#19|鍵、預かっといて
特別なことは、何も言われませんでした。
ただ、
「これ、持ってて」と鍵を渡されただけ。
今回は、そんな小さな出来事のお話です。
「宅配便、二時間しか受け取り時間なくて」
満はエプロンを外しながら言った。
「今日中に受け取らないと、明日また再配達になるんだよ。悪いんだけど、ちょっと店番、頼める?」
「いいですけど」
凛は、洗い終えたグラスを棚に戻しながら答えた。
「何時に戻りますか」
「九時前には戻る」
満は、レジの下から小さな鍵を取り出して、カウンターの上に置いた。
「裏の鍵、念のため持ってて。閉めるときの分」
「閉めることあるんですか、今日」
「ないと思うけど。念のため」
満は、それだけ言うと、エプロンを丸めて、店を出て行った。ドアベルの音が、少し長く尾を引いた。
凛は、鍵を見た。
いつもは満のポケットにある鍵だった。差し出されたとき、特別なことは何も言われなかった。ただ、カウンターの上に置かれただけだった。
凛は、それをエプロンのポケットに入れて、グラスを拭き続けた。
最初の客は、七時過ぎに来た。田村さんだった。
「あれ、マスターは」
「今日、ちょっと用事で。私だけです」
「へえ、珍しいな」
田村さんは、いつもの席に座った。凛は、いつもの一杯を出した。
「これ、味、いつもと同じか?」
「同じです。作り方は覚えてます」
「そうか」
田村さんは、それ以上何も言わずに、一杯を飲んだ。飲み終えると、「うまい」と一言だけ言って、二杯目を頼んだ。
八時になる少し前、若いカップルが入ってきた。メニューを見て、少し迷っている。
「あの、これ、甘さ控えめにできますか」
聞かれて、凛は少し考えた。満なら、いつもどう答えていただろう。レシピを厳密に覚えているわけではない。ただ、カクテルを作る手順は、何度も見てきた。
「できます。シロップ、半分にしますね」
凛は、カウンターの内側で、いつもより少し慎重にシロップを量った。半分、と言ったものの、正確に半分にする方法は決まっていない。目分量で、いつもより少なめに入れた。
出来上がったグラスを、客の前に置いた。
「ありがとうございます、おいしいです」
カップルの片方が言って、凛は「よかったです」とだけ返した。満なら、ここでもう少し何か気の利いたことを言うのかもしれない。凛には、それは思いつかなかった。代わりに、ただ静かにグラスを磨いていた。
八時半、レジの引き出しが、少し開きにくくなった。何度か開け閉めしているうちに、レールの部分に何か挟まっているのに気づいた。凛はしゃがみ込んで、隙間を覗いた。小さな輪ゴムが、レールの奥に入り込んでいた。
爪の先で、それを取り出す。レジは、また滑らかに開くようになった。
これくらいなら、自分で直せる。凛はそう思って、輪ゴムをゴミ箱に捨てた。前なら、満が戻るまでそのままにしていたかもしれない。
九時十分前、ドアベルが鳴った。
満だった。段ボール箱を一つ抱えている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
満は、箱をカウンターの内側に置いて、店の中を軽く見回した。客は、田村さんとカップルが一組ずつ。特に変わった様子はなかった。
「レジ、開けにくくなかった?」
「ちょっとなってました。輪ゴムが挟まってたので、取りました」
「あ、それか。前から気になってたんだよな」
満は、エプロンをつけ直しながら、それだけ言った。凛がどうやって輪ゴムを見つけたかも、どう取り出したかも、聞かなかった。
田村さんが、満に気づいて声をかけた。
「マスター、今日の子、いい仕事するな」
「でしょう」
満は、特に驚いた様子もなく、当然のように答えた。
カップルが会計を済ませて、席を立った。片方が、凛に向かって言った。
「甘さ控えめ、ちょうどよかったです。ありがとうございました」
「よかったです」
二人が店を出ていくと、満が言った。
「さっきの、甘さ控えめ?」
「はい。頼まれたので」
「うまくいった?」
「たぶん」
「そっか」
満は、それだけ言うと、それ以上は聞かなかった。
十時を過ぎて、田村さんが帰り、店は少し落ち着いた。凛は、預かっていた鍵を、カウンターの上に置いた。
「これ、返します」
「ああ、悪いね」
満は、鍵を受け取って、いつものようにポケットに入れた。それから、ふと思い出したように言った。
「次、また頼むかも。宅配、再配達しつこいから」
「いいですよ」
凛は、それだけ答えて、グラスを棚に戻した。
満は、段ボール箱を開けて、中身を確かめ始めた。新しいグラスが、何個か入っていた。
「これ、割れたやつの補充」
「割れたんですか、また」
「また」
凛は、少しだけ笑って、開いたばかりの箱から、グラスを一つ取り出した。洗い場へ運ぶ前に、光にかざして、傷がないか確かめる。
満は、それを見て何も言わなかった。ただ、新しいメニューの仕込みを、いつも通り始めていた。
今回、個人的に好きなのは、
「今日の子、いい仕事するな」
と言われた満が、
「でしょう」と普通に返すところです。
褒められて驚くでもなく、
最初からそう思っていたみたいなのが、なんだか満らしいです。
それはそれとしまして、
皆さんは「任せてもらえたな」と感じた瞬間ってありますか?




