新型プラズマライフル『ジャベリン』。この半年間の研究の成果だった。
光の槍が魔獣に着弾した瞬間、甲高い断末魔の叫びが響き渡った。
半年前には傷一つ付けられなかった黒い甲殻が、たやすく融解していく。
数秒後、魔獣は黒い塵となって崩れ落ちた。
「やった……!」
安堵の声が漏れる。歓喜に沸く研究員たちを横目に、俺は、この技術がリュナという一人の少女の協力なくしては成り立たないという事実を、改めて噛みしめていた。
その光景を見ていたリュナも、固く握りしめていた拳を、わずかに緩めた。
だが、彼女の胸のざわめきは、一向に消える気配がない。
「私が行きます! あの杖があれば、もっと早く……!」
庭園から出ようと逸る彼女の肩を、牧原先輩が静かに押さえた。
「まだだ。君の力が必要になる場面は、必ず来る。だが、今は我々の番だ。科学の力を、そう簡単に見くびってもらっては困る」
「牧原さん! ネットが、もうお祭り騒ぎです!」
響が、自分の端末画面を俺たちに見せながら叫んだ。
情報統制班の懸命な努力も虚しく、ネットの匿名掲示板は、かつてないほどの熱狂と混沌に包まれていた。
【緊急実況】なんか空割れてんだけどマジなんなの Part12
512: 名無しのサイバー市民
きたきた、政府の情報統制。半年前と全く同じ流れじゃん。
514: 名無しのサイバー市民
ってことは、そろそろあの子の出番か?
524: 名無しのサイバー市民
城だ!城みたいなのが浮いてたぞ!マジで!
528: 名無しのサイバー市民
うわああああああ!なんか滝みたいに溢れてきた!数が多すぎる!
屋上庭園から、実験室に戻ってきた俺たちのモニターの前で、世の中の常識が、そして俺たちの日常が、否応なく書き換えられていく。
空のひび割れは、ミシミシと、まるで世界そのものが軋むような音を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に拡大していく。
やがて、誰の目にも、その亀裂の向こうに、巨大な「浮遊要塞」の禍々しいシルエットが浮かび上がった。
そして、ひび割れが地上の高速道路にまで到達した、その瞬間。
そこから、夥しい数の魔獣が、まるで決壊したダムの水のように、地上へと溢れ出してきた。
都市全域に、最大レベルの警報が鳴り響く。
これはもはや、局地的な「封じ込め」ではない。
都市の存亡をかけた「戦争」だった。
戦闘が始まって一時間が経過する頃には、当初の楽観的なムードは消え失せていた。戦線は膠着し、ひたすら弾丸とエネルギーを撃ち込み続ける、消耗戦の様相を呈し始める。
陽が傾き、都市が夕闇に包まれ始める頃、戦況は再び動いた。
補給を終えた全部隊による、最後の大規模な協同攻撃が開始される。
夜の闇が訪れる頃、高速道路を埋め尽くしていた魔獣の群れは、完全に沈黙していた。
司令室のモニターには、黒煙を上げる残骸と、疲弊しきった兵士たちの姿が映し出され、安堵とも疲労ともつかない、か細い歓声が上がった。
半年前の雪辱を果たす、圧倒的な勝利。
しかし、その安堵の空気は、実験室の一角の壁に設置された大型モニターが、発するアラートでかき消された。
「……世界シミュレーターの演算が止まりません。」
わざわざ修理された、世界シミュレーターの物理端末から吐き出される文字列とアラートはあの時と同じように美しいコードを吐き出している。
だが、そのコードは今ならわかる。世界をつなげようとするものだ。
「世界がつながると世界シミュレーターが暴走をし、世界接続を演算し続ける……か。もともと別世界を探すためのシステムとはいえ……。」
牧原先輩が厳しい目でモニターを見ながら指示を出す。
「やむを得ない。世界を接続し続けるよりも世界シミュレーターを切断することでの対処ができるかを確認を……」
その時だった。
戦場を写していたモニターが緊急ニュース速報に切り替わったことで一変した。
『……えー、ただ今、臨時記者会見の映像が入りました。学術研究技術都市、市長による会見です』
画面に映し出されたのは、無数のフラッシュを浴びながら、厳しい表情でマイクの前に立つ、壮年の市長の姿だった。
『市民の皆様。まずは、この度の未曾有の事態に、多大なるご心配とご不便をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます』
市長は一度言葉を切り、カメラの向こうの全市民を見据えるように、続けた。
『そして…今こそ、皆様に真実をお話する時が来ました。半年前、第7ブロックのSPトレンドシュア社で発生した事件を覚えておいででしょうか。当時、我々は社会の混乱を避けるため、皆様には大規模な産業テロ事件として公表してまいりました』
ざわ、と司令室がどよめく。俺も息を呑んだ。
SPトレンドシュア社の事件。
公式にはテロとして処理された、全ての始まりの場所だ。市長は、なぜ今その名前を……?
『しかし、本日、ここに断言いたします。半年前の事件もまた、本日と同様、異世界からの『侵攻』の始まりだったのであります。そして今日、その脅威は、我々の都市の存亡をかけた『侵略』へと、その姿を変えたのです』
ざわ、と司令室がどよめく。
『だが、我々は無力ではありません。市民の皆様の安全と、我々の世界の尊厳を守るため……都市防衛部隊は、都市防衛軍と再編されております。
本都市は、これ以上の被害拡大を防ぎ、脅威の根源を断つべく、可及的速やかに、反攻作戦を開始する準備があることを、ここに宣言いたします』
司令室の空気が、凍りついた。歓声も、安堵も、そこにはない。
「反攻……作戦……?」
リュナが、青ざめた顔で呟く。
その隣で、響はただ言葉を失っていた。
戦争という、あまりにも現実離れした言葉に、思考が追いついていないようだった。
「まさか……現場を無視して、政治が先に動くとはな……」
隣で、牧原先輩が、血の気の引いた顔でモニターを睨みつけていた。
この瞬間に、勝手に世界シミュレーターを切断するという手段がなくなったともいえる。
その絞り出すような声は、俺たちが、軍事的な脅威とはまた別の、より厄介な戦いに巻き込まれたことを、明確に示していた。




