第3話『膝枕って、復讐』
翌日。
当然のように、私は登校することができなかった。
激しく鼓動する心臓を押さえ、自販機のボタンを押す。
ガゴンッと音が鳴り、私は取り出し口から炭酸飲料水のペットボトルを取り上げる。
キャップを開け、一口飲む。
たちまち、口内がシュワシュワとした炭酸に支配される。
こびりついた汚れが落ちていくような気がして、気持ちがいい。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
自身を励ますように小さく呟きながら、私は改札へ向かう階段を登る。
今日はこの駅に長居する必要はない。
改札を抜けると、私は駆け足で高台の公園へと向かった。
昨日よりも、少しだけ足取りが軽い。
早く着きすぎたのか。
昨日の階段には、まだ薫子の姿は無かった。
私はいつものように最上段に腰を下ろし、街を見下ろす。
じっと待ち続ける。
何度もペットボトルの蓋を開けて飲んでいたら、あっという間に炭酸が抜けてしまった。
「……今日、来るよな?」
一度、口に出してしまったら、急に不安になってきた。
めんどくさくなって、来るのやめたりしないよな。
今日の朝、向こうで新しい友達ができて、私のことなんか忘れてしまったりしてないよな?
だって、私たちは昨日約束しただけの仲だ。
今日になって行くのが嫌になることくらい、全然あり得る。
――うわ。めちゃくちゃ嫌な想像しちまった。
降り積もる雪のように、心の中に不安が積み重なっていく。
私は落ち着きを無くし、炭酸飲料水のペットボトルを手でもてあそび始めた。
「あっ」
手が滑り、ペットボトルが地面に落ちる。
どこかで見たショート動画のように、ペットボトルが行儀よく、一段一段と転がり落ちていく。
拾おうと腰を上げた、その時――
十数段ほど先で、ペットボトルを受け止める手が現れた。
「り、律ちゃんっ!」
満面の笑みで大きく手を振る、薫子。
朝方の優しい太陽光が彼女を照らし、その輪郭を浮き上がらせる。
まるで、彼女自身が光っているように見えた。
「……おせーよ、バカ」
「えへへ」
一段飛ばしをしながら、薫子は駆け上がってくる。
彼女は約束通り、私の目の前に現れてくれた。
◇◆
「律ちゃん、どーぞ……」
隣に座る薫子は恥ずかしそうに言いながら、開いた弁当箱をこちらへ向けてくる。
中身は茶色やベージュ色のクッキーだった。
「これ、薫子が?」
「うん。時々、おばあちゃんと一緒に作ったりするんだ。――あっ、アレルギー!」
「いや、無い。から、食べる」
私は手を伸ばし、クッキーを一枚手に取る。
円形だが、少しだけ形がひしゃげている。
一口食べると、素朴な甘みが口いっぱいに広がった。
「……どう?」
恐る恐る、薫子が上目遣いで訊いてきた。
答えようと咀嚼していると、
「や、やっぱり、手作りのお菓子なんて美味しくないよね……。ご、ごめんね……。普通にコンビニでお菓子買ってきた方がよかったよね……」
と、感想を言う間も与えず、薫子は弁当箱を片付けようとした。
「おい、待て」
「え?」
薫子が身動きを止めたとき、私は素早く手を伸ばし、もう一枚クッキーを食べた。
「り、律ちゃん、無理しなくてもっ!」
「ふや」
「ふや?」
飲み込み、口の中が空になったところで。
「いや、大丈夫」
「ギリ飲み込めるくらいのマズさってこと?」
「そうじゃねぇよ! ……う、」
緊張でつい、言葉が詰まる。
「う……」
「ウサギの糞みたいな味?」
「そういうことでもなくてさ……う、」
「う?」
薫子が私をじーっと見ながら、首を傾げる。
ダメだ。ここまで来て、はぐらかすわけにもいかねぇ。
私は息を吸い、勇気を振り絞って、言った。
「だから! 私が言いてぇのは……う、美味いってこと!」
つい、全身が熱くなる。
きっと風邪をひいたときみたいに、顔も真っ赤になっているはずだ。
クソ。何、恥ずかしがっているんだよ。
付き合い出したカップルじゃねぇんだぞ。
「あ、ありがとうっ!」
そんな私の気持ちもよそに、薫子は嬉しそうにお礼を言った。
「おばあちゃんのレシピのクッキー、美味しいから。律ちゃんに食べて欲しかったんだ」
「おばあちゃんと仲、いいんだな」
「うん。お父さんもお母さんも仕事で忙しいから。おばあちゃんっ子なんだ」
なんか、納得。
「私はもう何年も会ってねぇな……。もしかしたら、死んでっかも」
「……仲悪いの?」
「私の母親とな。私の両親、駆け落ち婚だから。――まぁ、父親はどっかで若い娘を捕まえて、出て行っちまったけどな」
自嘲気味にそう言ってみた。場を暗くさせないつもりだった。
でも、薫子の反応を見て、話したこと自体を後悔した。
薫子の顔には、先ほどまでなかった影が差しており、「……ごめんね。おばあちゃんの話なんかして」と、謝ってきた。
「わたし、そういうところあるから……。のんきなくせに、人の嫌なところに踏み込んじゃったりしちゃうから……」
「べ、別に気にすんなよ! 辛いとか、そういうんじゃねぇし……」
そうフォローしてみるも、薫子は暗い顔のままだ。
重たい沈黙が、ゆっくりと流れていく。
衣擦れさえ聞こえない。
木々のざわめきだけが、耳に入ってきた。
私たちはまだまだ、お互いのことを知らない。
薫子に対して、どこか緊張してしまう。
被害者同士のはずなのに。
手を伸ばせば、触れることができるのに。
すぐ隣に座っているのに。
私たちの間には、確かに存在している。
深く、深く、底の見えない溝が。
「――うわっ!」
突然、私は肩を掴まれる。
そして薫子へ向けて、上半身を横に倒される。
太ももの上に私の頭が乗っかり、薫子に膝枕される格好となった。
「か、薫子⁉」
私は困惑したまま見上げる。
薫子は、いつものにへらとした笑顔を浮かべていた。
「えへへ……ちょっと、勇気出してみた」
あ、やばい。この感じ。
これ、法に触れてないよな。
なんか、未成年者はやってはいけない感じがする。
私は動揺し、すぐさま太ももから頭を上げてしまった。
「……わたしの膝枕、やっぱり嫌?」
「い、いや、別に、そういうわけじゃなくて! まさか、膝枕される日が来るとは思わなくて!」
「えっ⁉ 律ちゃん、したことあるの⁉」
「ねぇよ! 私の性分的に、する方だなって思ってただけだ!」
「へっ⁉」
「あ⁉ ……あっ」
思っていたのも、相当変だな。
私はすぐに薫子から顔を背ける。
顔を見られたくない。
別にいいだろっ! 思っていたことくらい!
「……気にしなくていいよ。だって律ちゃんは今までずっと、頑張ってきたんだから。今日のこれは、ご褒美」
ご褒美。そんな大層なもんを受け取れるほど、立派なことをした覚えはない。
「私はただ首を突っ込んで、勝手に痛い目に遭っただけだ。……こんな、お前の恩に付け込むような真似……できるわけがねぇ……」
「――それでも!」
薫子が私の言葉に割って入ってきた。
「律ちゃんは、わたしを助けてくれた! ……それで、十分だよ。名誉だよ。勲章ものだよ。人間国宝だよ」
「最後の一つ、意味が違っているじゃねぇか」
「えへへ。……律ちゃん、どうぞ」
と、薫子は自身の太ももへと促してくる。
「……これも復讐か?」
「うん、もちろん。だから、ね?」
ポン、と、薫子は自らの太ももを軽く叩いた。
……ええい! もう、どうにでもなれ!
私は覚悟を決め、上半身を倒し、再び薫子の太ももの上へ頭を置いた。
頬に薫子のスカートが触れる。
昨日嗅いだ匂いが充満しており、頭がクラクラする。
心臓が口から飛び出してしまうほど、ドクドクと、激しく鼓動した。
「ピアス、痛くねぇか?」
「大丈夫だよ」
私はしばらくの間、薫子に膝枕された。
野外の階段でこんなことをするなんて。
もし、今誰かが通ったら、なんて言い訳すればいいんだよ。
「律ちゃん」
突然、頭を触れられる。
温かく、柔らかい、薫子の手。
いじめが原因で切った髪を、一本一本愛でるように。
優しく、撫でられる。
少し、くすぐったい。
不思議と、激しかった鼓動が徐々に落ち着いてくる。
彼女の優しさに包まれていくような、そんな感覚。
今だけは少しだけ、幸せが怖くなかった。
「律ちゃん」
もう一度、名前を呼ばれる。
「なんだよ」
「わたしの名前、呼んでくれる?」
「……薫子」
「律ちゃん」
「薫子」
「律ちゃん」
「んだよ、これ」
「えへへ」
そのまま薫子は、私の頭を撫で続ける。
彼女に名前を呼ばれると、少し嬉しかった。
「薫子」
「律ちゃん、何――、あっ」
私は薫子にスマホのレンズを向け、シャッターを切る。
気の抜けた、良い表情を撮ることができた。
「今日の一枚、これで決定だな」
「うぅ……律ちゃん、酷いよ……」
そう言いながらも、薫子は微笑んでいた。




