第1話『再会って、復讐』
私は、『登校』に殺される。
朝の八王子駅のホーム。
その端で、私はうずくまっていた。
バタン! と、大きな音を立てながら扉が閉まり、電車が定刻通りに発車する。
私――瀬尾律をホームに残して。
「……クソ」
私はうずくまりながら、呪うように呟いた。
春になったはずなのに、まだ朝は肌寒い。
ベリーショートによって露出する首筋や、スカートから伸びた素足に風が吹き付け、少し辛い。
耳に付けている大量のピアスが、氷のように冷たかった。
「クソ……クソ……」
忌々しい記憶が、無遠慮に頭の中で流れる。
――彼女たちの笑い声。
便器の中に突っ込まれた弁当箱。
机の上に書かれた落書き。
髪を引っ張られたときの、あの痛み。
心臓の鼓動がどんどん激しくなっていく。
全身に倦怠感を覚え、ワンピース型の制服がやけに重い。
「……動けよ」
私は、石のように固まった足を拳で殴る。
「動けッ!」
もう一度、今度は少し強く殴る。
太ももに鈍い痛みが走る。
それでも、両足は動かない。
ただ、登校するだけなのに。
どうして、私にはできないんだ。
うぜぇ。こんな自分が嫌になる。マジでキモい。
――と、その時。
「瀬尾ちゃん?」
弱々しく、控えめな声が聞こえた。
「だ、大丈夫?」
声の主が私に近寄り、優しく背中を擦ってくる。
私は息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
私の近くにしゃがみながら、心配そうな表情で顔を覗き込んでくる、一人の少女。
袖が余ったブレザーに、背中まで伸びた、ふんわりとした長い髪。
そこには――矢野薫子がいた。
「なんで……てめぇが……」
わけがわからなかった。
どうして、こんなところに薫子がいる?
「……どうして……ここにいる?」
私はもう一度、薫子に向けて訊いた。
薫子は目を伏せ、一瞬、逡巡した様子だったが、すぐに質問に答えた。
「ど、どうしようか迷ったんだけど……、ちゃんとお礼言わなきゃと思って……、それでね、瀬尾ちゃんに会いに来たんだ」
えへへ……と、照れ隠しのように、薫子は笑った。
にへらとした、その笑顔を見たとき、体が軽くなったような気がした。
薫子のさらに向こう、天井から吊り下げられたアナログ時計が目に入る。
時刻は午前八時五十分。
朝のホームルームが終わり、既に一時間目が始まる時間となっていた。
◇◆
「瀬尾ちゃん、本当にもう大丈夫?」
「……ああ。もう、平気」
「つ、辛かったら言ってねっ! わたしが何とかするからっ!」
「ああ……」
返事が不満だったのか。
薫子はズイッと私の方へ体を寄せ、
「ほ、ほんとだからねっ! ちゃんと教えてねっ!」
と、言ってきた。
わんぱくな子犬のような明るさの、薫子。
私の記憶の中では、もっと大人しいイメージだった。
二人っきりで話すと、のびのび話すことができるのだろうか。
「……わーったよ」
私は、ハァとため息をつき、めんどくさそうに返事をした。
薫子は満足そうに頷く。
そして再び、にへらと、気の抜けた笑顔を向けてきた。
満開の桜の木に囲まれた公園。
そこへ続く、細い階段。
その最上段に、私と薫子は並んで座っている。
八王子駅のホームで薫子と再会した後、私の案内で、高台にあるこの公園まで来た。
一刻も早く、あの駅のホームから抜け出したかったから。
「ここ、良い公園だね」
そんなことを言いながら、薫子が上へ手を伸ばし、舞い散る桜の花びらを掴み取ろうとする。
しかし、花びらはするりと薫子の手を避け、地面へ落ちた。
「……ここは私の安全地帯だ」
ふと、私は呟いた。
「安全地帯? お母さんがよく聞く、あれ?」
「ちげぇよ。バンドじゃねぇ。言葉通りの意味だ」
「……誰からも、傷つかない場所」
「ああ、そうだ。――私はここでしか、上手く呼吸することができねぇ」
学校に行けない。
電車に乗れないから、駅にもいられない。
息が詰まるから、家にもいたくない。
だから私は、この公園に来る。
ここなら静かで人も少なく、安全だ。
欠点があるとすれば、それは、公園からの景色。
街の向こうに見える、山並み。
それは途切れる事なく、左右にひたすらに伸びていき、この辺一帯をぐるりと取り囲んでいる。
八王子市に引っ越したとき、盆地を初めて見た私はこう思った。
――牢獄みたい、と。
でも、そんなものは目を瞑ればいい。
重要なのは、絶対に他者から傷つけられない安全な場所だということだ。
「瀬尾ちゃんはここで、何をするの?」
と、薫子が無邪気に訊いてきた。
「……別に、何もしねぇ」
「何も?」
「ああ、何も」
何もしない。
時間が過ぎるのを待つ。
私は、檻に閉じ込められている。
あの頃から、一歩も進めていない。
――半年前のあの日、私はいじめの現場を目撃した。
いじめられていたのは、薫子だった。
その時、私にとって彼女はただのクラスメイトで、話したことも無かった。
でも、いじめられるほど悪い奴じゃない。
私はそう思った。
だから、私は間に入って薫子を助けた。
それからだった。
いじめの矛先が、私に向いたのは。
物を隠され、制服を汚され、髪を切られた。
そして、二年生へ進級すると同時に、私は八王子市の私立校へと転校した。
しかし、転校してから一度も登校できていない。
行こうと思うと、足がすくんでしまう。
そして電車を見送り、私は逃げるように、この公園へやって来る。
「無様だよな」
と、自らを嘲笑するように、言った。
私は薫子に全ての責任を押し付けたりしない。
厄介なことに首突っ込んだのは、私だ。
全部、私の責任だ。
……そう思い込むことが、私なりの現実逃避だった。
沈黙。
チラリと横に座る薫子の方を見る。
彼女は何を言うべきなのかわからず、黙り込んでいた。
木々のざわめきが私たちを覆う。
……ああ、そうだな。
こんなことを薫子に言っても、しょうがない。
そう思い、自分の発言を後悔したその時。
「――だ、だったら!」
と、決心したように、薫子は突然立ち上がった。
「わたしが! 瀬尾ちゃんを幸せにする!」
「……はぁ?」
「毎日! ――は、無理だけど……、でもっ! なるべくこっちに来るよっ! 出席日数なら、なんとかなるしっ! ここでもっと沢山話そうよ! 遊ぼうよ!」
薫子がいまだ通っている新宿区の高校からここまで、一時間以上かかる。
それをわざわざ学校を休んでまで来るなんて……
「なんでてめぇが――」
「わたし、瀬尾ちゃんに救われたからっ!」
必死になった薫子が、言葉を被せてきた。
「大きな恩があるからっ! 仁義を通さないといけないからっ! だからっ!」
「んなことすんな」
思わず、叱責するような言い方になった。
「で、でもっ!」
「しゃしゃり出てくんな。殺すぞ」
薫子が息を呑んだのが、すぐにわかった。
「勝手に会いに来て、幸せにするとか言って、余計なことすんなよ。マジで」
いじめから救った少女が会いに来てくれたというのに。
彼女を傷つけたくないのに。
こんなこと、言いたくない。
「――私、怖いんだよ。幸せになるのが」
もし、彼女が会いにやって来て、幸せになったら。
もしまた、幸せが崩壊するようなことが起きたら。
「私はきっと、今度こそ、立ち直ることができねぇ」
だったら、不幸のままでいたい。
うつむき、足元にあるぺしゃんこになった桜の花びらを見つめる。
薫子と目を合わせることができない。勇気が出ない。
時が止まったような沈黙が、しばらく流れた。
「……うっ」
突然、漏れ出たような声が聞こえた。
目の前のコンクリートに水滴が落ちる。
顔を上げると、薫子が泣き出していた。
「な⁉ はぁ⁉」
私は思わず、驚きの声を上げた。
なんでこいつが泣き出す⁉
「ひっく……うぅ~……」
ポロポロと、大粒の涙が薫子の瞼から溢れ落ちた。
薫子は鼻を啜りながら、スカートのポケットをまさぐる。
しかし、ピタリと動きを止め、
「……ハンカチ、忘れたぁ」
と、小さな子供のように、困った顔を向けてきた。
「何やってんだよ……」
まったく、絶妙に緊張感が続かねぇやつだ。
私は自分のハンカチを取り出し、薫子に渡した。




