#11|左も揃える
以前、みのりに
「次切るとき言ってね。左も揃えてあげる」
と言われた凛。
ちゃんと、言いに来ました。
今回は、そんなお話です。
土曜の昼の美容室は、ドライヤーの音と、知らない人の笑い声でいっぱいだった。
凛は受付で名前を言ってから、待合の椅子に浅く座った。雑誌を一冊取って、開いて、何も読まずに閉じた。
「凛ちゃん」
奥から、みのりが顔を出した。いつもの店で見るときとは違う、黒いエプロン姿だった。
「こっちどうぞ」
案内された椅子に座ると、目の前の鏡に自分の顔が映った。後ろにみのりが立って、ケープを広げる。首元で留める手つきが、慣れていて早かった。
「今日は、どうする?」
鏡越しに、みのりが聞いた。
凛は少しだけ黙って、それから、前髪に手をやった。
「……前髪、揃えてほしいです」
みのりは、凛の前髪を指先ですくった。左側を少し持ち上げて、鏡の中で見比べる。
「……凛ちゃん」
「はい」
「これ、自分で切ったよね。左」
「……切りました」
「今度は左だけ頑張ってる」
凛は、鏡の中の自分から目を逸らした。
「右を揃えたら、左が長く見えたので」
「それで、左を切ったら」
「右が長く見えました」
「うん」
「で、ここに来ました」
みのりは、声を出さずに笑った。肩が少しだけ揺れていた。
「言ってって言ったのに」
「言いに来ました」
「来るまでに、二回切ってるよね」
「……三回です」
みのりはコームを取って、凛の前髪をとかし始めた。
「明日、何時に出るの?」
「七時四十分の電車です」
「早いね」
「早いです」
「じゃあ、朝、自分で直せるようにしとこうか。崩れにくい感じで」
「お願いします。電車、長いので」
みのりは、それ以上は聞かなかった。何の電車なのか、どこへ行くのか。凛も、言わなかった。
ハサミの音が、耳の近くで小さく鳴り始めた。
凛は、鏡を見た。自分の顔が映っている。見ていると、だんだん知らない人の顔に見えてくる。目を逸らすと、今度は隣の席の知らない人と鏡越しに目が合いそうになる。凛は、もう一度自分の顔に戻った。
「……美容室って、目、どこ見てればいいんですか」
「どこでもいいよ」
「自分の顔見てると、変な気分になるんです」
「雑誌、読む?」
「雑誌読んでると、話しかけないでくださいって思われないかなって」
「思わないよ」
「でも、読んでたら話しかけないですよね」
「話しかけないね」
凛は、少し黙った。
「……話しかけないんですか」
みのりの手が、一瞬止まった。
「話しかけてほしいの?」
「そういうわけじゃないです」
「じゃあ、話しかけない」
「……それも、ちょっと」
みのりは、今度は声を出して笑った。凛は、鏡の中で眉を寄せた。
「凛ちゃん、美容室、苦手でしょ」
「得意な人、いるんですか」
「いるよ。三時間ずっと喋ってる人」
「その人は、美容室が得意なんじゃなくて、喋るのが得意なんです」
「そうかも」
みのりの指が、凛の前髪を少しずつ持ち上げては、下ろしていく。櫛の歯が額を撫でる感覚が、少しくすぐったかった。
「目、閉じてて」
凛は目を閉じた。
ハサミの音がした。細かい髪が、頬のあたりに落ちる感じがした。みのりの手が、左から右へ、ゆっくり動いていく。
目を閉じていると、店の音がよく聞こえた。遠くのドライヤー。シャンプー台の水の音。誰かが「すっきりしました」と言う声。受付の電話。みのりの、小さな呼吸。
「……みのりさん」
「ん?」
「バーで、いつも店長に何頼んでるんですか」
「え、なんで今?」
「目を閉じてると、思い出すので」
「何を」
「みのりさんが座ってる席とか」
みのりは、少しだけ手を止めて、また動かした。
「……いつもは、最初は軽いの。二杯目から、みっくんにおまかせ」
「おまかせなんですか」
「うん。みっくん、だいたい当てるから」
「外したことないんですか」
「一回だけある。すごく甘いのが出てきた」
「どうしたんですか、それ」
「悠真に半分あげた」
「悠真さん、飲んだんですか」
「『甘い』って三回言いながら、全部飲んだ」
凛は、目を閉じたまま、カウンターの内側からいつも見ている光景を思い浮かべた。みのりの前にグラスを置く満の手。隣で、同じ席に座っている悠真。そこに、そんな日があったことを、凛は知らなかった。
「……今度、甘いのが出てきたら、分かるようにします」
「分かってどうするの」
「悠真さんの顔、見てます」
「見なくていいよ」
ハサミの音が、止まった。
「はい、開けていいよ」
凛は、目を開けた。
鏡の中の前髪が、まっすぐだった。右も、左も、同じ長さで、同じ角度で、眉の少し上に落ちていた。
「……揃ってる」
「揃えたからね」
みのりは、ドライヤーで前髪を軽く流して、それから引き出しを開けた。小さな黒いピンを二本取り出す。
「明日の朝、ここ、少しだけ横に流して、これで留めて。こう」
みのりは、凛の前髪の横を指でつまんで、ピンを一本、見えない角度で差し込んだ。
「電車で寝ても、これなら崩れない」
「寝る前提なんですね」
「七時四十分でしょ」
「……寝ます」
みのりは、もう一本のピンを小さな紙袋に入れて、凛の手に乗せた。
「予備。二本あれば、一本なくしても大丈夫」
「なくす前提なんですね」
「前髪、三回切る人だから」
凛は、紙袋を握った。
会計のとき、凛は財布を開いた。お札の入っているところとは別の仕切りに、白い封筒が一枚、折れないように挟んであった。みのりの目が、一瞬だけそこへ行った。
「……新札、銀行で替えてきました」
聞かれてもいないのに、凛は言った。
「えらいね」
「普通です」
「普通のこと、ちゃんとやる人はえらいよ」
凛は、財布を閉じた。
店の入口まで、みのりが見送りに出てきた。自動ドアが開いて、外の空気が入ってくる。土曜の昼の、少し冷たい風だった。
「このあと、どうするの」
「シフトです。夜から」
「あ、土曜だもんね」
みのりは、それだけ言った。
凛は、店の前のガラスに映った自分を見た。前髪が、まっすぐだった。左に、手をやった。触ってみても、右と同じ長さだった。
「……みのりさん」
「ん?」
「……言いに来て、よかったです」
みのりは、少しだけ目を丸くした。それから、いつもの顔で笑った。
「明日、楽しんできてね」
「楽しんでくるかは、分かりません」
「じゃあ、楽しかったら教えて」
「……楽しくなかったら」
「それも教えて」
凛は頷いて、歩き出した。角を曲がる手前で、一度だけ、ガラスに映った前髪を確かめた。
揃っていた。
「楽しかったら教えて」
「楽しくなかったら」
「それも教えて」
今回は、このやり取りがけっこう好きです。
何があったかより、
あとで話せる相手がいるのもいいですよね。
それはそれとしまして、
皆さんにも「どっちだったとしても話したい人」っていますか?




