第1話:平穏な日常と、境界線のノイズ
半年という時間は、日常の残骸の上に、新たな日常を築くには十分な長さだった。
かつてSPトレンドシュア社の中枢サーバーが置かれ、そして、俺とリュナが出会った全ての始まりの場所――旧評価室3は、今やその面影をほとんど残してはいなかった。
破壊された壁は取り払われ、隣接するフロアと連結されて一つの巨大な空間となり、その中央には、あの日リュナが封印した「何か」があった場所を示すかのように、無数の観測機器が設置されている。
俺たちがあの日制御しようとし、戦闘で破壊された世界シミュレーターのコンソールも、最終的に修理されていた。
この数日は都市側からの制御なのか、様々な演算がされているようでコンソールが目まぐるしく変わっている。
本体はここにはなく、脆弱性管理もこの場で行っていないため、ここに置く意味もないはずなのだが、時空間物理学部門としてはやはり重要な設備だったらしい。
……診断担当だったときはそんな重要なシステムだなんて思っていなかったんだよなぁ。
整備を終えたそのフロアは、いくつかのパーテーションで区切られながら、時空間物理学部門が管理する、最重要観測拠点へと姿を変えており、今の職場もこの旧SPトレンドシュアの社屋になっていた。。
「―――よし、リュナ顧問! ドローンを捕縛したまま、結界の多重化レベルをフェーズ5まで引き上げてください!」
「むぅ……! 博士、これ、マナの消費が激しいんですけど!私の中のマナだけじゃ……足らない……。」
パーテーションで区切られた観測拠点の中央で、リュナが彼女のお気に入りの『賢者の杖』を握りしめ、額に汗を浮かべていた。
彼女の足元から伸びた光の鎖が、高機動ドローンを完璧に捕縛し、その周囲には幾何学模様のエネルギーフィールドが何層にも重なって展開されている。
その様子を、白衣を着た如月博士が、興奮を隠しきれない様子でモニターに見入っていた。
「素晴らしい! この安定性! 我々の技術では、この規模の束縛フィールドを維持するのに、小型の発電所が一つ必要ですよ!」
博士の純粋な科学的好奇心とは対照的に、俺はこういう「派手なイベント」を前にすると、どうしてもシステムの安定性を考えてしまう。
「まあ、何もないのが一番ですけどね」
俺は、飲みかけのコーヒーカップを片手に、コンソールを監視しながらぼそりと言った。
「エラーログが出ないシステムほど、優秀なものはないでしょう?」
「えー、愁也さんは真面目ですね!」
大学の講義を終えてから、隣で見ていた響が、楽しそうに茶々を入れた。
「見てる分には、派手でかっこいいじゃないですか!」
これが、俺たちの新しい日常だった。
財務企画部から正式に予算が下りて以来、リュナの専門である結界術や特殊魔法のデータ収集が、俺たちの主な業務になっていた。
「……はい、今日のノルマ、終わり!」
実験終了の合図と共に、リュナは結界と光の鎖を解き、どっと疲れたように椅子に座り込んだ。
「お疲れ様でした、リュナ顧問! 今日のデータも完璧です!」
興奮冷めやらぬ博士とは対照的に、他の研究員たちは連日の複雑な実験で疲れ切っている。
その様子を見て、リュナはふっと息を吐くと、杖をそっと振るう。
「―――《心を鎮める風よ、この場の淀みを洗い流せ》」
穏やかで、優しい声。
すると、観測室全体に、目には見えない涼やかな風が吹き抜けたかのように、張り詰めていた空気と研究員たちの険しい表情が、ふっと和らいだ。
「あれ……? なんだか、肩の力が抜けた……」
「頭がスッキリしたな。よし、もうひと頑張りしますか」
「見事です、リュナ顧問!」
博士が、また目を輝かせる。
「精神鎮静魔法の範囲化、完全にマスターしましたね! しかし、不思議なのは、先ほどの実験の終盤、あなたのマナが尽きかけた瞬間に、結界の強度が、ほんの一瞬ですが、理論値を超えて跳ね上がったことです。まるで、あなたの『疲れた』という感情に、魔法そのものが呼応したかのように……。これは、実に興味深いデータです」
「この世界は、故郷と違ってマナがほとんどないから、魔法を使うのにすごく集中力が必要なんです。でも、そのおかげで、少ない力で効率よく魔法を使う、良い訓練になっている気はします」
リュナは、少し誇らしげにそう言った。
その後ろで、如月博士がラパンの杖を楽しそうに振っているが無視だ!
「……愁也さん、響さん」
休憩中、リュナが不意に自分の両腕をさすった。
「どうした? 寒いのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……なんだか、数日前から少しぞわぞわするんです。結界を張っている時に、遠くで誰かが、壁をカリカリ引っ掻いているような……変なノイズを感じるんです」
「ノイズ?」
「はい。うまく言葉にできないんですけど……」
「その感覚、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
響が、言語学者として興味をそそられたように身を乗り出した。
「例えば、どんな音に聞こえます? 高い音? 低い音? それとも、色で見えたりしますか?」
「いえ、音とか色じゃなくて……。故郷にいた時、質の悪い魔術師が近くにいると、空気がピリピリする感じがあったんですけど……それに、少しだけ似てる気がして。考えすぎ、ですよね」
俺は、彼女たちの会話を聞きながら、少し眉をひそめた。
半年前の彼女なら、ただの「気のせい」で済ませただろう。
だが、この半年、自らの専門である特殊魔法と向き合い続けた彼女の感覚は、以前とは比べ物にならないほど研ぎ澄まされている。
その彼女が言語化できない「ノイズ」。
それは、決して無視していいものではない気がした。
その日の夜、リュナは自室のベッドの上ではなく、第7ブロックの併設された居住ブロックにある小さなベランダに出て、眼下に広がる都市の夜景を眺めていた。
少し前までは施設に半分閉じ込められていたが、仮ではあるが市民IDも手に入れたことや、第7ブロックの職場に異動になったことから小さいが、誰にも邪魔されない小さな部屋を手配してもらった。
まだこの不思議な街にはわからないことも多いが、職場と家を往復するくらいならできるようになった。
人工の光の海が、地平線の彼方まで続いている。
学院の寮の窓から外を見ても、そこにあるのはただの闇と、二つの月、そして満天の星々だけだった。
(綺麗……だけど……)
この煌々とした光が、故郷の空に輝いていたはずの星々の光を、全て覆い隠してしまっている。
その事実が、リュナの胸を締め付けた。
(ヴィオラは、ちゃんとご飯食べてるかな……。エリーも、アンナも、セレスも、元気にしてるかな……)
妹と、大切な友人たちの顔が目に浮かぶ。
ふと、彼女はポケットから携帯端末を取り出した。
待ち受け画面には、少し前にフラワーパークで響と撮った、少しぎこちない笑顔のツーショット写真が設定されている。
この世界で、自分は「技術顧問」という立派な役職を与えられ、必要とされている。
響という、かけがえのない友人もできた。
それは、誇らしいことだった。
だが、その誇らしさが大きくなればなるほど、故郷との距離が、どんどん離れていってしまうような気がして、怖かった。
(早く帰って、みんなを安心させてあげなくちゃ。お土産もたくさん持って。この世界で頑張っていることも、ちゃんと話せば、きっと分かってくれる。私たちは、身分なんて関係なく、友達なんだから)
彼女は、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
眼下のネオンの光が、まるで彼女の揺れる心を映すかのように、優しく瞬いていた。
その輝きの向こう側で、新たな世界の亀裂が、静かに広がり始めていることを、まだ誰も知らなかった。




