第9章 ラジ兄の力
サイは木の枝から枝へと飛び移りながら、ゴリラの姿を探し続けていた。
やがて、その姿を見つける。
サイは木の葉の陰へ身を隠し、静かにゴリラの様子をうかがった。
ゴリラはサイに背を向けたまま、地面の上で何かをしているようだった。
何をしているのかは見えない。
ただ、その場から動かずにいた
(気のせいかな……。)
(でも、あのゴリラ……。)
サイは目を凝らして見つめる。
(大きくなってる…… !)
気のせいではなかった。
ゴリラの体は、ゆっくりと、しかし確実に巨大化していく。
それだけではない 。
その姿までも変わり始めていた。
まるで怪物のようなゴリラへと変貌していく。
(な、何これ……。)
(何が起きてるんだ……?)
怪物が動いた。
その瞬間、サイにも地面の様子が見えた。
サイは息をのむ。
地面一面が血で染まっていた。
大量の血。
さらに、人間の体の一部があちこちに散らばっている。
怪物に食べられた跡だった。
首だけがなく、胴体だけ残った遺体まで転がっている。
(な……何なんだよ、これ……!?)
サイは言葉を失った。
怪物はゆっくりとサイのほうを振り向く。
赤く光る目。
鋭い牙。
サイの体は一瞬で硬直した。
自分の気配に気付かれたのだ。
その視線は、もう普通の猛獣ではなかった。
(逃げなきゃ!)
サイはすぐに枝から枝へ飛び移りながら逃げ始めた。
怪物は大きな咆哮を上げる。
その声は森中へ響き渡った。
カイや試験官たちも、その声を聞いていた。
「何だ……あの鳴き声は?」
カイは驚いた表情でつぶやく。
怪物は先ほどの遺体を持ち上げると、そのまま簡単に飲み込んだ。
体はさらに巨大になっていく。
姿もますます恐ろしいものへ変わっていく。
そして怪物はサイを追って走り出した。
サイは恐怖のあまり、全力で逃げ続けた。
---
カイと試験官たちは、聞こえてきた叫び声の方向へ全力で走った。
全員が周囲を警戒しながら、真剣な表情で森の中を進んでいく。
「どこだ?」
「何が起きたんだ?」
一人の試験官が言った。
「止まれ!」
突然、カイが叫ぶ。
全員がその場で足を止めた。
「どうしたんですか?」
別の試験官が尋ねる。
カイは答えなかった。
ただ、目の前の光景を信じられないというように見つめていた。
道には受験者たちの遺体があちこちに倒れていた。
血が至る所に飛び散り、体の一部を失った遺体もある。
あまりにも凄惨な光景だった。
「な……何が起きたんだ……。」
「どうしてこんなことに……。」
カイは愕然とした。
その時、一人の試験官が携帯電話を持ったまま口を開く。
「援軍はすでに到着しています。」
「ほかの受験者を素早く捜索できる者たちを派遣したそうです。」
「助けて……。」
その時、かすかな声が聞こえた。
全員が一斉に振り向く。
昨日サイを見下していた少年が、体を震わせながらこちらへ歩いてきた。
「助けて……。」
「お願いだ……。」
少年は恐怖に震えながら言った。
「生存者だ!」
誰かが叫ぶ。
「無事だったのか!」
「ほかにも生き残っている者はいるのか?」
カイが尋ねた。
「あの化け物が……。」
「ほとんどの受験者を殺しました……。」
少年は震える声で答える。
「ほぼ全員……。」
「殺されました……。」
その場にいた全員が言葉を失う。
あまりにも衝撃的な話だった。
「本当です……。」
その時、ほかにも数人の受験者が姿を現した。
隠れていた場所から出てきた彼らも、少年と同じように恐怖で震えていた。
「ここから出たい……。」
「体をバラバラにされたまま死にたくない……。」
「引き裂かれて死ぬなんて嫌です……。」
彼らは涙を浮かべながら言った。
「急げ!」
「全員を避難させろ!」
「試験は今すぐ中止だ!」
カイは試験官たちへ命じた。
「ですが、主任メンターのロッキーさんがまだ……。」
一人の試験官が言う。
「そんなことは気にするな!」
「早く全員を連れて行け!」
カイは強い口調で言った。
「は、はい!」
試験官たちは生き残った受験者たちの避難を始めた。
カイは不安そうに周囲を見回す。
まるで誰かを探しているようだった。
その時、はっとする。
「しまった!」
「サイがいない!」
---
サイはなおも化け物から逃げ続けていた。
化け物はとてつもなく速く、一度大きく引き離したはずなのに、あっという間に距離を縮めてくる。
「まずい……。」
「もっと速く走らないと。」
サイはそう言った。
サイがさらに距離を取ると、化け物は怒り狂った。
突然、ものすごい勢いで走り出す。
そして、サイが飛び移っていた木へ体当たりした。
大木は音を立てて倒れ、サイも一緒に落ちてしまう。
サイは驚き、とっさに頭を守った。
「ドォン!」
化け物はたった一度の体当たりで大木を倒してしまった。
サイの上には折れた枝が何本も落ちてきた。
幸い、大きなけがはなかった。
サイは急いで枝を押しのけ、立ち上がる。
(ちくしょう……。)
(どうしてこんなことに……。)
サイは疲れ切ったままそう思った。
(早く逃げないと。)
一歩踏み出そうとした、その瞬間――
化け物がサイの目の前へ飛び降りてきた。
サイはその場で固まる。
化け物はあまりにも巨大で、恐ろしく、おぞましい姿だった。
どうすればいいのか分からない。
恐怖で体が震える。
死が目の前まで迫っていた 。
化け物は再び大きく咆哮する。
そして腕を高く振り上げ、サイへ振り下ろそうとした。
サイは恐怖に震えていた。
(お母さん……。)
(僕、どうすればいいの……。)
その時――
突然、一筋の光が二人の周囲を駆け巡った。
サイも化け物も驚き、その光の動きを目で追う。
黄色い光だった。
信じられないほど速い。
やがて光はサイの前で止まる。
そこに立っていたのは、一人の人間だった。
サイは目を開き、自分の前に立つその背中を見る。
「ラジ兄……?」
サイは言った。
間違いない。
ラジだった。
真剣な表情で化け物を鋭く見つめている。
(どうして……。)
(さっきあんな速さで走れたんだ……。)
サイは不思議に思った。
化け物は再び大きく咆哮し、さらに恐ろしい姿を見せる。
そしてラジとサイへ向かって突進してきた。
「ラジ兄!」
「気をつけて!」
サイは言った。
ラジは何も答えない。
静かに片手を前へ向ける。
その瞬間――
ラジの手から雷が放たれた。
雷は一直線に化け物へ命中する。
化け物は苦しそうに叫んだ。
サイは目の前の光景に見入っていた。
やがて雷は消える。
化け物の体は黒く焼け焦げていた。
しかし、まだ生きていた。
体は弱っているものの、なおラジを睨みつけている。
(まだ倒れないか……。)
ラジは心の中でそう思った。
そして両手を合わせる。
すると、まばゆい光がゆっくりと体からあふれ始めた。
やがて、ラジの体の中から一つの武器が現れる。
ラジはそれを握った。
マンダウだった。
サイは信じられないという表情で見つめる。
(どうして……。)
(こんなことが……。 )
「下がれ。」
ラジはそう言うと、マンダウを化け物へ向かって振り下ろした。
激しい雷撃が化け物を包み込む。
まぶしい光が森全体を照らした。
サイは思わず目を閉じる。
化け物は苦しそうに叫び続けた。
そして――
「ドォォン!!」
化け物は爆発した。
サイはゆっくり目を開く。
目の前の出来事が信じられなかった。
ラジは小さく息を吐く。
そしてマンダウを胸へ近づけた。
すると、不思議なことにマンダウは再び体の中へ吸い込まれていった。
サイは呆然と立ち尽くす。
あまりにも衝撃的で、何も言葉が出なかった。
ラジはサイのほうへ振り返った。
「ど、どうしてラジ兄がここに……。」
サイが尋ねようとした、その時――
「お前、ここで何をしている!」
ラジは怒った声で言った。
サイは少し驚く。
「どういう意味?」
「僕、試験を受けているだけだよ。」
サイは答えた。
「試験を受けているのは分かっている。」
「だが、ここまで来るはずがない。」
ラジは先ほどより少し落ち着いた声で言った。
しかし、まだ怒っていた。
「ここって、どれくらい奥なの?」
サイが尋ねる。
「ここは森の奥百五十キロだ。」
「試験官から百キロより先へ行くなと言われただろう!」
ラジは苛立った様子で言った。
「ひゃ、百五十キロ!?」
サイは驚く。
周囲を見回す。
改めて見ると、ラジの言う通りだった。
「じゃあ……。」
「これからどうするの?」
サイが尋ねる。
「カイがここへ来て、俺たちを外まで連れて行くのを待つしかない。」
ラジは答えた。
---
夜になった。
空には月と無数の星が輝いていた。
ラジは二人で集めた枝の山へ人差し指を向ける。
指先から小さな光が走った。
次の瞬間、小さな電流が枝へ流れ込む。
サイは目を輝かせながら、その様子を見つめていた。
やがて枝へ火が移る。
少しずつ炎が大きくなり、たき火が燃え始めた。
「わあ、すごい。」
サイは手を叩きながら言った。
「今はまだ夜八時だ。」
「もう少しすれば、みんなが迎えに来るはずだ。」
ラジは腕時計を見ながら言う。
「今日は寒いね。」
「昨日の夜はこんなに寒くなかったのに。」
サイが言った。
「当然だ。」
「ここは森の中だからな。」
ラジは火へ枝をくべながら答える。
「お前はいつも上着を着ているのに、どうして寒がるんだ?」
ラジが尋ねた。
「僕は暑さには強いけど、寒さにはあまり強くないんだ。」
サイは答えた。
「じゃあ、ラジ兄がいつも白衣を着ているのも寒いから?」
サイはもう一度尋ねる。
「いや、そうでもない。」
「ただ着るのが好きなんだ。」
ラジは答えた。
「そうなんだ。」
「でも、どうして森は外より寒いの?」
サイが尋ねる。
「昼間は太陽の光が木の葉を通り抜け、地面や植物を温める。」
「日が沈むと、その地面や植物は蓄えた熱を空気へ放出する。」
「しかし森には植物が多く、空気の流れが妨げられる。」
「そのため放出された熱は逃げにくく、地表付近の温度は下がる。」
ラジは落ち着いた口調で説明した。
「それに、森は湿度も高い。」
「水蒸気は蒸発するときに熱を吸収する。」
「それも気温を下げる理由の一つだ。」
「もし森が標高の高い場所にあれば、千メートル高くなるごとに、およそ六度ずつ気温が下がる。」
ラジは説明を終えた。
そしてサイを見る。
サイはまた黙っていた。
(あっ……。)
(こいつには分からないかもしれないって、忘れてた。)
ラジは心の中でそう思った。
「だ、大丈夫だよ、ラジ兄。」
「ちゃんと分かったから。」
サイは慌てて言う。
「少しだけ。」
「今日の試験はどうだった?」
ラジは話題を変えた。
「今までたくさん勉強してきたんだろ。」
「まさかメンターの問題に答えられなかったなんてことはないよな。」
「答えられたよ。」
「でも、ソフィア姉さんが出した問題は、僕が勉強したものとは違ってた。」
サイは答える。
「物語を読んで分析する問題だったんだ。」
(どんな問題だったんだ。)
(ソフィア姉さんが、わざとそんな問題を出したのか……。)
ラジはそう思った。
「勉強したことは試験には出なかったけど。」
「そのおかげで、ラジ兄の説明は前より分かりやすくなったよ。」
サイは笑って言った。
ラジは小さくうなずく。
「勉強は大事だ。」
「だから続けろ。」
そう言いながら、枝を火へ入れた。
サイはラジの顔をじっと見つめる。
(気のせいかな。)
(それとも本当かな。)
(ラジ兄って、あまり笑わない気がする。)
(笑っても、本当にたまにだけなんだよね。)
「どうした?」
ラジが突然尋ねる。
サイははっとする。
「な、何でもない!」
「ちょっと寒いなって思っただけ。」
サイは答えた。
「だから、たき火を作ったんだ。」
ラジは静かに言った。
「そういえば兄ちゃん。」
サイは焚き火を見つめながら尋ねた。
「兄ちゃんは、どうしてあんなすごい力を持っているの?」
「すごい力?」
ラジはサイを見る。
「どういう意味だ?」
「さっき……。」
「兄ちゃん、手から雷を出してた。」
サイはそう答えた 。
ラジは先ほどの戦いを思い出す。
あの怪物と戦った時のこと。
そして焚き火をつけた時のことも。
「それは……。」
「今のお前が知る必要はない。」
ラジは静かに言った。
「え?」
サイは首をかしげる。
「ゴールド・オーガニゼーションの正式な隊員なら、みんな俺と同じような力を持っている。」
「普通は十四歳になった時に教わる。」
「あるいは、十分な資質があると判断された時だ。」
「十四歳になっていても、まだ資格がないと判断されれば教えてもらえない。」
ラジはそう説明した。
「でも俺は、お前の前で力を見せてしまった。」
「だから、お前はこの年で知ることになった。」
「じゃあ、兄ちゃんは一年前にその力を習ったの?」
サイが尋ねる。
「いや。」
「俺は十二歳で教わった。」
ラジは答えた。
「そんなに早く!?」
サイは驚いた。
「その年齢なら、まだ入ったばかりで訓練中のはずなのに。」
「どうしてそんなに早かったの?」
「資格があると判断されたからだ。
ラジは短く答える。
(そんなに早いなんて……。 )
サイは信じられなかった。
「じゃあ、僕も兄ちゃんみたいに雷の力を使えるようになるの?」
サイは期待した表情で尋ねる。
「人によって能力は違う。」
「俺と同じ属性になるとは限らない。」
ラジは答えた。
「それじゃあ、さっきの武器は?」
サイはさらに尋ねる。
「ああ、俺のマンダウのことか。」
ラジはそう言うと、両手のひらを合わせた。
すると再び武器が姿を現した。
「わあ!」
「かっこいい!」
サイは目を輝かせる。
ラジはそのまま武器をサイに見せた。
「わあ……。」
「すごくいいデザインだね。」
「どこで買ったの?」
サイが尋ねる。
「買ったものじゃない。」
「自分の属性から自然に生まれる武器なんだ。」
ラジは答えた。
「へぇ、マンダウなんだ。」
「僕は将来、剣がいいな。」
サイはそう言いながらマンダウをラジへ返した。
「おーい! ラジ! サイ!」
誰かの声が聞こえた。
武器を体の中へ戻したラジとサイは、その声の方向を振り向く。
聞き覚えのある声だった。
やはり、そこへたどり着いたのはカイだった。
「兄ちゃん!」
サイは嬉しそうにカイのもとへ駆け寄った。
「ずいぶん遅かったな。」
「もう何時間も待っていたぞ。」
ラジが言った。
「待ってたって?」
「お前なら、その雷のような速さでサイを連れて外へ出られただろ。」
「それに、この森のこともよく知ってるじゃないか。」
カイが言う。
「試験時間が終わる前に俺がサイを外へ連れ出したら、失格になる可能性がある。」
ラジは落ち着いた口調で答えた。
「試験はもう中止になった。」
「それに、あんなことがなかったとしても、試験は夕方には終わる予定だったんだ。」
カイが言う。
「そうか。」
「じゃあ、戻ろう。」
ラジはそう言って歩き出した。
「おい! 待てよ!」
カイはサイと一緒にラジの後を追った。
---
サイとラジが無事に見つかったあと、二人を乗せたバスはウィルダネスの森を後にした。
参加者たちは皆、疲れ果てて眠っていた。
起きているのは、窓際に座るサイと、その隣で本を読んでいるラジだけだった。
「兄ちゃん。」
「兄ちゃんは、僕が試験に合格できると思う?」
サイが尋ねる。
「どう思う?」
「試験を受けたのはお前だろう。」
ラジは答えた。
「僕は合格できると思う!」
「点数もすごく良かったし!」
サイは誇らしそうに言った。
「それならよかった。」
「結果を楽しみにしている。」
ラジは薄く微笑んだ。
サイはうなずく。
そして窓の外へ目を向けた。
ウィルダネスの森があるウィルダネスの丘の方を見つめる。
その時だった。
一人の男が丘の上に立っていることに気付く。
男はバスの方をじっと見つめていた。
(あそこに人がいる。)
(誰だろう……。)




