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第4話『洗われるって、復讐』

「産業革命以前、イギリスはどんな産業が盛んだった?」


 私は薫子の教科書を手に持ち、砂場の縁を歩きながら問題を投げかける。

 薫子は砂場のすぐ横にあるブランコに座りながら、しばらく長考し、


「……ぬいぐるみ作り?」


 と、自信なさげに答えた。


「ちげぇ。正解は毛織物工業。――産業革命によって、立場が強くなった奴らのことをなんと言う?」


「……ブルーマウンテン?」


「人だっつってんだろ。正解はブルジョワジー。じゃあ、逆に労働者階級の奴らはなんて呼ばれてた?」


「……プラモデル?」


「プロレタリアート。お前、単語をなんとなくで覚えてんだろ。次の問題――イギリスが世界の工場と呼ばれるようになった理由を述べよ」


「……なんか」


「なんか?」


「なんか……イギリスが……工場ぽかったから」


「こんの馬鹿! アホ! 十九世紀前半に産業革命がほぼ完了し、安価で良質な製品を大量に生産して世界中に輸出していたから! お前、これで期末テスト大丈夫かよ」


「えへへ……まずいかも」


 と、薫子は相変わらずのにへらとした笑顔を浮かべた。

 私は綱渡りをするように、縁の上を両足揃えて歩きながら、ハァ、と、ため息をついた。


「薫子、お前ってこんなに馬鹿だったんだな」


「ばっ……!」


「前回の中間テスト、赤点だらけだったんだろ?」


「……ぐぅ」


 薫子はぐうの音を漏らしながら、うつむいた。


「じゃ、じゃあっ! 今度はわたしが律ちゃんの問題出すよっ!」


「私、別に頭悪くねぇし」


「その見た目で⁉︎」


「んだと⁉」


 私は立ち止まり、思わず叫んだ。

 薫子は頭を抱え、


「ひぃっ! ごめんなさいっ!」


 と、謝った。


「……ったく。ばーか」


 そう呟きながら、私は再び縁の上を歩き始めた。


 期末テストが近いということで、薫子に問題を出していたが、まさかここまでの出来とは。

 ……私に構っているから、勉強についていけなくなったとかじゃないよな?


 風が強く吹き、私の短い髪を揺らす。


 ――でも実際、薫子に負担を背負わせているのは事実だ。


 薫子は週に二、三度ほどの頻度で公園へ来てくれる。

 薫子の最寄り駅から八王子駅まで、決して近いわけではない。

 片道、四十五分程もかかる。

 しかも到着してからは、今度は私との時間だ。

 教室で授業を受けている生徒たちとは、どうやっても差ができる。

 貯めたお小遣いを使わせてしまっているという、交通費の問題もある。


 ……ほんの少しだけ、私は薫子に対して申し訳ないと思った。


 と、その瞬間。


 私は縁の上でバランスを崩し、体が大きく揺れた。

 倒れまいと、私はすぐさま右足をつく。


「――あ」


 短い声が漏れ出た。

 右足がついた先、そこは地面ではなく、砂場。

 しかも、子供たちが作ったであろう砂山に足を突っ込み、靴がまるごと埋もれてしまった。


「うわー……」


 私は呟きながら、砂山から足を引っ張り出す。

 靴も靴下も砂まみれになり、じゃりじゃりとした感触もした。


「り、律ちゃん……! 大丈夫……⁉」


 腰を浮きかけた薫子が、そう訊いてきた。


「ああ。平気だ、平気」


 私は若干の恥ずかしさを覚えながら、靴を脱ぐ。

 逆さにして砂を落とし、再び履こうとした、その時。


「り、律ちゃんっ! ちょっと待って!」


 と、薫子が突然立ち上がり、私の方へと駆け寄ってきた。


「律ちゃんっ! まさか、そのまま履くつもり?」


「……? ああ、そうだけど?」


「ダメだよ! 水道で足を洗って、ちゃんと綺麗にしないと!」


「あ~? んなもん、別にいいだろ。帰ってから足洗えばいいし」


 そう言うと、薫子は小ぶりな頭が外れてしまうのではないかと思うほど、強く横に振り、


「ダメっ! ダメっ! ダメだよっ! 女の子の肌なんだから! ちゃんと綺麗にしないと!」


 薫子の奴、どんくさい癖に、こういうところはうるせぇよな……。


「ほら律ちゃん、洗いに行こう」


 と、薫子は私を水道へ促してきた。


「……めんどくさ」


「いいから! 洗おう!」


「ええ~……」


「早く早く!」


「だる……」


「もう!」


 流石に痺れを切らしたのか。

 薫子はムンッ! と、頬を膨らませ、


「わたしがちゃんと洗ってあげるから!」


 と、言った。


 静寂。

 しばらくの間、私たちは黙ったまま見合った。


「……なんてね。えへへ」


 薫子は冗談だよ、というように笑った。

 ……その笑顔を見ていると、置いていかれたような寂しさを覚えた。


「いいぜ、別に」


 思うよりも先に、私は口に出していた。

 薫子が「え?」と、戸惑ったような声を出す。


「それでいいから。洗えよ」


「汚いよ?」


「汚くなんかねぇ。――いいから。さっさとやれ」


「……うん」


 彼女も動揺しているのか。

 風にかき消されてしまいそうなほど、小さな返事だった。


 私たちは水飲み場まで移動する。

 蛇口を捻ると、水が出てきた。

 ドクドク。私は力強く脈打つ心臓の鼓動を押さえながら、靴下を脱いだ。

 素足に、たくさんの砂粒がついている。


「……じゃあ、流すね」


 恐る恐る、薫子は言った。

 私も短く、「ああ」と、答えた。


 薫子はしゃがみ、私の右足に触れ、流れ出る水の元へ近づける。

 そしてやがて、肌に水が触れた。

 少しだけ冷たい。

 水は右足を覆い、砂粒を洗い流す。

 しかしどうしても、指の隙間に少しだけ残ってしまう。


 薫子は躊躇せず、指の隙間に触れた。

 そして砂粒を洗い流していく。


 順番に、そして、丁寧に。

 薫子は指に触れていく。

 くすぐったい。

 それでも私は黙ったまま、薫子に洗われ続けた。


 自然と私たちは言葉を失う。


 心臓の鼓動が徐々に早まっていく。

 でも、私は知っている。

 これは、不快な心拍じゃない。


「……律ちゃん」


 むしろ、これは――


「律ちゃんっ!」


「えっ?」


 薫子の呼びかけに気が付き、私は我に返った。


「律ちゃんっ! 大丈夫?」


「……あ? 何が?」


「だって顔、すごく赤いよ?」


 私は両手で自らの顔に触れる。

 氷を押し当てたら、溶けてしまうのではないかと思うほど、熱くなっていた。


「あっ、いや、これは、その……」


 しどろもどろになりながら、私は脳を巡らす。

 しかしいつまで経っても、上手い言い訳の言葉は見つからなかった。

 そんな私の様子を眺め、薫子はニマーッと笑い、


「律ちゃん、もしかして照れちゃったの?」


 と、なぜか嬉しそうに訊いてきた。


 ……この野郎。

 いいぜ。そっちがその気なら、受けて立とうじゃねぇか。


「ああ! そうだ!」


「え……?」


「私は! 照れたんだ!」


「ちょ、ちょっと⁉ 律ちゃん⁉」


 薫子は意表を突かれたような顔をし、わたわたと両手を忙しなく動かした。

 攻撃は抜群だ。

 私はとどめを刺すように、堂々と宣言した。


「薫子がこういうことをしてくれて、私は嬉しくなったんだ!」


 遠くの方から、鳥の鳴き声が聞こえた。


 目をぱちくりとさせ、薫子が啞然とした様子で見上げてくる。

 そしてやがて、引いた波が戻ってくるかのように、


「――ふっ、ふへへ……えへへ……」


 と、薫子はとろけたように笑った。


「あはは……ふへへ……」


 しばらくの間、薫子は照れ笑いをし続けた。

 ……私が勝ったはずなのに。

 結局はこいつに勝てないんだな。


「お前、無敵かよ……」


 と、呟き、私は白旗を上げた。


「えへへ……。だって、大好きな律ちゃんからそんなことを言われて、嬉しいんだもん。……ふへへ」


 全く、こいつってやつは。

 私はせめてもの抵抗として、スマホを取り出し、照れ笑いしている薫子の写真を撮った。

 そして、薫子の額にデコピンをした。


「あうっ」


 と、薫子はまともに食らい、自らの額を両手で押さえ、体を震わせて悶えた。


「ハハッ」


 そんな薫子の姿を見て、私はつい、短い笑いが漏れた。

 薫子は「えへへ」と、涙を目に浮かべたまま、顔を綻ばせた。


 ……可愛いかよ、こいつ。


 薫子の笑みを見つめていると、凪いだ海のように穏やかな気持ちになった。

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