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第5話『薄いピンク色の傘って、復讐』

 朝、目が覚めると、何かが窓ガラスを叩く音が聞こえた。

 よろめく体を起こし、私は窓外に目を向ける。

 雨が降っていた。


 ベッドから降り、自室の扉を開けて廊下へ出る。

 廊下はやけに静かで、耳を澄ますと、くぐもった雨の音しか聞こえなかった。


「もう、出勤……?」


 リビングに入ると、母親の姿はなかった。

 食卓の上に目を向けると、いつものようにお弁当箱は置かれている。

 蓋の上に付箋が貼られており、私は寝ぼけた頭でそれを読んだ。


『雨だから外に出ないかもしれないけど、一応、作りました。母より』


 毎日、登校していないと気が付きながらも、母はお弁当を作ってくれている。

 ――それが嬉しく、同時に心苦しかった。


「マジで、親不孝な娘でごめんなさい」


 誰にも聞かれないように、小さく呟いた。

 大手の食品会社に勤めているシングルマザーの母には、多くの迷惑をかけている。

 いじめのことも、転校のことも、不登校のことも。


 どうやって償えばいいのか、わからない。

 私自身、この先どうすればいいのかも、わからない。


 ベランダの向こうに見える、雨雲に目を向ける。

 分厚いコンクリートのようなそれは、遥か遠くまで続いていた。

 きっと、まだ降り続けるはずだ。


「……今日の復讐は、無しか」


 特に薫子と約束したわけじゃない。

 私たちがわざわざ雨の中に集まる理由もない。

 だから今日、薫子は公園に来ていないはずだ。


 薫子と再会してから数週間。

 約束通り、薫子は週二、三のペースでやって来た。

 毎回連絡をとって集まっているわけじゃない。

 公園へ行ってみて、薫子がいる日もあれば、一日待っても来ない日もあった。

 別にそれでいい。問題無かった。


 窓ガラスに当たる雨粒の勢いが、激しくなる。

 風が強く吹く音が聞こえた。


 ふと、心の中にとある疑惑が浮かぶ。


「……まさか」


 いや、あるわけない。

 この天気だ。

 薫子が来ているわけがない。でも……。


 不安になった私は、自室に戻り、スマホを手に取る。

 LINEを開き、薫子とのトーク欄にメッセージを送った。


『薫子』


『もしかして、今日、来ている?』


 返信は無い。既読も付かない。


『今、学校か?』


『既読だけでもいいから』


『おい』


『なんか言えよ』


『馬鹿』


 保健室にいるなら、すぐに気が付くはず。

 私はその場で立ち尽くし、しばらく待つ。

 しかし、いつまで待っても、トーク欄に変化は起きなかった。


 ダメ押しで電話を掛ける。

 コール音が鳴り続け、薫子は電話に出なかった。


 どうして電話に出ない?

 寝ているのか?

 でも今まで、そんなこと無かった。


「いや、そんなわけがねぇ」


 いくらガキっぽいからと言っても、あいつだって高校生だ。

 わざわざこんな天気の中、公園に来るわけがねぇ。

 それに、私たちは週に何回か会うだけの仲だ。

 こんな心配をすることなんか……


 ……それでも。


「――ああ! クソッ!」


 私は部屋着の上からパーカーを羽織り、玄関へ向かう。

 靴を履き、玄関から飛び出た。

 エントランスを抜け、傘を差し、公園へ向けて走り出す。


 雨脚はさらに強まる。

 前方から風が吹き、大きな雨粒が襲い掛かってくる。

 あっという間にずぶ濡れになってしまった。


「こんな雨の中、いるわけがねぇ!」


 私は大きな声で独りごちながら、走るスピードをさらに上げていく。

 胸が押しつぶされたように苦しい。

 すぐに息が続かなくなる。


「馬鹿だ! マジで馬鹿じゃねぇの!」


 普通に考えれば、わかることだ。

 マジで馬鹿かよ。

 低能かよ。

 いるわけがねぇ。


 当たり前じゃねぇか。

 私たちは、そこまで仲じゃねぇ。

 ちゃんと話し始めて、まだ一か月だ。

 チャラチャラとピアスを着けた性悪女のことなんか。

 どうだっていいはずだ。


 『瀬尾。あんた、あんまり調子乗らない方が良いんじゃない?』


 心臓を一突きされたような、気持ちの悪い感覚。

 あいつらの嘲笑と共に、そんな一言が脳内に響き渡った。


 ……知るか、そんなこと。

 私の足は、止まらない。


 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら――

 あの子が、私のことを待っているかもしれないんだ。


 住宅街を抜けると、目の前に公園へ続く階段が現れた。


「ふっ、ふざけんな!」


 私は立ち止まり、大きく息を吸い、吐いた。

 呼吸を落ち着かせ、私は登り始める。

 そしてそのまま、駆け上がっていった。

 一段一段登るにつれ、足の感覚が無くなっていく。

 私だけ、重力が倍増したような気持ちになってくる。

 傘が雨を受け止める音が、絶え間なく聞こえる。

 もうすぐ、最上段に到着する。


 ――んなこと、あるわけがねぇ。

 こんな雨の中。いるわけが――


「……!」


 最上段手前で、私は立ち止まった。


 目に映る、薄いピンク色の傘。

 濡れた階段の上に座り、傘を差しながら、薫子は私を待っていた。


 そんな姿を見つめ、私はどうしようもない気持ちで胸がいっぱいになる。


「……薫子ッ!」


 私は駆け寄り、彼女の名前を叫んだ。

 薫子は気が付いたように顔を上げ、


「あ、よかった……今日、もう来ないのかと思ったよ……」


 と、ずぶ濡れのまま、微笑んだ。


 雨雲に覆われた、灰色の世界。

 その中で彼女だけが、色づいて見えた。

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