リアーナ①
「リアーナ様」
廊下を歩いていただけで、侍女たちが慌てて頭を下げる。
その様子を見ながら、幼いリアーナは唇を尖らせた。
別に、自分は何もしていない。
まだ八歳だ。
悪魔と契約だってしていないし、カーテシーだってやっと形になってきた。勉学だけは多少得意だったが、それとて教師に褒められれば嬉しくなって調子に乗る程度の子供だった。
それでも、周囲は自分を特別扱いした。
リアーナ・アルセイン。
国の中枢を担う一族の娘。
将来を約束された子供。
そう呼ばれ続ければ、嫌でも勘違いする。
自分は、他とは違うのだと。
「リアーナ様、本日は召喚術史の講義でございます」
「知ってるわ」
侍女の言葉に、少しだけ顎を上げて答える。
そうすれば、強そうに見えることを知っていた。
本当は、できないことを怒られるのが怖いだけだったのに。
一回目の人生。
私が“特別”であることを疑いもしなかった頃の話だ。
アルセイン公爵家の長女として生まれた私は、周囲の期待と称賛に囲まれ、弱いくせに強いふりを覚えた。
泣けば「気高くあれ」と窘められ、怯えれば「公爵令嬢らしく」と笑われる。
だから、怖くない顔を覚えた。
顎を上げること。
ゆっくり瞬きをすること。
震える指先を袖の内側へ隠すこと。
そうやって、“特別な令嬢”を演じ続けて、周囲もまた、それを疑わなかった。
「リアーナ様なら、きっと素晴らしい悪魔を召喚なさるでしょう」
そんな言葉を向けられるたび、胸の奥が甘く痺れた。
期待されるのは、気分が良かった。
特別だと言われるのは、心地よかった。だからきっと、私はもう、とっくに勘違いしていたのだ。
自分は選ばれる側の人間なのだと。
十二歳の誕生日。
儀礼院の大広間は、静まり返っていた。
白亜の高い天井。
磨き上げられた大理石。
冷え切った空気。
けれど、その時の私は、そんなものを見ていなかった。
立会人たちの視線が、痛いほど自分へ向いている。
儀式官も、貴族たちも、誰もが固唾を呑んで、アルセイン公爵家の娘を見ていた。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
選ばれるのは当然だと、どこかで信じていた。
だって私は、リアーナ・アルセインなのだから。
儀式官の詠唱が響く。
低く重たい祝詞のような言葉に呼応して、床一面の紋様が青白く光り始めた。
空気が震える。
次の瞬間、黒い靄が静かに渦を巻いた。
ざわり、と広間が揺れる。
「高位悪魔……?」
「いや、まさか……」
囁きが漏れる。
けれど、耳に入らなかった。
最初に見えたのは、揺れる黒髪だった。
ゆっくりと持ち上がった手が、こちらへ伸びる。
白い指先。
人間とは思えないほど綺麗な手。
その瞬間、不思議なくらい恐怖が消えた。
まるで最初から、自分はこの存在に選ばれるために生まれてきたのだと、そう言われた気がした。
低い声が落ちる。
「――……」
言葉にはならない響きだった。
名前を呼ばれたわけでもない。
ただ、胸の奥を静かに撫でるような声音だけが、私へ届く。
アメジストの瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
その視線に、私は――救われた気がした。
それが、すべての間違いの始まりだった。
召喚から数年。
リアーナ・アルセインの名は、王都で知らぬ者がいないほどになっていた。
高位悪魔アザリエルの契約者。
その肩書きだけで、人は媚び、頭を垂れる。
見目の良いアザリエルを伴って夜会に出かければ、誰もが私に注目する。私は、社交界の華だった。
欲しいものは何だって手に入った。流行りのドレスも、高価な宝石も、私を称賛する声も。そう。あの日までは、そう信じていた。
「リアーナ様は、本当に幸運ですね」
その日は、自慢のローズガーデンで仲の良い友人とお茶を楽しんでいたはずだったのに、一人の令嬢のその一言が、私の心に一滴、毒を落としていったのだ。
アザリエルと契約できたのは、運。
そう言われた瞬間、喉の奥がひどく冷えた。
落とされた毒は、じんわりと体内を侵食していく。
例えば、侍女の何気ない一言に。
「アザリエル様がお側にいらっしゃると、皆様の視線が違いますね」
例えば、父の言葉に。
「高位悪魔の契約者として、恥のない振る舞いをしなさい」
例えば、友人たちの笑い声に。
「リアーナ様なら当然ですわ。だって、あのアザリエル様に選ばれたのですもの」
褒められているはずなのに。
認められているはずなのに。
そして、ある夜の公爵家での夜会。
他国の使節団から声をかけられた時のことだ。
私は十八になったばかりだったが、社交の作法には自信があった。優雅にカーテシーをし、相手の国の情勢を絡めた会話を楽しんでいたはずだった。
相手は感銘を受けたように微笑み、私の手を取った、その直後。
「流石はアザリエル殿が選ばれたアルセイン家だ。我が国のことをよく知ってくれている。そうだ、今度是非アザリエル殿と一緒に我が国に遊びに来てはくれないかね」
言葉は、私に投げかけられているはずなのに、相手の熱っぽい視線は、私の顔ではなく、私の肩越しにいる彼に向けられていた。
彼らが欲しいのは、私の言葉ではない。アザリエルへ繋がる道だ。
喉の奥の冷たさが、じわりと全身に広がっていく。
私が磨いてきた教養も、ドレスの装飾も、宝石の輝きも。そのすべてが、彼を飾るための“額縁”でしかなかったのだ。
誰一人として見ていない。彼らの瞳が向いているのは、常に私の影に潜む、あの黒髪の悪魔だ。
誰もが私の言葉の背後の、アザリエルを見ていた。
あのお茶会で落とされた毒を、私はその時、初めて正確に理解した。
私ではなく、"リアーナ・アルセイン”という高位悪魔の契約者に価値があるのだ、と。
私は背筋が凍るような思いで、背後に立つアザリエルを見上げた。
彼は相変わらず、私の背中で静かに笑っている。まるで、私という空っぽの器を、愉悦の表情で眺めるように。




