アメリア②
十二歳の誕生日が、くる。
普段は領地にいるような貴族でも、子が十二歳になる時には必ず、王都の儀礼院へ赴かねばならない。
前世のような、白亜の大広間も、華美な馬車もないけれど、穏やかな母に見送られ、エルダートン家の紋章の入った馬車へと乗り込む。
王都へと向かう馬車の揺れは、まるで眠りを誘う子守唄のようだった。
この簡素な馬車に揺られるのは、私一人だ。
父は数人の使用人を連れて、一足先に王都邸へ向かっている。母は最後まで侍女を同乗させようとしていたけれど、私は断った。
十二歳になる前くらい、一人でいたかったのだ。
向かいの座席には、誰もいない。
けれど、視線を向けるたびに、そこへ黒い影が座っている気がした。
長い脚を組み、退屈そうに頬杖をついて、こちらを眺めている男。
ありもしない幻影を振り払うように、アメリアはゆっくりと目を閉じた。
明日の儀式で、私は中位悪魔と、ううん。下位悪魔でも良い。私が選んだ悪魔と契約する。
そうすれば、あのアメジストの瞳が夢に出ることもなくなるはずだ。
馬車が小さく揺れる。
空席だけが、
静かにそこにあった。
王都邸についた翌日、使用人たちに身なりを整えられた私は、王都の儀礼院へと到着した。
白を基調としたそこは、記憶の中よりも少し古びていたけれど、その内部に漂う空気は、あの冷たい場所と少しも変わらない。
名前を呼ばれたら、あの魔法陣の中へ。
儀式官に促され、アメリアは一歩を踏み出す。
広間には同じ月に十二歳になった子供たちが数人、緊張した面持ちで自分の順番を待っていた。
彼らは皆、どんな悪魔を召喚し、どんな地位を手に入れるかという夢を見ている。
「アメリア・エルダートン」
呼ばれた自分の名前に、心臓が小さく跳ねる。
石畳に刻まれた魔法陣の中へ、私はゆっくりと進んだ。
踵から伝わる石の硬さが、私を拒絶しているようだ。
これでいい。
私は深呼吸をして、中央へ立つ。
儀式官の声が、室内に反響し、陣に淡い光がともる。
今世、私は彼以外を選ぶ。
けれど。
陣が、悲鳴を上げたのはその直後だった。
魔法陣が、視界を焼き尽くすほどの黒い光に染まる。
床の石材がひび割れ、広間を包む空気が一瞬にして凍りついた。
周囲の子供たちが、あまりの重圧にその場へ崩れ落ちる。
まさか。
胸の奥で、記憶の蓋が無理やり引き剥がされる。
夜の匂い、頬を撫でる冷えた空気。
そして、この世界を塗りつぶすような、絶対的な支配の気配。
光の中から、影が滴る。
霧が晴れ、そこにいたのは、全ての夜を統べる黒髪の男だった。
アメジストの瞳が、陣の中で立ち尽くす少女を、かつてと全く同じ、けれどより一層深い飢えを宿した眼差しで捕らえる。
広間が死んだような静寂に包まれる。
儀式官が、何が起きているのか理解できず、ただ目を見開いて震えている。
アザリエルは、ゆっくりと一歩を踏み出し、魔法陣の縁に靴先を乗せた。
彼はアメリアの頬に指を這わせる。
冷たい。
あの日と同じ、心臓を抉り出す前の、あまりに優しい手つきだった。
声が、降ってきた気がした。
かつての傲慢な令嬢は、今やただの伯爵令嬢として、逃げ場のない深淵に引き戻されたのだ。
儀式のあの日から、私の日常は侵食された。
私は、他の悪魔を選べなかった。
だから、彼を意図的に遠ざけた。
だけど、夜の空気はすぐそばにいた。
私が書庫で本を開けば、その背後に。
寝台で眠りにつこうとすれば、その傍らに。
彼の影が、私の輪郭を塗り潰していく。
王都の冬は静かだ。
領地から離れ、エルダートン家の王都邸。その書庫に灯るランプの火だけが、深夜の静寂を淡く照らしている。
ページを捲る音。
ペン先が紙を擦る音。
それが十八になったアメリアの日常だった。
高位悪魔。
契約。
召喚陣。
魂の定着。
誰よりも悪魔を恐れているくせに、誰よりも悪魔を知ろうとしている。そんな自分を、時々滑稽に思う。
「また難しい顔をしているな」
不意に、夜が落ちた。
振り返らなくてもわかる、窓辺に腰掛ける黒い影。
月明かりを溶かしたみたいな黒髪と、アメジストの瞳。
「……呼んでないわ」
「呼ばれてないな」
いつもの会話。
いつもの声。
小さく息を吐き、本へ視線を戻した。
彼は、今も昔も理解の範疇外にいる。
「最近、よく王立研究院へ出入りしているそうだな」
ページを捲る指先が止まる。
「……お父様に聞いたの?」
「お前のことは、聞かなくてもわかる」
アザリエルが笑う。
十八歳になる頃、いくつかの誘いが来ていた。
研究補佐。
召喚学の記録官。
貴族令嬢らしくはないが、アメリアの望む未来だった。
誰かに選ばれるくらいなら、知識の中にいる方が、ずっといい。
「楽しそうだな」
その声に、ふと、笑いが漏れる。
「ええ。たぶん、向いているのだと思うわ」
その瞬間。
夜の香りが、濃くなった。
書庫の火が揺れる。
窓の外で風が鳴る。
なのに、不気味なほど、静寂だった。
ゆっくり顔を上げれば、深い夜を飲み込んだ瞳がこちらをみていた。
怒っているわけでもない。
笑っているわけでもない。
「……アザリエル?」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の頬へ触れた。
この指は、ひどく冷たい。
「お前は、未来を見るようになったな」
私はただ、静かに生きていきたかっただけなのに。
誰かに選ばれるのではなく。
誰かの特別になるのではなく。
自分で選び、自分で歩いていきたかっただけだ。
アザリエルの指が、頬からゆっくりと降りていく。
唇、首筋、鎖骨、そして。
私はに夜明けは来なかった。




