#06|何年会ってなくても、友達って言っていい?
八年ぶりに会ったのに、
昔と同じ呼び方で、昔と同じお酒を頼める。
今回は、そんな再会のお話です。
その日の八時過ぎ、店は静かだった。カウンターに一人、奥のテーブルに二人。凛は洗い終えたグラスを拭いていて、満は明日の仕込みのメモを書きかけたまま、ペンを耳にかけていた。
ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、紺のジャケットを着た男だった。入口で足を止めて、店の中をぐるりと見回す。初めての客がよくやる動きだった。満は「いらっしゃいませ」と言いかけて、途中で止まった。
男のほうが先に口を開いた。
「……ミツ?」
満は、耳にかけていたペンを落とした。
「うわ。カズ?」
「うわって何だよ」
「いや、うわだろ。何年ぶりだよ」
「七年?」
「八年じゃね」
「どっちでもいいわ」
カズは笑って、カウンターの端の席に座った。満はペンを拾いながら、自分でも少し笑っているのに気づいた。
「なんで分かったの、ここ」
「人づてに。ミツが店やってるって」
「誰から」
「誰だっけ。忘れた」
「忘れんなよ」
凛が、グラスを拭く手を止めずにこちらを見ていた。ミツ、という呼び方に引っかかったのだろう。この店でその名前で呼ばれることはない。
「何飲む」
「何があんの」
「だいたいある」
「じゃあ、ハイボール」
「昔からそれだよな」
「今もだよ」
満はグラスに氷を落とした。手が勝手に動く。八年ぶりでも、この男の注文だけは考えなくても出てくるのが、少し可笑しかった。
グラスを置くと、カズは一口飲んで、「うま」と言った。
「いい店じゃん」
「小さいけどな」
「ミツっぽい」
「どういう意味だよ」
「なんか、入ったら誰かいそうな感じ」
満は返事をしなかった。代わりに、カウンターの端のコースターを揃えた。
「今、何してんの」と満は聞いた。
「普通に会社員。こっちには仕事で来てて、ホテル近くでさ。看板見たら、あ、これかって」
「へえ」
「子ども、来年小学校」
「は?」
「は? じゃないだろ。八年あれば生まれて育つよ」
「……そっか」
満は、自分がそれを知らなかったことに少し驚いた。驚いたことにも、少し驚いた。
カズはスマホを取り出して、一枚だけ写真を見せた。公園の滑り台の上で、小さな子どもが両手を上げている。カズに似ているような、似ていないような顔だった。
「似てないな」
「嫁に似てんの」
「よかったな」
「どういう意味だよ」
凛が、奥のテーブルに注文を取りに行った。戻ってくるとき、満の顔をもう一度見た気がした。
「駅の反対側のファミレス、覚えてる?」とカズが言った。
「始発待ってたとこ」
「そう。あそこ、もうないらしい」
「マジか」
「マジ。今、ドラッグストア」
「あそこのドリンクバーで、何時間粘ったと思ってんだよ」
「店員に顔覚えられてたもんな」
「覚えられてた。最後、何も言わずにおしぼり二個くれるようになってた」
カズが声を出して笑った。満も笑った。凛がこちらに背を向けたまま、少しだけ肩を揺らした気がした。
「ミツさ」
カズがグラスを揺らしながら言った。
「音楽、もうやってないの」
「やってない」
答えは早かった。自分でも思ったより早かった。
「そっか」
カズはそれ以上聞かなかった。満も、それ以上言わなかった。店のスピーカーから、小さな音量で古い曲が流れていた。二人とも、それには触れなかった。
カズは二杯目を半分ほど残したところで、時計を見た。
「明日朝早いんだわ」
「おう」
「会計」
「いいよ、今日は」
「いや、払うって。ミツの店なんだから」
カズは財布を出して、きっちり二杯分を置いた。満はそれ以上は押さなかった。
「じゃあな」
「おう。また」
「また来るわ」
ドアベルが鳴って、カズの背中が見えなくなった。満はしばらく、閉まったドアを見ていた。それから、カズが座っていた席のグラスを下げた。半分残ったハイボールの氷が、もう小さくなっていた。
満はそれを流しに空けて、グラスを洗った。いつもより丁寧に洗っていることに、洗い終わってから気づいた。
「友達なんですか?」
横から凛が聞いた。
満はグラスを拭きながら、少し考えた。
「……友達、かな」
「かな、って」
「いや、友達だよ。……だと思う」
凛は布巾を持ったまま、満を見た。
「何年も連絡取ってないなら、元友達じゃないですか」
「元友達って言葉、きついな」
「きついですか」
「きついよ。元って」
凛は少し首をかしげた。納得したのか、していないのか、分からない顔だった。
九時を過ぎたころ、みのりと悠真が一緒に入ってきた。駅で偶然会ったらしい。いつもの席に座ると、満はいつものように二人のグラスを用意した。
「さっき、店長の昔の友達が来てました」と凛が言った。
「知り合い」と満。
「さっき友達って言いました」
「言ったっけ」
「言いました。かな、って付けてましたけど」
みのりが、おしぼりを広げながら満を見た。
「へえ。昔の?」
「昔の。八年ぶりくらい」
「すごいね。よくここ分かったね」
「人づてだって。誰からか忘れたって」
悠真はグラスを受け取って、一口飲んだ。
「で、友達なのか、知り合いなのか」
「そこ、今こいつと揉めてる」
「揉めてないです。聞いただけです」
凛はカウンターに布巾を置いた。
「だって八年ですよ。その間、連絡取ってないんですよね」
「取ってない」
「一回も?」
「……一回も」
満は少し考えてから付け足した。
「向こうからも来なかったけど」
「どっちも?」
「どっちも」
凛は、何か言おうとして、口を閉じた。
「本人同士が友達だと思ってるなら、それでいいだろ」
悠真が、あっさりと言った。
凛が、少し意外そうな顔をした。
「悠真さん、今日は条件出さないんですか」
「出してどうする」
「この前、紙ナプキンに表書いてたじゃないですか」
「あれは家賃の話だ」
悠真はグラスを置いた。
「連絡の回数で決まるもんでもないだろ。毎週会ってても、何も知らない相手もいる」
満は、へえ、と思った。こういうとき、悠真はもっと細かく分けてくると思っていた。分けないのが悠真なりの答えなのか、単に今日は面倒なのか、満には分からなかった。
「みっくん」
みのりが、グラスの縁を指でなぞりながら言った。
「その人の話するとき、ちょっとゆっくり喋るね」
「そう?」
「うん」
みのりはそれ以上言わなかった。満は、みのりの顔を見た。何かを見抜いた顔ではなかった。見たままを言っただけ、という顔だった。
「なんでかは、分かんないけど」
「俺も分かんない」
「そっか」
みのりは、それで引き下がった。いつもなら、もう一歩だけ踏み込んでくるところだった。
凛がスマホを取り出して、画面を見ていた。何かを打つわけでもなく、ただ見ている。しばらくして、ぽつりと言った。
「……私、人のこと言えないですね」
「真帆ちゃん?」とみのり。
「年一なんで。高校のときは、ずっと一緒にいたのに」
凛はスマホを伏せた。
「店長のほうが、まだマシかもしれないです。向こうから来てくれたし」
「マシって何だよ」
「マシはマシです」
満は笑った。凛は笑わなかったが、口の端が少しだけ動いた。
「でもさ」と満は言った。「来てくれたのは、たまたまホテルが近かったからだよ」
「たまたまでも、看板見て入ってきたんですよね」
「……まあ」
「入らないこともできたじゃないですか」
満は返事をしなかった。代わりに、みのりのグラスに水を足した。みのりは「ありがと」と言って、それ以上は何も言わなかった。
店のスピーカーから、さっきと同じくらいの音量で、別の曲が流れていた。奥のテーブルの二人が、会計を頼んだ。満は伝票を持っていって、戻ってきた。
「連絡先、交換したんですか」と凛が聞いた。
満は、手を止めた。
「……してない」
「え」
「向こうも聞かなかった」
「……二人とも」
「な」
満は笑った。悠真は小さく鼻で息を吐いた。みのりは、グラスの水を一口飲んだ。
凛は、しばらく満の顔を見ていた。
「友達なんですね」
満は、少し考えた。
「……たぶんな」
凛はそれ以上何も言わず、布巾を手に取って、カウンターを拭き始めた。
ドアベルが鳴って、新しい客が入ってきた。スーツの男性が二人、少し酔った声で「二人いけます?」と聞く。
「どうぞ。お好きな席に」
満はいつもの声で言った。二人は、カウンターの端の席に座った。さっきまでカズが座っていた席だった。
満はおしぼりを二つ出して、「何にします」と聞いた。
連絡先は交換しない。
次に会う約束もしない。
でも、看板を見つけたら入ってくる。
そういう友達も、いるのかもしれませんね。
それはそれとしまして、
久しぶりに会いたい人、思い浮かびましたか?




