第22話:レッドブック
地下駐車場からオフィスエリアへと続く非常階段は、不気味なほど静まり返っていた。
外で猛威を振るう魔獣たちの咆哮も、シャッターの軋む音も、ここまでは届かない。
聞こえるのは、俺たちの荒い息遣いと、ヴァンガードのサーボモーターが立てる重く、湿った駆動音だけだ。
コンクリートの壁には、戦闘の熱で蒸発した水分が結露し、まるで洞窟の中のようにじっとりと濡れている。
「……こっちです」
俺は、社員端末に表示された施設マップを頼りに、暗闇の中を先導する。
数日前まで、同僚たちと「週末、どこ行く?」なんて他愛もない話をしながら歩いていたはずの廊下は、今や魔獣の黒い体液でぬめり、
壁には生々しい爪痕が、まるで巨大な獣が悶え苦しんだかのように深く刻まれていた。
あのとき逃げ出した経路を逆にたどっていく。
幸いにもメンテナンス用の通路は一部破損があってもヴァンガードの力があれば問題なく通り抜けられた。
やがて、俺たちがたどり着いたのは、広大なオフィスフロアだった。
そこは、俺が社会人としての一歩を踏み出し、数えきれないほどの夜を明かした場所だった。
「……ひどい」
リュナが、息を呑む。
パーティションは無残になぎ倒され、デスクはひっくり返り、床には無数の書類と、誰かの私物だったマグカップの破片が、まるで墓標のように散らばっている。
俺のデスクだった場所は、天井が崩落し、完全に瓦礫の山と化していた。かつて、当たり前のように存在した日常が、暴力によって粉々に砕け散った光景。
そのあまりにも生々しい残骸に、リュナは息を呑み、俺もまた、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
その瓦礫の陰から、数体の小型魔獣が、赤い複眼を光らせて飛び出してきた。その数は、先ほど地下で見たものよりも、はるかに多い。
「散開! 敵を近づけるな! 弾薬を節約しろ!」
部隊長の号令と共に、ヴァンガードたちが即座に陣形を組む。プラズマ砲が火を噴き、魔獣たちを的確に撃ち抜いていく。
だが、彼らの弾薬も無限ではない。
時折、マガジンを交換する際の、わずかな隙が生まれる。
その隙を狙って、魔獣の爪がヴァンガードの装甲を切り裂く。
リュナも杖を構えようとしたが、部隊長がそれを手で制した。
「リュナさんは杖を温存しろ! こいつらは、我々だけで対処できる!」
その言葉通り、兵士たちは数に勝る魔獣の群れを、冷静かつ効率的に掃討していく。
だが、彼らの疲労は明らかだった。息遣いは荒く、動きには精彩を欠き始めている。
俺は、シールドを構え、リュナと兵士たちの間に立ち続けた。
できることは、それくらいしかなかった。だが、そのシールドが、どれほどの時間、彼らを守れるのか、俺には分からなかった。
数回の戦闘を切り抜け、俺たちはついに目的地のサーバーフロアへと続く、巨大なセキュリティドアの前にたどり着いた。
だが、その分厚い鋼鉄の扉は、赤い警告ランプを点滅させながら、固く閉ざされていた。
まるで、俺たちの行く手を阻むかのように。
「……システム障害による、緊急ロックダウンか」
俺は、端末をドアの認証パネルにかざす。
だが、返ってきたのは無機質なエラー音だけだった。焦燥感が、俺の胸を締め付ける。
「ダメだ……! 俺の権限じゃ開けられない! もっと上位の……管理者権限が必要だ!」
俺が焦って端末を操作し始めた、その時だった。
俺たちが進んできた通路の奥から、これまでとは比較にならない数の、無数の赤い光が、こちらへ向かってくるのが見えた。
それは、小型魔獣の群れ。だが、その密度は、まるで津波のようだった。
「敵増援! 後方に防衛線を築け! 何としてでも、時間を稼ぐんだ!」
背後で、ヴァンガードたちのプラズマ砲が再び火を噴く。だが、敵の勢いは、先ほどまでとは比べ物にならない。絶望的な数の魔獣が、波のように押し寄せてくる。
俺は、兵士たちの怒号と、魔獣の甲高い悲鳴を背中に聞きながら、ただ必死に、目の前の電子の壁と格闘することしかできなかった。
「くそっ、開け、開け……!」
俺は、背後で炸裂するプラズマの閃光と、兵士たちの怒号をBGMに、必死で端末を操作していた。だが、目の前のセキュリティドアは、まるで俺の焦りを嘲笑うかのように、無慈悲なエラーメッセージを吐き出し続ける。
【ACCESS DENIED: LEVEL 7 SECURITY LOCKDOWN】
【WARNING: UNAUTHORIZED ACCESS ATTEMPT DETECTED】
「くそっ…! セキュリティレベルが最大だ! クラッキング対策で、内側から完全に封鎖されてる!」
「何としてもこじ開けろ! ここを突破できなければ、我々はここで全滅だ!」
部隊長が、シールドを構えながら叫ぶ。彼の足元では、ヴァンガードの空になったマガジンが、カラカラと虚しい音を立てて転がっていた。
弾薬も、尽きかけている。兵士たちの顔には、疲労と、そして死を覚悟したような表情が浮かんでいた。
その時、俺の脳裏に、あるシステムの存在が閃光のように蘇った。リーダー研修で、講師が物々しく語っていた、あの禁断の書。
(待てよ…リーダー研修で言ってたな…『レッドブック』! あれを使えば…! 保管場所は、この先の管理室のはずだ!)
「隊長! このロックを解除する方法が、一つだけあります!」
俺は叫んだ。
「ですが、そのためには、一度ここから離れて、『あるもの』を回収しなきゃならない!」
「何だと!?」
「この先の管理室に、このロックを強制解除できる『緊急用の鍵』があります!」
俺の言葉を、部隊長は即座に理解した。
彼は、残った第二小隊の兵士たちに最後の指示を飛ばす。
「ここで時間を稼げ! 我々が戻るまで、一歩も通すな! 和泉君、俺と数名が君を援護する! 行くぞ!」
「はい!」
俺たちは、再び瓦礫の山と化したオフィスフロアを引き返し始めた。
その道中、部隊長がふと足を止め、ひっくり返ったデスクのそばに落ちていた写真立てを拾い上げた。ガラスは蜘蛛の巣状に割れているが、中には部署の仲間たちの集合写真が収められていた。
「……ここにも、普通の日常があったんだな」
静かな呟きだった。
「そりゃそうですよ…」俺は、かろうじて声を絞り出した。
「ほんの数日前まで、俺たちがここで普通に業務してたんですから…」
部隊長は、何も言わずに写真立てを持って再び前を向いた。
「……行くぞ」
その声には、先ほどよりも強い決意がこもっていた。
管理室は、サーバーフロアからそう遠くない場所にあった。だが、そこへ至る通路は、すでに小型魔獣の巣窟と化している。
ヴァンガードがプラズマ砲で道を切り開き、俺たちはなだれ込むようにして室内へ転がり込む。
「これです!」
俺は、壁に埋め込まれたセキュリティロッカーを指さし、祈るような気持ちで自分の社員端末をかざす。
ピピッ……認証、失敗。
無機質なエラー音が響き渡る。やはり、俺の権限だけでは開かない。
「くそっ……!」
俺は焦り、管理室の奥へと視線を走らせた。そこには、管理者の執務スペースがある。
通常なら、管理者が常駐しているはずの場所だ。だが、今は誰もいない。
「管理者端末……!」
俺は、部屋の奥に転がっていた、管理者用の端末に駆け寄った。
画面は真っ暗だが、電源は生きている。起動すると、パスワード入力が求められた。
「万事休すか……!」
その時、部隊長が、ひっくり返ったデスクの引き出しを漁り、一枚のメモを見つけた。
「おい、和泉! これだ!」
そこには、殴り書きで「緊急用管理者パスワード:12345678」と書かれている。
「セキュリティ管理、ガバガバかよ……!」
俺は悪態をつきながらも、そのパスワードを入力した。画面が切り替わり、管理者権限でのログインが完了する。
俺は、自分の社員端末から「緊急時使用申請書」を記入して、システム上で提出を行う。
すると、管理者端末の画面に、瞬時に通知が表示される。
「……承認」
俺は、迷うことなく承認ボタンを押した。緊急時なんだ。誰がやったって同じだ。
自分の社員端末に「緊急利用申請が承認されました」という通知が表示される。
それを、セキュリティロッカーの認証パネルにかざすと、電子錠がカチリと音を立てて開いた。
ロッカーの中には、一冊だけ、分厚いファイルが鎮座していた。深紅の表紙に、金文字で『RED BOOK』と刻まれている。
「……あった」
安堵の息を漏らし、俺はそれに手を伸ばした。
だが、その指先がファイルに触れるか触れないか、その瞬間。
―――ガアンッ!
管理室のドアが、外側から巨大な力で吹き飛ばされた。
轟音と粉塵と共に、そこに立っていたのは、一体のヴァンガードだった。
だが、その機体の腹部は大きく破損し、そこから黒い触手が脈打っている。
バイザーの奥で光るのは、あの魔獣と同じ、禍々しい赤い光だった。
「……こいつ、封じ込めチームのヴァンガードか……!」
部隊長が吐き捨てる。
「……やられた屍に、寄生されたか」
赤い光を放つヴァンガードが、プラズマ砲の銃口を、ぎこちなくゆっくりとこちらに向ける。
絶望的な静寂の中、部隊長が、先ほど拾ったあの割れた写真立てを、俺の胸に押し付けた。
「和泉君。君は、なぜ戦う?」
俺が言葉に詰まると、彼は静かに笑った。
「……俺は、ただの軍人だ。この写真の中にあるような、くだらなくて、ありふれた日常を守れれば、それでいい。だが、………どうやら俺の仕事は、ここまでらしい」
それが、最後の言葉だった。
光が放たれるよりも早く、部隊長は自らのシールドを投げ捨て、敵ヴァンガードに向かって一直線に突進していた。
「隊長っ!」
俺の叫びも届かない。
部隊長は、敵の懐に飛び込むと、その破損した腹部に組みついた。そして、自身のヴァンガードの胸部にあるコアユニットをこじ開け、オーバーロードスイッチを起動させた。
「―――俺の部下たちが守ろうとした日常も! お前が守るべき未来も! こんな鉄クズの化け物にくれてやるものかッ! 行け、若いの!」
彼の最後の叫びは、部下への追悼であり、俺たちへの激励だった。
そして、俺に託された、未来への希望の叫びでもあった。
次の瞬間、ヴァンガードのコアが臨界点を超え、全てを飲み込む光となった。
凄まじい轟音と衝撃波が、狭い通路を駆け巡る。俺は咄嗟にリュナを庇い、床に伏せた。
爆炎が収まった後、俺が顔を上げると、そこには何も残ってはいなかった。
黒く焼け焦げた壁と、通路の奥へと続く、ぽっかりと開かれた道だけが。
部隊長が、その命と引き換えに、俺たちの進むべき道を切り開いてくれたのだ。
俺は、唇を強く噛しめ、託されたレッドブックを胸に抱きしめた。悲しみに暮れている時間はない。
部隊長の犠牲を無駄にしないためにも、俺は、再び立ち上がった。その瞳には、新たな決意の光が宿っていた。




