#04|仕事辞めたいって言ったら、甘えって言われた
「仕事辞めたい」
そう言っただけなのに、
いつの間にか「辞める・辞めない」の話になってしまうことがあります。
今回は、そんなお話です。
「毛先、前回よりちょっと傷んでますね」
みのりが言うと、鏡の中の佐伯さんは「あ、やっぱり」と笑った。
「最近ドライヤー、途中でやめちゃうんですよ。半乾きで寝ちゃって」
「帰り、遅いんですか」
「遅いっていうか、帰ってからなんにもしたくない感じです」
二か月に一度、土曜の午前中に来る人だ。担当するようになって、もう何回目になるだろう。最初のころは雑誌を読んでいたのが、いつからかずっと喋るようになった。喋っていないと寝てしまう、と本人は言う。
みのりはコームで毛先をすくって、指の間に挟んだ。
「今日は一センチくらい切って、傷んでるところ落としますね。長さはあんまり変えないで」
「それでお願いします。変わりすぎると、会社で何か言われるんで」
「何か言われるんですか」
「『イメチェン? 何かあった?』って。何もないのに」
佐伯さんは笑って、鏡越しにみのりを見た。みのりも笑った。ハサミの音が、しばらく続いた。
「そういえば」
佐伯さんが、ふと思い出したような声で言った。
「こないだ、会社の先輩とご飯行ったときに、冗談っぽく『もう仕事辞めたいです』って言ったんですよ」
「うん」
「そしたら、『それは甘えだよ』って」
佐伯さんは、また少し笑った。笑いながら言うことにしている、という顔だった。
「私も三年目がいちばんきつかった、って。みんなそこ越えてるんだから、って」
「……そっか」
みのりはハサミを止めずに、毛先を揃えた。
「それは、しんどいね」
口から出たのは、敬語が抜けた声だった。佐伯さんは気にした様子もなく、「ですよねー」と言った。
「別に、先輩が悪いとかじゃないんですけど。先輩も、たぶん心配して言ってくれてるんですよ。辞めたらもったいないよ、みたいな」
「うん」
「でも、甘えって言われてから、自分でもそうなのかなって思っちゃって。みんな普通にやってるのに、私だけしんどいって言ってるのかなって」
鏡の中の佐伯さんが、自分の膝の上のケープを指でつまんでいた。みのりはそれを見て、少しだけ手を緩めた。
「日曜の夕方になると、もう月曜のこと考えてるんですよね。ご飯食べてても、なんか、ずっと月曜が後ろにいる感じで」
「それは、疲れるね」
「疲れます」
みのりは、佐伯さんの左側へ回った。サイドの髪を耳にかけると、耳の後ろのあたりが少し乾燥していた。前回はなかった気がする。
「仕事の内容は、嫌いじゃないんですよ」
「そうなんだ」
「嫌いじゃないんです。ただ、なんか、ずっと追いかけられてる感じで」
みのりは、少し考えてから言った。
「そこまで疲れてるなら、無理して続けなくてもいいと思うけどな。佐伯さん、ちゃんとしてるし、次もきっと――」
「え」
佐伯さんが、鏡の中で目を丸くした。
「みのりさん、辞める前提で話してます?」
「あ」
みのりの手が止まった。
「ごめん、なんか」
「いや、いいんですけど」
佐伯さんは笑った。さっきまでと同じ笑い方だったけれど、少しだけ時間をかけて、それから言った。
「でも、辞めるって決めたわけじゃないんですよね」
みのりは、ハサミを持ったまま佐伯さんの後頭部を見た。
「辞めたいって言ったけど、何を辞めたいのか、自分でもよく分かんなくて。会社なのか、今の部署なのか、今の感じなのか。……今のまま、ずっとこれが続くのは嫌、みたいな」
「……うん」
「先輩には甘えって言われるし、友達には『辞めちゃいなよ』って言われるし。どっちも、なんか違うんですよね」
みのりは、何か言おうとして、やめた。
さっき自分が言いかけたのは、たぶん友達の言葉と同じ場所だった。
「すみません、なんか重くなっちゃって」
「ううん」
みのりはハサミを置いて、ブラシを手に取った。
「重くないよ」
それ以上は、何も足さなかった。ドライヤーの音が、しばらく二人の間を埋めた。
仕上がった髪を合わせ鏡で見せると、佐伯さんは「あ、いい。いつもの感じ」と言った。みのりにとっては、それがいちばん嬉しい言葉のひとつだった。
受付で会計をして、佐伯さんはいつものようにスマホを取り出した。
「次、いつにします?」
「いつも通りで。二か月後の土曜」
画面を見ながら、佐伯さんは少しだけ迷うような顔をした。それから、いつもと同じ時間を指さした。
その夜、みのりが満の店に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。
カウンターにはもう悠真がいて、凛がグラスを拭いていた。満が「おう」と言って、みのりの前に水を置く。みのりは座って、上着を脱いで、しばらくその水を飲んでいた。
「疲れてんのか」と悠真。
「ううん。そうでもない」
みのりはグラスを置いた。
「今日、ちょっと、分かったつもりになったかも」
「何を」
「お客さんの話。……辞めたいって言ってた人がいて」
名前は出さなかった。三人も聞かなかった。
「先輩に『辞めたい』って言ったら、『甘え』って言われたんだって。それで、しんどいねって話を聞いてたんだけど」
「辞めたいなら辞めればいいじゃん」と満が言った。
凛が、グラスを拭く手を止めた。
「店長、それ前も言ってませんでした?」
「何を」
「行きたいなら行けば、って。三万のとき」
「……言ったっけ」
「言いました」
満は口を開けて、閉じた。みのりは、少しだけ笑った。
「私もね、最初はそっちに寄ってたの。そこまで疲れてるなら無理しなくていいよ、って言いかけて。そしたら、『辞める前提で話してます?』って」
「言われたのか」と悠真。
「言われた」
悠真はグラスを揺らした。
「辞めたいのが会社なのか、今の状態なのかで、話が全然違うだろ」
「それ。それを私、勝手に会社のほうにしちゃってたの。本人、何を辞めたいのか分からないって言ってたのに」
凛が、布巾をたたみながら言った。
「辞めたいって言っただけで、人生の決断みたいにされるの、ちょっと嫌ですね」
「嫌?」
「私、課題多いときとか『もう無理』ってよく言いますけど、別に大学辞めたいわけじゃないですし」
満が、凛を見た。
「……『もう無理』って、辞めるって意味じゃなかったのか」
「店長、今までどう受け取ってたんですか」
「ちょっと心配してた」
凛の手が、一瞬止まった。
「……それは、すみません」
「いや、いいけど」
悠真が、小さく鼻を鳴らした。みのりはそれを見て、グラスの縁を指でなぞった。
「『甘え』って言葉は便利なんだよ」と悠真が言った。「理由を聞かなくて済む」
「先輩、心配して言ってくれたのかもって、本人は言ってたよ」
「そうかもしれない。心配してても、理由は聞いてない」
みのりは、少し考えた。
「……辞めちゃいなよ、も、同じかもね」
悠真は答えなかった。否定もしなかった。
満が、みのりのグラスに水を足した。
「で、その人、結局どうするって?」
みのりは、グラスを見たまま言った。
「何も決めてないよ」
凛が顔を上げた。
「決めてない。まだ辞めないし、辞めないって決めたわけでもない」
誰も、すぐには何も言わなかった。
満は布巾を手に取ったが、何も拭かなかった。悠真はグラスを置いた。凛は、たたんだ布巾をもう一度広げかけて、そのまま置いた。
「次の予約だけ、いつも通り入れて帰ったよ」
みのりはそう言って、スマホを取り出した。予約の画面を開くと、二か月後の土曜日、午前中のいつもの時間に、佐伯さんの名前が入っていた。
みのりはしばらくそれを見てから、画面を閉じた。
今回、個人的に好きなのは、
佐伯さんが二か月後の予約をいつも通り入れて帰るところです。
何も決めていないけれど、
とりあえず次の予定だけはある。
そういう時間も、たぶん必要なんだろうなと思いながら書きました。
それはそれとしまして、
皆さんは「ただ聞いてほしい」とき、ありますか?




