第2話『押し花って、復讐』
「ありがとう……ひっく」
泣きすぎてしゃっくりが出た薫子は、ハンカチを受け取り、涙を拭いた。
「ったく、なんでてめぇが泣くんだよ」
「だって……だってぇ……、悔しいんだもん。瀬尾ちゃんも、わたしも……ずっと、あの人たちに苦しめられてる……。わたしもまだ、教室……行けない。……ずっと、保健室に……いる……」
保健室登校。
出席日数がどうにでもなるというのは、そういうことか。
薫子はもう、いじめられることは無い。
それでも、あいつらが待っている教室へ行くことができない。
だから、保健室へ行き、そこで一日過ごす。
――そうか。私だけじゃなかったんだ。
標的が私になり、いじめられなくなった薫子自身も、今までずっと苦しめられていた。
私たちはいじめに遭った時から、一歩も踏み出すことができていない。
あの地獄のような時間に苦しめられ、抜け出せずにいる。
こんな地獄が、一生続くのか?
「瀬尾ちゃん、復讐、しようよ」
「……ふくしゅう?」
私はつい、復唱した。
薫子の言っている意味が、わからなかった。
「復讐……あの人たちにしようよ」
「ば、馬鹿言うなって!」
衝撃で思わず、声が裏返った。
「そんなことをしたら、あいつらと同じところまで落ちるぞ! 私はそんなことをしたくねぇ! てめぇにも、してほしくねぇ!」
今度は薫子が私の話を理解できていないのか、キョトンとした表情で首を傾げてきた。
「瀬尾ちゃん、違うよ」
「何が⁉」
「仕返しとか、そういうこと、わたしもしたくない」
「……なら、復讐ってなんだよ」
「わたしが瀬尾ちゃんを幸せにすること」
数分前と同じことを、薫子はもう一度、言った。
「わたしはここに通って、瀬尾ちゃんを幸せにする。そして、証明するの。引っ越しても、学校に行けなくても、瀬尾ちゃんは立派に幸せになれるって」
薫子の涙が徐々に引いていく。
彼女の顔に残っていたのは、二筋の涙の跡だけ。
「あの人たちが後悔するほど、瀬尾ちゃんは幸せになるの。そして、一生心の中で言ってやるの。――わたしは幸せになった。だから、あなたたちがいじめていた時間は、全部無駄でしたって」
それが、あいつらに対する復讐。
「……って、どうかな?」
先ほどまでの勢いをすぐに失い、薫子は不安げな表情を向けてきた。
私は黙ったまま、先ほどの薫子の話について考える。
あいつらに復讐してやりたい。
でも、それと同じくらい、幸せになることが怖い。
それは触れただけで溶けてしまう、氷細工のようなものだから。
それが割れて砕けるところを、私はもう二度と見たくない。
なら、どうすればいい……。
その時、風が吹いた。
木々がざわめき、桜の花びらが紙吹雪のように舞い落ちる。
パンッ! と、私の頭上で音がした。
見上げると、薫子が両の手のひらを合わせたまま、静止している。
「せ、瀬尾ちゃんっ! 見て!」
なぜか嬉しそうな表情で言い、薫子は私の目の前にしゃがみ込んだ。
顔の前に置かれた、薫子の手。
同年代にしては少し小さな、白い手。
それがゆっくりと開かれる。
その中、手のひらは――桜の花びらが二枚あった。
汚れも折り目もついていない、綺麗な花びら。
これを見せるために、彼女はわざわざ……
「まだ、言ってなかったよね」
そう言われ、私は顔を上げる。
「あの時、助けてくれて、本当にありがとう。――あなたのおかげで、わたしは生きています」
優しく包み込むような微笑みを、彼女は見せた。
――ああ、もう、本当に。
これに、どうやって抗えばいいというんだろう。
彼女の微笑みを見て、やっと気がついた。
私は幸せが怖い。
それと同時に、幸せになりたい、その気持ちを諦めたくない、と、思っていた。
そのために、私は――
「薫子」
私は、彼女の名前を呼んだ。
じっと、私は彼女と目を合わせる。
宝石のような、大きくて綺麗な薫子の瞳。
「私を、幸せにしてくれるか?」
それは一世一代の覚悟を使った、告白だった。
「……うんっ! もちろん!」
薫子は嬉しそうに首を縦に振り、私の手を取る。
私は導かれるように立ち上がった。
すぐ目の前に、薫子の顔。
「きっと、絶対に、律ちゃんを幸せにするっ!」
心臓が脈打ち、目頭が熱くなる。
下の名前を呼ばれただけで、ここまで嬉しいなんて。
幸せって、こんなに凄いものだなんて、知らなかった。
これはダメだ。
きっと、中毒になってしまう。
「約束、してくれるか?」
私は無意識的に、薫子の手を握り返す。
「うん、約束する」
「嫌になっても、逃がさないからな」
「律ちゃんこそ、覚悟してね」
「私、結構面倒くさい女だぞ」
「平気だよ」
「口も悪いし、気も利かねぇし」
「わたしも怖がりで、臆病で」
「友達も少ねぇし、不登校だし」
「勉強できなくて、頼りなくて」
「そんなことねぇよ!」
「律ちゃんも、そんなことないよ」
「……どうして、私にそこまで良くしてくれるんだよ。私なんか――」
「だって、わたし」
トクン、と、繋いだ手越しに薫子の心臓の鼓動が伝わってくる。
「律ちゃんのこと、大好きだから」
薫子の頬は、赤く染まっていた。
◇◆
日が落ち始め、影が伸びていく。
私たちはその後、階段の最上段に座り、たわいもない会話をし続けた。
「じゃあ、律ちゃん。わたし、もう帰るね」
「あ、ああ……」
思わず、若干の名残惜しさを含んだ返事をしてしまう。
「大丈夫だよ。明日、必ず来るから」
と、薫子は私の頭を優しく撫でてきた。
「おい! ガキじゃねぇんだよ!」
「ひぃ! ごめんなさい……」
涙目になり、縮こまってしまう薫子。
「あ、いや……そういう子供っぽいの、やめろよ」
「……律ちゃん、怒ってない?」
「へ? あ、ああ。怒ってねぇよ」
「えへへ。――あ、そうだ」
そう言い、薫子はわたわたと慌ただしくスカートのポケットをまさぐる。
今度はしっかりと持ってきたらしく、すぐにスマホが出てきた。
「……律ちゃん、嫌じゃなければ……」
「んだよ」
薫子が胸の前でスマホを抱え、控えめな調子で言った。
「連絡先、交換したいなって……」
「わーったよ」
すぐさま返事をし、私は自分のQRコードをスマホに表示させ、薫子へ向ける。
「いいの?」
「いいに決まってんだろ。……っていうかお前、私の連絡先を知らずに、よくここまでたどり着けたな」
「転校先を木村先生に聞いたから……。何日も探すつもりだったけど、駅のホームで会えて、よかった」
と、言い、薫子はいそいそとQRコードを読み込む。
薫子のアカウントが表示され、すぐに向こうから熊のキャラクターのスタンプが送信されてきた。
私はお返しとして、デロリアンのスタンプを送る。
……初めて送る相手にこれは違ったか?
「これでね、二人だけのアルバムを作れるみたいで……いい?」
薫子が上目遣いで、訊いてくる。不意にドキリとし、
「い、いちいち聞くな! 馬鹿!」
と、中学生男子のような反応をしてしまった。
「今日の一枚はこれにしたくて……」
そう言いながら、薫子は脇に置いてあった一冊の教科書を手に取る。
開くと、二枚の桜の花びらが見事に押し花になっていた。
薫子は膝の上に教科書を置き、スマホで押し花の写真を撮ろうとする。
しかし、自身の影が押し花の上へ落ち、撮りにくそうだった。
「ほら、貸せよ」
私は薫子からスマホを取り上げ、影にならない位置から写真を撮る。
その際、薫子の頭上がすぐ目の前にある姿勢となり、ふんわりと花の蜜のような良い匂いがした。
――私って、こんなに変態ぽかったか?
スマホを返すと、薫子は「律ちゃん、ありがとう」と、相変わらずの笑顔を向けてきた。
学校では気がつかなかったが、これが彼女のデフォルトの表情らしい。
「律ちゃん、アルバムの名前はどうする?」
「んなもん、今日の日付とかにしとけ」
「そんなのじゃあ、つまらないよ! もっと、思い出に残るような……うーん」
薫子は頭を抱え、悩み始めてしまった。
私の性分的に、こういうのはパッと決めたいところだ。
「じゃあ、これでどうだ?」
私は再びスマホを奪い取り、入力し、薫子に向けて見せる。
「……ふふっ、律ちゃんらしいね」
「私らしいじゃねぇ。私たち、らしいんだ」
青い背景のトーク欄に出来上がる、一つのアルバム。
そこには私と薫子、それぞれの意志が籠った名前が付けられていた。
『ざまーみろ! バーカ‼ 二〇二六年四月二十日』
このアルバムを私たちの未来、そして、いじめてきたクソどもへ捧げる。




