ノエリア②
心臓を抉り出された感覚だけが、今も鮮明に残っている。
夢だったのかと思うには、生々しすぎた。
胸の奥が痛い。
何度生まれ変わっても、あの指先の冷たさだけは忘れられない。
「……お嬢様?」
侍女の声に、ノエリアははっと顔を上げた。
寝室に差し込む朝の光は、昨日までと変わらないはずなのに、やけに白々しく感じられた。侍女が淹れてくれた紅茶の湯気が、あの冷たい記憶を溶かそうとしている。
「……ごめんなさい、少し眠りが浅くて」
私は、生きていた。
重たい瞼のままゆっくりと身を起こす。乱れた髪が肩を滑り落ち、そのまま寝台の縁へ腰を下ろした。
そういえば、意味もないのによく彼を呼び出して、二人ベッドに腰掛けていたな。
そんなことを思い出したのは、昨日、彼の纒う香りに包まれたからだろう。
侍女に身支度を整えられ、鏡を覗けば、鏡の中の少女が、引きつった笑みを真似る。
周囲の熱を置いて、昨日は自宅に戻った。
先触れがあったのだろう。見送りの時とは比べ物にならない熱量で、母に迎えられた。
「アザリエル様は、どこにいらっしゃるの?」
「さぁ……高位悪魔様のご動向は、私には分かりかねます。……気配だけは、感じますけれど」
嘘だった。
夜の香りはすぐそばにあった。ただ、陽が世界を覆い尽くす今が、彼の時間じゃないだけだ。
そんな私の嘘に気づかず、両親は「エルヴァンス家の誇り」だと喜び、家の繁栄に涙を流して喜んだ。
昨日の儀式を思い出し震える体を隠すために、紅茶のカップを持つ手に力を込める。
侍女は少し困ったように笑った。
「お嬢様、今日はお疲れでしょうから、旦那様からゆっくりされるようにことつかっておりますわ」
午後、息苦しさから逃げるように庭へ出た。
冬の庭は静かだった。
白く俯くクリスマスローズだけが、冷えた風の中で昨日と変わらずに揺れている。
四阿へ腰を下ろし、用意された紅茶へ口をつける。
ミルクと砂糖の溶けた紅茶は、甘いはずなのに、舌に残るのは苦味ばかりだった。
下がらせた侍女は、私の視界に入らない何処かで待機しているんだろう。それでもいい。
私から見えなければ、いないと一緒だ。
「ねぇ、」
ふと、花弁へ指先を伸ばす。
テーブルに飾られたクリスマスローズには、ほとんど香りがない。ただ、湿った冬の空気だけが微かに鼻先を掠める。はずだった。
夜の香りが、静かに庭を侵食した。
「おはよう、リア」
甘い声が耳元へ落ちる。
視線を上げるまでもない。私の心臓を、もっともよく知る者の気配だった。
記憶の中と今を答え合わせするように、白く俯く花弁を指先でいじりながら、ノエリアは小さく笑った。
「あなたの匂いに似ていると思ったの」
「でも違ったわ。こんなに静かな香りじゃないもの」
アザリエルが笑ったのがわかる。
視線を合わせれば、全ての夜を飲み込んだ黒髪が風に靡いていた。それは、一つの絵画のようでもあったけど。
「あなた、本当に昼間が似合わないわね」
差し込む陽光を鬱陶しそうに眇めながら、アザリエルが鼻を鳴らす。
「そう思うなら、お前らの国のアレを、夜にやれよ」
「儀式のこと? だって仕方ないじゃない。子供は夜になると眠ってしまうもの」
「なら起こしておけ」
「十二歳相手に容赦ないわね」
思わず零れた笑いに、アザリエルがゆるく目を細めた。
陽の下にいる彼は、どこか輪郭が曖昧だった。
夜の中ではあんなにも鮮明なのに、昼の光は、彼を世界から少しだけ浮かせて見せる。
「ねえ、座れば?」
手招きすると、アザリエルは少しだけ呆れたように眉を寄せたが、ふわりと音もなく四阿の椅子へ滑り込んだ。
午後の柔らかな光が、少しだけ陰った気がした。
アザリエルは、テーブルに置かれたティーカップを何でもないように手に取り、淡い煙水晶のミルクティーに口をつける。
「それ、私のなんだけど」
不満を伝えれば、アザリエルは鼻先でふっと笑い、そのままノエリアの口元にカップを近づけ、まるで世話の焼ける子供をあやすように、ゆっくりとそれを傾けた。
「飲め」
その動作は、ぞっとするほど優雅で、それでいてひどく傲慢だ。
陽光を背景に、彼の白い指がノエリアの細い顎を支える。観念して一口含めば、アザリエルは満足げに、悪戯な笑みを浮かべた。
「そうやって俺に世話をされているといい」
傲慢な言葉が、脳を揺さぶった。
庭師が遠くで剪定ばさみを鳴らす音が聞こえる。この平和な午後の庭で、世界で二人だけが別の時間軸を生きているかのような錯覚。
きっと今、傍から見ればそれは、愛しい者を見つめる恋人同士のような、あるいは花を慈しむ芸術家のような、あまりに絵になる光景だろう。
こんなに鮮烈で、こんなに恐ろしい存在に独占されている今の自分が、誰よりも「特別」であるように思えてしまう。
だめだ。
小さくかぶりをふり、アメジストの瞳を捉える。
「子供扱いしないで」
「怖い夢見て俺を呼び出すほどには、子供だろ」
その言葉に、背筋が冷える。
遠い昔。
十二の夜。
リアーナは悪夢を見て震えながら、それでも誰にも知られたくなくて、毛布を噛んで泣いていたのだ。
寝台に座って、髪を撫でてくれたあの冷たい手。
ノエリアは、喉の奥までせり上がってくる記憶を必死に押し殺した。
「……そんな昔のこと、覚えてないわ」
そう言いながら、ノエリアは指先をそっと握り込んだ。




