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ノエリア③

昔の記憶は、不思議なものだ。

白い屋敷も。温室に咲いていた花も。優しかった人たちの顔も。

時間が経てば、少しずつ輪郭を失っていく。


けれど。


夜の香りだけは、忘れられなかった。


アメジストみたいな紫の瞳。頬を撫でる冷たい指先。ひどく傲慢で、どうしようもなく優しい声。

何度生まれ変わっても、思い出すのは結局あの男だ。


「お嬢様?」

侍女の声に、ノエリアはゆっくりと顔を上げた。

窓の外では、冬の陽光が庭を照らしていた。

穏やかな午後だ。

膝の上には、丁寧に畳まれた濃紺のマフラーが置かれている。

「ユリウス様のところへ届けるのですよね?」

「ええ。昨日は暖かかったから。お兄様、マフラー持っていかなかったでしょ?」

頷けば、侍女たちがどこか困ったように顔を見合わせる。

本来なら、使用人へ任せれば済む話だった。

けれどノエリアは、小さく唇を尖らせる。

「私が行きたいの」

小さくそう言えば、侍女たちは揃って諦めたように微笑んだ。


ノエリア・アルセインは、案外こういうところだけ頑固なのだ。



馬車が揺れるたび、膝に乗せたマフラーが滑りそうになる。

それを必死に押さえながら、私は窓の外を眺めていた。

街を行き交う人々の声。店先に並ぶ冬の花。

陽だまりは十分に暖かく、乗り込む時に感じた冷えた空気さえ、どこか心地よい。


お兄様、ちゃんと受け取ってくれるかしら。


そんなことを考えていた、その時だった。


馬車の中の空気が、夜の香りに変わった。

「……呼んでないわ」

不機嫌を装って、少しだけ頬を膨らませて言う。

対面に座った黒髪の悪魔は、まるで庭の噴水で遊ぶ子供を眺めるような、そんな柔らかな笑みを浮かべていた。

「呼ばれてないな」

彼はわざとらしく肩をすくめる。

その無防備な態度が、今の私には一番ずるい。

「もう……! せっかくお兄様に一人でできることを見せようと思ってたのに」

私はマフラーをぎゅっと抱きしめて、彼を睨みつける。

そんな私の姿を、彼は楽しそうにクスクスと笑うと、するりと座席を移動してきた。

狭い馬車の中で、私の逃げ場はあっという間になくなる。

「何の用なの?」

彼は私の鼻先を、その白い指で触れる。

「冷たいな」

「びっくりしたわ。あなたの指先より冷たいことってあるのね」

「あるさ。お前が知ろうとしないだけだろ」

図星を突かれて、私は言葉を詰まらせる。

「寄宿舎に着いたらどっか行ってよね」

私は拗ねたふりをして、窓の外へまた顔を向ける。

でも、鏡に映った彼の瞳は、私から一瞬たりとも逸れていなかった。


馬車の中は、いつの間にか夜の香りで満たされていた。

私はマフラーに顔を埋め、小さく息を吐く。


本当に、この男は勝手なのだ。


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