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システムエンジニアと迷いし少女の物語  作者: 書との契約者
第2部 二つの世界の交響詩
36/57

プロローグ:残された者たちの祈り

 風が、王立魔法学院の白亜の塔を撫で、中庭に植えられたシンジュの古木の葉を優しく揺らしていた。

 その葉擦れの音は、遠く、訓練場から聞こえてくる騎士候補生たちの鋭い剣戟の音や、時折響く魔法の爆発音にかき消されそうになりながらも、かろうじて午後の穏やかな時間を紡いでいる。


 子爵令嬢であるセレスティア・クレスウェルは、その古木の根元に置かれた石のベンチに座り、膝の上で開いたままの魔導書に視線を落としていた。

 銀縁の眼鏡の奥にある理知的な紫色の瞳は、しかし、複雑な術式を追ってはおらず、ただ虚空を見つめている。


「……また、リュナのこと考えてるの?」


 快活な声と共に、隣に座る男爵令嬢のアンナ・アシュフォードが、心配そうにセレスティアの顔を覗き込んだ。

 燃えるような赤毛を高い位置で結んだポニーテールが、彼女の動きに合わせて楽しげに揺れる。


「だって……もう半年だよ。あの子が、あの任務に行ってから……。なのに、まだ何も分からないなんて」

 セレスティアの声は、まるで風に溶けてしまいそうなくらい、か細かった。半年前の、あの日の放課後の光景が、今も鮮明に蘇る。


『もう、なんで私なのかなあ……』

 教室の隅で、リュナは教科書を鞄に詰めながら、不満そうに唇を尖らせていた。

『特殊魔法が使えるからって、王宮課程のエリートさんたちと一緒に、大事な魔導書の護衛任務だなんて……。絶対、足手まといだって思われるよ……』


「私たちも驚いたものね。王宮課程の任務に平民のリュナが抜擢されるなんて、前代未聞だって」

 セレスティアは、当時の驚きを思い出しながら、力なく微笑んだ。

「でも、あの子はいつもそう。私たちみたいに、家の格とか、貴族としての体面とか、そういうのを気にしないでしょう? あの真っ直ぐさが、少し羨ましくて……見ていて清々しかった」


 あの日、リュナと王宮課程の生徒たちが護衛していた魔導書は、正体不明の邪教集団『黄昏の旅団』に奪われ、リュナを含めた護衛部隊は、誰一人として帰ってこなかった。


「いつまで、そんな辛気臭い顔をしているつもりですの?」


 凛として、しかしどこか不機嫌さを隠さない声が、二人の感傷的な空気を切り裂いた。

 セレスティアとアンナが弾かれたように振り返ると、そこに立っていたのは、学院でも指折りの高貴な血筋として知られる侯爵令嬢、エリザベス・フォン・ローゼンベルクだった。

 陽光を浴びて輝く豪奢な金髪の縦ロール、寸分の隙もなく着こなされた制服。彼女が苛立ちげに腕を組むと、その動きに呼応するように、周囲の風がわずかに渦を巻いた。


「エリザベス様……」

 セレスティアが慌てて立ち上がろうとするのを、エリザベスは手のひらを向けて制した。

「また、あの平民の話ですの? くだらない。任務に失敗し、姿をくらました者のことなど、わたくしの知ったことでは……」

 その言葉とは裏腹に、エリザベスの白い手袋に覆われた拳が、強く握り締められているのをアンナは見逃さなかった。


「あら、そうですの? でも、リュナがいなくなってから、毎日こうして私たちの様子を見に来ているのは、どこのどなたでしたっけ?」

 アンナが、少し意地悪く笑いながら言うと、エリザベスの頬がわずかに赤らんだ。

「なっ……! 勘違いしないでくださいまし! あなたがたが、学院の風紀を乱していないか、監督しているだけですわ!」


 エリザベスは、ふいと顔を背けた。

 その脳裏に、一人の少女の屈託のない笑顔が蘇る。

 誰もが自分を「エリザベス様」と呼び、遠巻きに敬う中で、リュナだけが違った。

 彼女だけが、その大きな碧眼を輝かせながら、「エリーはすごいね!」「エリー、これ教えて!」と、何のてらいもなく懐いてきた。

 身分も、家柄も関係なく、ただ一人の友人として。その心地よさを、エリザベスは生まれて初めて知ったのだ。


「……黄昏の旅団とかいう輩、わたくしが許しませんわ」

 ぽつりと、絞り出すような声が漏れた。

「……あの子は、必ず……わたくしが取り戻しますから」


 その言葉に、セレスティアとアンナは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。

 この素直じゃない侯爵令嬢もまた、自分たちと同じように、大切な友人の身を案じている。


「ええ、そうね」セレスティアが頷く。「あの子のずぶとさを信じましょう。昔、訓練場で……」

 セレスティアの言葉が、記憶の扉を開く。


(回想)


 訓練場の一角では、目に見えぬ風の刃が唸りを上げて訓練用のゴーレムに襲いかかっていた。


「まだまだですわ! その程度で、わたくしの『風のウィンド・ブレード』が防げるものですか!」


 金髪の縦ロールを揺らしながらエリザベスが叫ぶ。彼女の指先から放たれる真空の刃は、しかし、ゴーレムの前に立ちはだかる土の壁によって、ことごとく弾かれていた。


「もう、エリーったら、ちょっとは手加減してよね!」

 燃えるような赤毛のポニーテールを揺らしながら、アンナが分厚い土の壁を背に抗議の声を上げる。

 彼女の足元では、大地が力強く脈打ち、壁のひび割れを瞬時に修復していく。


「あら、訓練に手加減など無用ですわ。それとも、わたくしの風が、あなたの土壁ごとき破れないとでも?」

「なんですって!」


 今にも掴みかからんばかりの二人を、柔らかな水の膜が、ふわりと分ち隔てた。

「お二人とも、そこまでです。今日の対人訓練は引き分け、ですね」

 銀縁の眼鏡の奥で理知的な紫色の瞳を細め、セレスティアが微笑む。

 彼女の手のひらからは、清らかな水が生まれ、アンナの頬についた土埃を優しく洗い流していく。


 少し離れた場所で、リュナは一人、溜息をついていた。

 彼女の足元には、時折ぽっと小さな火花が散っては消えるだけで、一向に炎が安定しない。彼女の課題は「火起こし」。


「……はあ。なんで私だけ、こんな地味な課題なのかなあ……」

 不満そうに唇を尖らせるリュナに、アンナが快活な声で笑いかけた。

「しょうがないって。リュナは特殊魔法に全振りなんだから。四大元素のうち、火の属性だけがかろうじて使えるんだし、頑張って練習するしかないでしょ。先生からの愛の鞭よ!」


 アンナの言う通りだった。

 リュナの魔法の才能は、結界や封印といった特殊な儀式魔術に完全に偏っていた。

 その代償として、基本的な四大元素の魔法はからきしだったのだ。


 魔法は、たとえ失敗しても術者の魔力マナを消耗する。

 貴族である自分たちとは違い、平民であるリュナの魔力量は、決して多くはない。

 それでも、彼女は諦めなかった。

 授業が終わった後も、一人、訓練場に残って、来る日も来る日も「火起こし」の練習を続けていた。マナが尽きてふらふらになるまで、何度も、何度も。

 そして、そんな日々が数週間続いたある日のこと。

「―――見て! みんな!」

 リュナの指先に、これまでとは比べ物にならない、大きく、そして安定した炎が灯っていた。

 そして、その炎は、鋭い矢の形へと姿を変え、見事、訓練用の的を射抜いたのだ。

「やった……! やっと、『フレイム・アロー』が使えた……!」

 そう言って、魔力を使い果たしてへなへなと座り込みながらも、満面の笑みを浮かべるリュナの姿を、三人は今でもはっきりと覚えていた。


(現在)


「……あの時のあの子、本当に嬉しそうだったわね」

 セレスティアは、懐かしむように目を細めた。

「そうそう! まったく、私たちよりよっぽど根性あるんだから!」

 アンナが笑い、エリザベスもまた、その口元に微かな、本当に微かな笑みを浮かべていた。


 だが、その束の間の穏やかな空気も、王宮にまで届く、東方からの凶報の前には、あまりに儚かった。


 王宮の最奥、作戦司令室と呼ばれるその部屋の空気は、まるで鉛のように重かった。壁に掛けられた巨大な軍事地図には、王国の領土を示す青い旗と、じわじわとその領域を侵食する、禍々しい黒い旗が、無数に突き立てられている。


「―――東方の守りが、また一つ落ちたか」

 歴戦の古傷が刻まれた顔を苦渋に歪め、騎士団長が唸るように言った。彼の視線の先、地図の東部辺境を示す領域に、側近が新たな黒い旗を突き立てる。

「はっ。三日前の報告によれば、村を襲ったのはわずか数名の術者と、見たこともない一体の召喚獣であったと。ですが、駐留していた一個小隊は、半刻も経たずに……全滅した、とのことです」


「馬鹿な!」

 テーブルの向かいに座っていた、豪奢なローブをまとった大臣が、血色の良いその顔から、さっと血の気を引かせながら、甲高い声で叫んだ。

「辺境の、取るに足らないカルト教団ではなかったのか! 奴らはどこで、あれほどの力を……!」

「もはや、ただのカルトではありませぬ」

 騎士団長ゲオルグは、忌々しげに黒い旗を睨みつけた。


「奴らの動きは、あまりにも組織的すぎる。まるで、我々の手の内を知り尽くしたかのような、的確な一点突破。これは、明確な意志と目的を持った『軍隊』の動きです。それに、商人ギルドからも、この数ヶ月で辺境の隊商が立て続けに消息を絶っていると、報告が上がっております」


「……それは山賊の類であろう」

「生き残りの証言では、相手は人ではなく、異形の魔物であったと。……さらに、信じがたい報告も」

 騎士団長は、わずかに声を潜めた。

「襲われた者の中に、『空に浮かぶ城のようなものを見た』と証言する者が、複数名おります」


「空飛ぶ城だと?」

 大臣は、鼻で笑った。

「馬鹿馬鹿しい。恐怖で見た幻覚か、平民の作り話であろう。そのような大魔法、神話の時代でもあるまいし」


「……私も、そう信じたいですな」

 騎士団長は、大臣の嘲笑を意に介さなかったが、地図を睨むその目に、一瞬だけ深い疲労の色がよぎった。そして地図上の東部山岳地帯を指でなぞった。

「ですが、奴らがどこかに大規模な拠点を構えているのは間違いない。でなければ、あれほどの兵力を維持できるはずがない。空を飛ぶかはともかく、山中に我々の知らぬ要塞を築いている可能性は、十分に考えられます」


 その言葉に、大臣は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。

「まさか……奴らの力の源が、あの魔導書だとでも言うのか……? 代々『精霊の儀』に用いてきただけの、儀礼的な代物とばかり思っていたが……」

「断定はできませぬ。ですが、奴らの勢力拡大が始まった時期と、あの護衛部隊が消息を絶った時期は、不気味なほどに一致しております。偶然と片付けるには、あまりに……」


 騎士団長は、言葉を濁した。

 だが、この場にいる誰もが理解していた。

 これは、単なる不覚ではない。王国の威信をかけた儀式が失敗に終わり、その原因となったかもしれない魔導書が、今や王国そのものを脅かす力となっている可能性。皮肉にも、その書の真の価値を理解していたのは、王都でも学院でもなく、あの狂信者どもだったのかもしれないという、最悪の可能性を。



 その頃、王国の東方、険しい山々が連なる人の踏み入れぬ秘境。その霧深い谷の上、巨大な浮遊要塞が、地上の法則を嘲笑うかのように静かに浮かんでいた。

 その中心にある大聖堂は、荘厳さと狂気が同居する、異様な空間だった。壁や柱には、見る者の正気を削るような、冒涜的なルーン文字がびっしりと刻まれ、それが放つ鈍い光だけが、薄暗い堂内を照らしている。


 その中央、黒曜石の祭壇に、一冊の古ぼけた本が置かれていた。

 表紙は人の皮のように生々しく、未知の金属でできた金具が、それが開かれることを拒むかのように固く閉ざされている。だが、その本は、まるで生きているかのように、ゆっくりと、しかし確実に脈打ち、周囲の空間からマナを貪欲に吸い上げていた。


 祭壇の前に立つ、純白のローブをまとった男が、その本に愛おしむようにそっと触れた。彼は、この『黄昏の旅団』を率いる導師。


「……哀れなものよ。堕落した王侯貴族に命じられ、この聖なる書を守っていた若きひな鳥たち。彼らとて、旧き世界の犠牲者。その命、我らが新世界の礎となることで、初めて意味を成すのだ」

 彼の声は、穏やかでありながら、聞く者の魂を直接揺さぶるような、異様な響きを持っていた。


「惜しむらくは、かのひな鳥の中に、稀有な『光の属性』を持つ特殊魔法の使い手がいたことか。学院では、光も闇も、まとめて『特殊魔法』と呼称し、その価値を理解しておらぬようだが……。我らが理想のためには、惜しい才能を失ったものよ」

 彼の言葉には、本心からの悔いが滲んでいた。


 導師は、恍惚とした表情で両腕を広げた。

「……見よ。世界は、かくも病んでいる。マナは枯渇し、魔法の祝福を受けぬ者ばかりが生まれる。王侯貴族は、残り少ないマナを独占し、腐敗している。このままでは、世界は緩やかに死に至る。我らは、それを座して待つことなどできぬ」


 彼の背後には、同じローブをまとった数十人の幹部たちが、祈るように頭を垂れている。


「我らの目的は、破壊ではない。―――再生だ」

「この『鍵』は、我らの手にある。これさえあれば、我らは古き神々の世界への扉を開き、無限のマナをこの地にもたらすことができる。さすれば、世界は浄化され、全ての人々が等しく魔法の祝福を受ける、真の楽園が訪れるのだ」


 彼の言葉に、幹部の一人がおずおずと顔を上げた。

「導師様。ですが、そのためには、あまりに多くの血が……」


「必要な犠牲だ」

 導師は、その言葉を静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで遮った。

「旧き世界の腐敗した膿を出すためには、痛みを伴う。我らが救うべきは、真理を解さぬ愚かな民ではない。我らの理想に付き従う、選ばれた者たちだけだ。彼らこそが、新世界の礎となる」


 彼の瞳には、狂信者のそれではない、自らの行いを絶対的な正義だと信じて疑わない、歪んだ理性の光が宿っていた。

「計画の最終段階は近い。ゲートが開かれる、その瞬間に備えよ。我らの手で、この淀んだ世界に、黄昏の光をもたらすのだ」


 その言葉は、祝福の福音か、あるいは破滅の宣告か。

 二つの世界が、まだ互いの存在を知らぬまま、それぞれの運命に向かって、静かに、そして確実に動き出していた。

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