#17|彼、うちに来た日から
「実は最近、一緒に暮らし始めたんです」
いつものお客さんから、
みのりがそんな話を聞きました。
今回は、新しく始まった暮らしのお話です。
「実は最近、一緒に暮らし始めたんです」
シャンプー台で、橋本さんがそう言ったとき、みのりの手が一瞬止まった。
「あ、そうなんですね」
指の力を戻しながら、それ以上は聞かなかった。橋本さんの声が、いつもより少し弾んでいる気がした。
「緊張しませんでした? 急に一緒に暮らすの」
「しましたね。最初、全然そばに来てくれなくて」
「そういうの、ありますよね。距離感、探り合うっていうか」
「そうなんです。夜も、なかなか隣に来てくれなくて」
みのりは、泡を丁寧に流しながら、小さく頷いた。
「今は、隣にいてくれるんですか」
「今はもう、べったりです。名前呼んだら、すぐ来ます」
「可愛らしいですね」
「可愛いんです。目も合わせてくれなかったのが嘘みたいで」
「ご家族には、もう紹介したんですか」
「しました。実家にも連れて行って」
「早いですね、そこまで」
「すぐ馴染んでくれて」
タオルドライをしてから、席に座ってもらって、髪を切り始める。
「名前、聞いてもいいですか」
「あ、はい。ハルっていいます」
「ハルさん。可愛い名前ですね」
「気に入ってるんです」
みのりは、ハサミを動かしながら、少し踏み込んでみた。
「ハルさん、初めて会ったときは、どんな感じだったんですか」
橋本さんは、少し懐かしそうに答えた。
「最初は、しばらくそばに来てくれなくて寂しかったです」
「今はもう平気なんですね」
「平気です。そばにいないと、なんか落ち着かないみたいで」
みのりは、はさみを止めて、少し笑った。
「そこまで来ると、もう本当に家族ですね」
「そうなんです。私も、こんなに大事になるとは思ってなかったです」
その言葉に、みのりは少しだけ胸が温かくなった。
「生活、変わりました? 一緒に住むようになって」
「変わりました。夜、一人じゃなくなったので」
夜、一人じゃないって、いいなあ。
「いいですね」
「いいんですけど、ちょっと構いすぎちゃって。仕事中も気になっちゃいます」
「写真とか、あまり載せないんですか。SNSで」
「ちょっと恥ずかしくて、まだ載せてないです。ちゃんとしたのが撮れたら、って思ってて」
みのりは、その慎重さに、なんだか誠実さを感じた。
みのりは、仕上げのスプレーを手に取りながら、少し思い切って聞いた。
「……この先も、ずっと一緒にいる感じですか」
橋本さんは、少し考えるように、鏡の中で目を細めた。
「ずっと一緒にいると思います。というか、もう一緒にいるつもりで暮らしてるので」
「素敵ですね。将来のこと、考えてるってことですもんね」
橋本さんが、鏡の中で目を丸くした。
「将来?」
「あ、いえ、そのくらい真剣なんだなって」
「……ハルとの将来ですか?」
「はい」
橋本さんは、しばらくきょとんとしていた。それから、堪えきれずに吹き出した。
「ハル、柴犬ですよ」
みのりの手が、完全に止まった。
「……え」
「保護犬です。先月からうちに来て」
橋本さんはスマホを取り出して、写真を見せた。茶色い柴犬が、こちらを見上げている一枚だった。
「……可愛い」
みのりは、それしか言えなかった。
「みのりさん、もしかして、彼氏だと思ってました?」
「……思ってました。ご家族に紹介したって話も」
「あれ、ハルを実家に連れて行った話です。うちの実家、もともと柴犬いるので」
「そっちですか」
言われてみれば、そうだった。人間だとは一度も言っていない。みのりが、勝手に埋めていただけだった。
「すみません、変なこと聞いて」
「いえ、全然。むしろ、ハルのこと、そんなに真剣な相手みたいに聞いてもらえて、なんか嬉しかったです」
橋本さんは、写真をもう一枚見せた。初めてうちに来た日のものらしい。段ボールの隅で、体を丸くしている茶色い塊が写っていた。
「これが、最初にそばに来てくれなかった日です」
みのりは、それを見て、さっきまでの会話を思い出した。しばらくそばに来てくれなくて寂しかった、というのは、この段ボールの隅の写真のことだったのだ。
「これは、今朝の」
橋本さんが、次の写真を見せた。布団の真ん中で、腹を出して眠っている一枚だった。
「べったりって、こういうことだったんですね」
みのりが言うと、橋本さんは嬉しそうに頷いた。
「そうなんです。もう、布団の主導権、完全にハルです」
「主導権」
「私、端っこで寝てます」
先ほどまで、恋人との生活の話として聞いていたものが、みのりの中で少しずつ形を変えていく。仕事中も気になる、というのも、まだSNSに載せていない、というのも、全部この丸っこい生き物の話だったのだ。
「名前呼ぶと来る、っていうのは」
「ご飯の時間だけ、異常に早いです」
「それ、愛じゃなくてご飯じゃないですか」
「否定はできないです」
みのりは、少し笑った。さっきまでの、胸が温かくなった感覚も、笑ってしまえば同じ場所にちゃんと残っていた。ただ、宛先だけが違っていた。
「……可愛いですね、本当に」
「でしょう」
橋本さんは、最後にもう一枚、スマホを見せた。散歩中らしい、耳をぴんと立てて何かを見上げている一枚だった。
「みのりさんの反応、見せたら、ハルも喜ぶと思います」
「見せるんですか、本人に」
「本人、スマホ見ても分からないと思いますけど」
「そうですよね」
みのりは、もう一度写真を覗き込んだ。
「……仕上げ、いきますね」
会計を終えて、橋本さんを見送ったあと、みのりは受付のカルテに、今日の内容を書き込んだ。ペンが、少しの間、宙で止まった。
〈同棲中〉
そう書きかけて、みのりは静かに二重線を引いた。横に、小さく書き直す。
〈柴犬ハルと生活中〉
次のお客さんの名前が、受付から呼ばれた。みのりはカルテを閉じて、いつもの顔で立ち上がった。
「夜、一人じゃなくなった」
「仕事中も気になる」
「ずっと一緒にいるつもり」
全部、本当でした。
ただ、ハルは柴犬でした。笑
それはそれとしまして、
どのあたりで気づきましたか?




