第6話:過ちの爪痕と、狂悪への断罪
「……え?」
呆然と声を漏らすクリスティーナを、ルノアールは壊れ物を愛おしむように、けれど決して逃がさぬ強固な力でそっと抱きしめた。
その体温は恐ろしいほどに温かく、そして微かに震えている。
「今まで気づけず、すまなかった……! 二度と……二度と君を誰にも傷つけさせない」
「ル、ルノアール様……?」
わけが分からず困惑するクリスティーナに、ルノアールは抱きしめた腕をゆっくりと解き、彼女のエメラルドの瞳を真っ直ぐに見つめた。その赤い瞳には、苛烈な光が宿っている。
「これから君を、我が国へ連れ去る。……だがその前に、君を苛み、その未来を奪おうとした悪漢をこの場で滅ぼす」
ルノアールは彼女の凍え切った指先を両手で優しく包み込む。
「クリスティーナ。あんな母親を、捨てる気はあるか?」
「……っ!」
クリスティーナの息が止まる。
(どうして……? ドレスの下の傷のことも、お母様のことも、誰にも言っていないのに……)
ルノアールの言動は理解不能な狂気でしかない。けれど、彼の手から伝わる凄まじい熱量と本気の温もりに、胸の奥で固く凍りついていた何かが亀裂を生み出していく。
「……私には。私にはもう……あの方への愛情など、欠片も残っていません」
「――良く言った」
ルノアールは力強く頷くと、戸惑う彼女の手を引き、夜会の熱気が渦巻く大広間へと足を踏み入れた。
◇
大広間の中心、高壇の上の玉座には、マルガレル王国国王が鎮座していた。
ルノアールは堂々たる足取りで国王の前へと進み出ると、恭しく恭順の意を示した。
「マルガレル国王陛下。グラスフィエル王国皇太子ルノアール、ここに伏してお願い申し上げます。今宵の良き日に、かねてよりの約束通り――クリスティーナ姫との正式な婚姻の許しをいただきたい!」
「おお……! グラスフィエルの英傑たるルノアール殿! もちろん異論などあるはずもない。二人の輝かしい前途に、祝福の杯を――」
祝杯を挙げようと国王が腕を掲げた、まさにその瞬間。
ルノアールは深く頭を下げたまま、静かに、けれど広間全体に通る声で制した。
「――恐れながらお待ちください、陛下。祝福の杯を挙げる前に、片付けねばならぬ『泥の始末』がございます」
「……何だと?」
国王が怪訝そうに眉をひそめる。
ルノアールは凛とした態度で立ち上がると、国王の側で勝ち誇ったように笑みを浮かべていた側妃を、まっすぐに指さした。
「そこに鎮座する側妃殿こそが、我が愛しき婚約者を長年虐げ続けた醜悪な犯罪者……! クリスティーナに与えた痛みの百倍を、その身に刻み込んでやるべき悪徒であると告発いたします!」
「「――ッ!?」」
一瞬にして会場が静まり返り、怒濤のようなざわめきが巻き起こった。
「な、何を血迷ったことを……! ルノアール殿、他国の側妃に向かって不敬であるぞ!」
「不敬ではございません! その女は、世間の目を盗んでは服で隠れる箇所ばかりを執拗に痛めつけ、一国の姫君であるクリスティーナの肉体と精神を長年にわたり破壊し続けてきたのです!」
ルノアールの声には、猛烈な怒りと、自らがその地獄を踏みにじったことへの凄まじい後悔が込められていた。
「それは誠か……!? 答えてくれ、クリスティーナ!」
国王の雷のような問いかけが飛ぶ。
あまりの事態にクリスティーナの体が激しく竦み、恐怖で呼吸が浅くなる。
その瞬間、ルノアールがすっと彼女の前に立ち、優しくその手を包み込んだ。
「……いきなり全てを暴いてすまない。だが、俺はもう君を1秒たりともこんな場所にいさせたくないんだ。俺が生涯をかけて君を守る……! だから、俺を信じてくれ!」
目の前の王子が自分を救うために必死になってくれている『真実の愛』が、まっすぐに胸へと届いた。
ヒステリックな悲鳴をあげて叫び散らす実の母親を見つめ――クリスティーナは、ついに自らの手で過去と決別する決意を固めた。
ざっ、と前へ踏み出すと、身に纏っていた最高級の絹のドレスの袖口に指をかける。
――ビリィッ……!!
破裂音が静寂の広間に響き渡り、彼女は自らの手でドレスを引き裂いて、無惨な紫の打撲痕と抉られた傷痕を皆の前に晒してみせた。
「「っ……!?!?」」
「ルノアール王子がおっしゃったことは……全て、紛れもない真実です」
クリスティーナは澄んだ瞳で母親を射抜き、凛とした声で宣告した。
直後、震えていた侍女も膝をついて「日常的に熱湯を浴びせ、殴打しておられました!」と涙ながらに真相を激白する。
言い逃れが完全に不可能となったその瞬間――側妃の顔が鬼のように歪んだ。
「この恩知らずの豚がぁぁッ!!」
側妃はなりふり構わずクリスティーナへ飛びかかろうとし、狂ったように叫び散らした。
「誰のおかげで生きてこられたと思っているの!? 私がどれほど苦労して育ててあげたか! お前なんて産まなきゃよかった! 陛下のお心を奪うだけの悪魔! 死ねばよかったのよッ!!」
鼻水と涙で化粧を泥のように崩し、娘を指さして罵倒し尽くすと、側妃は今度はすがるように国王の足元へ這いつくばった。
「ひ、陛下ぁっ! 騙されないでくださいませ! 私は……私はただ、あなた様を愛していただけでございます! あなた様のお心が私から離れていくのが怖くて……っ! 愛ゆえの、愛ゆえの過ちなのですわ!! 許してください、陛下ぁぁッ!!」
なりふり構わず見苦しく泣きじゃくり、愛を盾に罪を免れようとするその醜悪な姿。
それを上から見下ろす国王の瞳からは、かつての寵愛の面影など微塵もなくなり、氷のように冷め切った蔑みだけが宿っていた。
「……黙れ、痴れ者が」
地底から響くような国王の低音に、側妃の叫びがピタリと止まる。
「我が娘を……一国の宝である姫を痛めつけ、我が名を騙って愛を言い訳にするか。その醜悪さ、見るに耐えん」
国王は吐き捨てるように言い放つと、氷の宣告を下した。
「ただちにこの女から側妃の地位を剥奪する! ――さらに罪状を鑑み、『鞭打ち百回』の刑に処した後、平民へと落として国外へ永遠に追放せよ!! 二度とこの国の土を踏むことは許さん!」
「ひ……百回……!? 平民に……っ!?? 嫌、嫌ぁぁぁッ!! 陛下! 陛下ぁぁぁッ!!」
近衛兵たちに両腕を掴まれ、ズザザと床を擦りながら引きずられていく元・側妃。
惨めに叫び続けるその声を冷めた瞳で見送りながら、ルノアールは心の中で暗い嘲笑を浮かべていた。
(国外追放で済むと思うなよ。我が国へ連れ帰った後、密かに刺客を放ち、二度と這い上がれぬ絶望の奈落へ叩き落としてやる……)
「ルノアール殿。……我が国の不徳により、クリスティーナに悲しい思いをさせてしまった。どうか、あの子をこの場所から連れ出し……幸せにしてやってくれ」
「はっ。命に代えても、幸福にしてみせます」
深々と頭を下げたルノアールは、クリスティーナを優しく、逃さぬように抱き上げると、長年の地獄に終わりを告げて夜の闇へと駆け出していくのだった。




