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ランナーズ  作者: 十乃三
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8/9

9月

   1


 夏の暑さを引きずったまま、二学期が始まった。

 教室では小さな出来事。教室の一番後ろに空いた机がひとつ。相田という男の席だった。中退していた。下の名前は知らない。話した記憶もほとんどない。出席番号が一番でなかったら苗字だって忘れていたかもしれない。隣のクラスではバイク事故で死んだ奴。他にも事故や暴力事件で入院中の奴。警察のやっかいになって停学中の奴もいた。

 初日冒頭から全校集会。

 蒸し暑い空気。寿司詰めの体育館。校長の話は長かった。三十分近くに及んだ。ありきたりの説教。繰り返される指導の言葉。学校は荒れていた。

 とはいえ―、だ。

 それはそれ。これはこれ。部活の行事は立ち止まることなく進んでゆく。二週目の週末にはすぐ記録会。そして新人戦の地区予選。秋はあわただしく流れてゆく。

 新人戦の参加資格は二年生まで。二年も新人扱い。反則だと思うが、来年はその恩恵を受ける側になる。文句はない。神奈川県ではインターハイ同様、地区予選がある。全国大会はない。県大会止まりの大会。それでもほとんどの一年にとっては入学以来最初の大会になる。そして新人戦が終われば、駅伝はもう目前になる。

「うちの部にも国体いけるくらいの奴がひとりでもいればよ」

 記録会の競技場で、なんの脈絡もなく中垣が言った。独り言の声。なんとはなしにおれは聞いていた。藤井も聞いていた。北澤も聞いていた。

 もし、そんな奴がいたら―。

 いま程度の練習じゃ済まないだろうよ―、とおれは思った。大根高校のように日曜まで練習で潰される。いまでさえあっぷあっぷで溺れかけている。日曜まで走らされたら完全に溺れる。即座に土左衛門。使役馬だって週に一回くらいは休むはずだ。もちろん、中垣(アホ)にそんな頭はないだろう。

「安心しろ。来年はいる」

 生真面目に答えるバカもいる。おれは聞こえないふりをした。

 記録会の成績は散々だった。

 千五百と五千にエントリーして、千五百が四分四十四秒。五千は十七分三十二秒。どちらも北澤に負けた。中垣にも負けた。藤井にも遅れをとった。五千にいたっては夏の練習タイムにも及ばない。最低の記録だ。危うく井上(バクダン)にも負けるところだった。井上は中学時代に千五百で通信陸上に出ているらしい。なぜ、そんな奴が頭にバクダンを抱えたのか。知る由もない。あえてほじくる興味もない。ただ、スピードの裏付けはある。持久力も侮れない。

 それでも一度侮った相手には負けられない。負けたくなかった。北澤は満足だろう。思惑通り。それを気とられるは癪に障る。

 記録会では斉藤も夜野も時計でレベルアップを証明した。おれ一人が取り残されている気分だった。




   2


 すっかり差をつけられた―。

 その時、夜野亨は遠くに見える背中を追いかけながら思っていた。井上の少し先に大村が見える。入部したばかりの頃は自分より後ろを走ったこともある井上が、いまはあんな先にある。

 最近はたばこの臭いもしなくなった。

 素質の違い―。

 素質に対抗するのは無益だ。努力は簡単に跳ね返される。ちょっと本気になっただけですぐに結果を出す人間。努力しても同じ場所で足踏みする人間。自分は後者だと思った。

 もちろん彼らとは目指す場所が違う。この現状にも不満はない。競うことに興味はない。でも、北澤のひたむきさを見るにつけ、あるいは中垣と大村の強烈な対抗意識を見るにつけ、最近はその意識が揺らぎ始めている。さりとて、彼らに及ぶ能力はない。努力しても裏切られる。そんな葛藤がせめぎ合っている。

 結局、ゴールしたときには十八分を超えていた。


 帰りの電車は了子とふたりだった。電車は一本遅らせた。みんなの乗った電車をこっそり見送ったあとで、了子は開口一番に切り出した。

「……そんなことないよ」と亨は内心どきりとした。努めて平静を装う。

「嘘ね」

 了子の口調は確信に満ちていた。断罪の響き。

 走っている最中、応援する了子の声がはっきり聞こえた。亨はその声に振り向きさえした。

「ぜんぜんがんばってなかったわ」

「苦しかったよ」

「そう? 井上はもっと必死だったわ。藤井も中垣も。北澤でさえそうだった。あんたは楽に走って遅かっただけ」

 遠慮のない言い方。了子は亨をあんたとか夜野という言い方で呼んだ。他の男たちにも同じ呼び方をした。亨はそれを了子らしいと思っていた。

「遠見は? 結果に満足できた?」

 夜野は話題を変えた。これ以上踏み込まれるのは苦痛だった。

 彼女はこの秋から幅跳びの練習に入っていた。しかもこの記録会でいきなり五メートル台のジャンプをして見せた。校内なら全学年合わせてもトップクラス。男子を含めとも上位のはずだ。

「まぁまぁね」と了子はまんざらでもない顔をする。彼女は亨の知らないかつての自信を取り戻しつつあるようだ。そんなふうに見えた。


 夜野と遠見の姿を最初に見つけたの斉藤だった。おれは斉藤と和泉、鹿沼の両先輩と四人で上りホームにいた。

 電車が行ったあとの下りホームはがらんとしていた。二人は階段の陰。丸見えだった。ごった返しているこっちにはまるで気づいてない。

「なにしてんだ、あいつら」

「乗り遅れたんだろ」

 おれは斉藤の視線を追って答えた。さほど興味はない。

「なんだ、あいつらつきあってんのか?」と鹿沼先輩もおれたちの視線の先を追っていた。

「そんなわけないでしょう」と斉藤は真っ向から否定した。

「……どっちでもいい」

 本当に気分はそれどころではなかった。

「お前はホント他人に感心ねぇよな」と斉藤。

「お前が持ちすぎなんだよ」

「そうかねぇ……」

「今日の五千、お前、夜野に負けたろ」

「あー。ほんの数秒な」

「去年の二の舞になるぞ」

「わかったわかった。なんでぇ、お前だって井上(バクダン)に負けそうだったくせに」

「うるせぇ」

「低レベルの争いはやめろ。不愉快だ」

 和泉先輩が割って入ったところへ電車が滑り込んできた。

 この週末、和泉先輩は興田、原田の両先輩ととともに五千メートルで初めて十六分の壁を破った。千五百でも四分十秒台に入れた。機嫌は悪くない。こっちも黙っていればいい。余計な火の粉を浴びずに済む。意外と人間らしい面もある。そこには少し驚いていた。

 それにしても―。

 この夏はよくやった方だと思っていた。その結果がこれだ。収穫した実は甘さを蓄えるどころか苦みさえあった。

 斉藤と夜野は走った組が違う。組が違えば流れや展開で結果は変わる。数秒のタイム差は誤差に近い。おれと井上は同じ組だった。その差は十六秒。百メートルそこそこだ。さすがに危機感を持つ。


 満員電車の中は暑さと汗の臭いでむっとしていた。斉藤一巳は押し潰されそうになりながらため息をついた。無意識のため息。

 夜野には負けないと思っていた。二秒差。あってないような差。それでも負けは負けだ。大村の言った言葉は自然と気持ちに影を落とした。

 あの時だって、村上より速く走れたはずだ。なのに肝心なところで負けた。そしてメンバー落ち。

 誰もが認める速さが欲しい。さもなければ、また落ちる。足下は薄い氷のようにおぼつかない。もうあんな気分はごめんだった。

 一巳はもう一度ため息をついた。今度は自覚のため息。

 高校最初の公式レースは黒星。前途は厳しい。多難に満ちている。




   3


 密かに期するものがある。

 一年のなかで北澤は別格。その下に自分と中垣と大村がほぼ横並び。秋になって井上が食い込みつつある。でも、互角にはまだ足りない。斉藤と夜野はさらに後ろ。藤井直人の個人的査定。

 問題はやはり中垣と大村だった。この二人のすさまじい対抗意識は、合宿前の海でも再認識している。

 春の時点ではまだ優位にあった。大村なら十中八九ねじ伏せる自信があった。中垣相手でも五分。その力差はわずか数ヶ月で一変した。二人がAグループに移った合宿はその象徴だった。

 追い詰められている―。

 直人にとって新人戦は結果を示さなければならない大会だった。負けたくなかった。

 直人のエントリーは五千。北澤と大村もいる。中垣も希望していたが、枠の制限がある。顧問の坂本清二は中垣を千五百に回した。

 おそらく中垣は地区予選を突破する。和泉先輩と北澤も間違いない。相手は大村ひとり。お互いにボーダーライン上にいる。

 小田原の競技場は中学時代から何度も訪れている。サブトラックは箱庭のように小さい。競技が立て込む時間帯はほとんど使い物にならない。

 直人はひとり競技場を出ると、買ったばかりのウォークマンにカセットを突っ込んだ。レコードからダビングしたローリングストーンズ。再生ボタンを押すとギターのイントロが流れ始めた。ブラウン・シュガー。そのリズムに乗って、アスファルトのうえをゆっくりスタートした。時おり涼しい風が通り抜けてゆく。それでも秋と呼ぶにはまだ早い。少し走っただけで、じわっと汗がにじんでくる。

 予選二組目。同じ組には和泉先輩がいる。北澤と大村は一組目。目標タイムは大村の時計次第。

 雷管の音ともに、腕時計のストップウォッチをスタートさせた。

 最近の大村には一頃の勢いがない。中垣は元々あんなものと見くびっている。だが、夏の疲れを引きずっているのは明らかだった。そして今日も大村の走りはぴりっとしなかった。

 千メートル通過が三分十秒。十五分台のペース。地区予選にしては速いほうだ。山城高校の二年岩城が積極的に流れを作っている。岩城はこの春の総体で関東大会を経験している。県内では間違いなくトップクラス。大村も二千メートル過ぎまでは流れにつかまっていた。だが、集団のヘリから遅れ始めると、三千の手前からずるずる下がっていった。

 一方、北澤はスタートから先頭グループにつけた。最初は岩城を中心に十人くらいのグループだった。この時期に十五分台のペースについて行ける選手は少ない。周回を重ねるごとに一人二人と選手がこぼれてゆく。三千を過ぎて先頭集団は四人。二年が三人と一年が一人。一年は北澤だけになっていた。

 一着は岩城だった。番狂わせはなかった。この組でただ一人の十五分台。北澤はそこから二十秒ほど遅れた四着。県大会への出場を決めた。大村のタイムは手元の時計で十七分二十五秒。平凡。合宿の練習タイムとほぼ同じ。着順は前より後ろを数えたほうが早かった。

 そして二組目のコール。

 選手の数は三十人近くになる。目標にされる選手はおそらく和泉先輩になる。いまなら岩城と比べてもそう引けはとらない。この前の記録会で誰もがそう思ったはずだ。

 直人自身は自分のレースに徹するつもりだった。県大会を諦めるつもりはないが、こだわればリズムを崩す。この組には総体の県大会へ進んだ選手が四人いる。メンバーのレベルは一組目よりも高いかもしれない。流れは和泉先輩が作る。牽制し合ってスローになる可能性はゼロ。ついていけば自滅は必然。それはわかっていた。

 大村のタイムは目標にならない。遅すぎる。直人は十六分台に目標を切り替えた。一年ではまだ北澤しか出していないタイム。合宿中のトライアルでは十七分二十秒を切っている。四百メートルのタータントラックでスパイクを履く公式戦。十分にやれる数字だった。

 できれば四十秒台―。

 雷管が鳴った。

 和泉先輩が真っ先に飛び出した。ポケットで揉まれたくなかったのだろう。大半の選手が先輩に続いた。強い選手同士が作り出す急流。簡単には崩れない流れ。予想通りの展開。

 練習と違い、誰かがラップを読み上げてくれるわけではない。腕時計をして走るのは煩わしい。ペースは感覚に頼るしかない。

 最初の千メートルで早くも十秒以上離されていた。前との差はどんどん広がる。時計の感覚は薄れてゆく。周りに知っている選手は一人もいなかった。ひたすら見えない目標に向かって走り続ける。力を出し切ることに集中した。

 淡々と距離を刻む。疲労の波が予想を超えて襲いかかってくる。心の芯に打ち立てた棒の意志。その棒が激しい波に洗われてぐらぐらと揺らぎ始める。

 四千メートルを通過。和泉先輩の姿は半周以上も先にあった。すでに単独先頭。後続は十メートル以上も離れている。おそらく五十秒前後の差。仮に先輩が十六分ジャストのペースなら、まだ十六分台に希望が持てる。

 直人は自らを鼓舞するように腿を叩いて気合いを入れた。意識的にフォームを修正した。ペースアップを試みる。前屈みになった上体を立たせ、腕をまっすぐ大きく振る。前に出て行かなくなっているストライドを数センチ先へ伸ばす。残りわずか。あと少し耐え切ればいい。

 前には数メートルおきに追い抜くべき対象が揺れていた。呼吸は苦しい。足も腕も重い。それでもなお、夏の合宿で得た自信が直人を後押しした。

 ラスト一周にさしかかろうとしたとき、ゴールラインの袂でゴールテープの準備をしている審判員の姿が目に入った。振り返ると、和泉先輩が最後の直線に入ってくるところだった。その姿をかろうじて振り切って、直人は加速した。燃え尽きたカスをかき集めて着火させ、最後の一周をむさぼるように走った。ラストの百メートルはおそらくこのレースでもっともスピードが出ていただろう。

 十六分五十八秒―。

 直人は十七分の壁を突破した二人目の一年になった。

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