#22|二回目には、名前がある
駅で財布を拾ってもらった。
お礼を言って、
名前も聞かずに、それで終わり。
……のはずでした。
今回は、そんな二人のお話です。
駅の階段を駆け下りているとき、凛の鞄から、何かが滑り落ちた。
気づいたのは、改札を抜けてからだった。鞄の口が、半分開いている。中を探っても、財布がなかった。
走って階段を戻ると、踊り場のあたりに、誰かがしゃがんでいた。落ちていた財布を拾い上げて、きょろきょろと周りを見ている。
「あの、それ」
凛が声をかけると、相手は顔を上げた。同じくらいの年頃の、知らない女性だった。
「あ、落としましたよね。階段のところに」
「すみません、ありがとうございます」
凛は財布を受け取って、頭を下げた。相手も、軽く頭を下げ返した。
「急いでたので、気づかなくて」
「分かります。私も、よく落とします」
それだけだった。お互い、特に名乗ることもなく、どちらからともなく会釈をして、反対方向へ歩き出した。凛は、電車の中で財布の中身を確かめて、全部そろっていることにほっとして、それきり忘れた。
三週間ほどたった、ある夜のことだった。
満の店に、四人組の客が入ってきた。大学生くらいの年頃で、賑やかに会話をしながら、カウンターの端の席に座った。凛は、いつもどおりおしぼりを出して、注文を取った。
四人目の注文を聞こうとしたとき、凛の手が、少しだけ止まった。
どこかで見た顔だった。
はっきりとは思い出せない。ただ、何かが引っかかった。
「……ご注文、お決まりですか」
「あ、同じのでいいです」
相手は、特に凛のことを気にする様子もなく、メニューを閉じた。凛は、グラスを作りながら、何度かその人のほうをちらちらと見た。
思い出したのは、グラスを運んでいる途中だった。
階段。財布。急いでいたとき。
声をかけるべきか、凛は少し迷った。勤務中に、一度きりの相手へこんなことを言うのは、少し変かもしれない。それでも、グラスを置くころには、口のほうが先に動いていた。
「……あの」
凛は言った。
「もしかして、三週間くらい前、駅の階段で、財布拾ってもらいませんでした?」
相手は、きょとんとした顔で凛を見た。それから、しばらく考えて、ぱっと表情が変わった。
「……あ! 財布の人だ」
「財布の人、です」
「嘘、こんなところで」
四人組の残り三人が、何事かという顔でこちらを見た。
「この子、前に駅で財布拾ってくれた子で」
「拾ってもらったの、私です」
「あ、逆だ。私が拾ったんだった」
相手は笑いながら訂正した。凛も、少しだけ笑った。
「お礼、ちゃんと言えてなかった気がして」
「言ってもらいました。普通に」
「そうでしたっけ」
カウンターの中から、満がこちらを見ているのに気づいた。凛は、少しだけ気恥ずかしくなって、グラスを拭く手を動かした。
「お名前、聞いてませんでしたよね」
相手が言った。
「聞いてないです」
「私、七海です」
「……凛です」
その夜、七海たちのグループは、二時間ほど店にいた。凛は普通に注文を取り、普通にグラスを運んだ。
一度、七海が友人に聞かれていた。
「この店、よく来るの」
「初めて。凛さんに聞いてみる?」
凛は、少しだけ間を置いてから、おすすめを一つ答えた。七海がそれを頼むとき、凛も「七海さん、それ結構しっかり甘いので」と返した。
それ以外は、七海が凛に話しかけることもあれば、話しかけないこともあった。
閉店間際、四人が会計を済ませて席を立った。七海が、コートを羽織りながら、椅子の下に目を落とした。
「あ、スマホ」
椅子の脚のそばに、スマホが落ちていた。七海がしゃがもうとするより早く、凛がそれを拾い上げていた。
「はい、これ」
「……ありがとうございます」
七海は、スマホを受け取って、一瞬、凛の顔を見た。
「これ、二回目ですね」
「二回目です」
七海は、少し笑って、コートのポケットにスマホをしまった。
「じゃあ、また」
「また」
四人が出ていくと、ドアベルの音が店に残った。
満が、グラスを片づけながら言った。
「知り合いだったの、あの子」
「前に、財布拾ってもらっただけです」
満は、それ以上何も聞かなかった。凛は、空いた椅子の下を見た。もう何も落ちていなかった。
今回、個人的に好きなのは、
最後の、
「じゃあ、また」
「また」
です。
次に会う約束はしていないのに、
一回目にはなかった言葉でした。
それはそれとしまして、
偶然もう一度会えたらちょっとうれしい人、思い浮かびますか?




