ノエリア①
悪魔召喚の儀。
今世で十二歳になった私は、儀式を行わなければならない。それが、この国で生まれ育つものの宿命だ。
朝から使用人たちに身体を磨き上げられ、慶事用のドレスを着せられる。
古い銅貨のような色の髪は、上等な生地に見劣りしないよう丁寧に結い上げられ、幼さの残る顔には、そばかすを隠すための白粉がはたかれた。
曇りの一つもない銀鏡の中で、十二歳の少女ーーノエリア・エルヴァンスーーは、ため息をひとつ落とす。
エルヴァンス家の使用人たちは、ひどく優秀だ。隙のひとつもなく仕上がった鏡の中の自分は、立派な淑女に仕立て上げられていた。唇に引かれた薄紅だけが、ひどく浮いて見えたのは、自信のなさが瞳から零れ落ちているからだろう。
「私は」
五度も生きて、それでもなお、胸のどこかで願ってしまう。
今度こそは、自分が特別なのではないかと。
鏡の中の自分は、過去か、未来か。
特別であることを信じていた一回目の人生が、どれほど愚かだったか知っているのに。
「お嬢様、皆様がお待ちです」
侍女に促され、ノエリアは鏡から目を逸らした。
広間に向かえば、既に家族と使用人たちが並んでいる。召喚の儀は、貴族にとって最も重要な通過儀礼のひとつだ。庶民にとっては、ただの国の定めであるこの儀は、家の未来も、価値も、十二歳の子供がどの悪魔に選ばれるかで左右されることが、ある。
視線が痛いほど集まる。
期待。
不安。
打算。
祈り。
その全てを向けられることを、当たり前だと享受する自分が嫌だった。
「よくお似合いですよ、ノエリア」
母が微笑む。
ノエリアもまた、淑女らしく口元を持ち上げた。
「ありがとうございます、お母様」
家族仲は悪くない。
少なくとも、娘の召喚の儀を忘れる程度には薄情ではなかった。
母と挨拶を交わし、父に連れられ、エルヴァンス家の紋章が刻まれている、深い緑色の馬車へと乗り込む。
一歩。その馬車の階段を踏み上げた時、不意に冷たい風が首筋を撫でた。
びくりと肩が揺れる。
私をエスコートする父も、見送りの母も、使用人も、誰も気づかない。
馬だけが、低く嘶いた。
――今生も、彼に会わなければいい。
そう願っていることに、無駄だ、と。耳元で誰かに囁かれた気がした。
思わず振り返る。
だが、そこには青白い朝靄が揺れているだけだった。
「ノエリア?」
「……鳥が、鳴いた気がして」
静かに走り出した馬車の中で、石畳を叩く車輪の音を聞きながら、ノエリアは無意識に指先を握り締めていた。
召喚の儀を行う儀礼院は、王都の中心に存在する白亜の巨大建築だ。
祈りのための場所というより、選別のための施設に近い。
磨き上げられた大理石も、高い天井も、静まり返った空気も、そこには神聖さより、冷たさがあった。
案内役に導かれ、大広間へ足を踏み入れた瞬間、ノエリアは息を呑む。
巨大な召喚陣。
床一面に刻まれた紋様は、五度目の人生となった今でも、不気味なほど、鮮明に記憶に残っているものと同じだった。
三度目の人生は、町の小さな院でもっと簡素な召喚陣だった。だからミミが来た。四度目の人生は、召喚の儀すら行ってない。
そして今生、一度目と二度目の生と同じ陣が、目の前に広がる。
逃げたい、と思った。
だが、逃げられないことも知っている。
「それでは、ノエリア・エルヴァンス様」
儀式官の声が響く。
「召喚を」
足はすくむが、進むことしか許されていない。
怯えなんて滲ませず、それこそ優雅な足取りで魔法陣の中心に立つ。
空気が変わった。
冷たく、重く、どこか懐かしい気配。
胸が痛むほど脈打つ。
五度目の人生でも、逃げられないのだと悟った。
儀式官が詠唱を始める。
光が魔法陣を走り――
空間が、裂けた。
黒い靄が静かに渦を巻き、その中心から、ゆっくりと“それ”が現れる。
夜の香りが鼻を掠め、揺れる黒髪に目を奪われる。
そして、低く、静かで、五度の人生を貫いて耳に残っている声。
「久しいな……リア」
静寂の中で、彼の声だけが響いた。
ざわり、と空気が揺れる。
次の瞬間、広間が歓声に包まれた。
「高位悪魔だ……!」
「まさか、エルヴァンス家に……」
興奮を隠しきれない囁きが飛び交う。
儀式官でさえ、目を見開いて息を呑んでいた。
だから、誰も気づかない。
ノエリアの指先が、小さく震えていることに。
アザリエルは魔法陣の中心で、ゆっくりとこちらを見下ろしていた。その深紫の瞳に見つめられた瞬間、嫌というほど理解してしまう。
自分は、この悪魔から逃れられないのだと。
五度目の人生の幕が、静かに、残酷に上がった。




