10月
1
新人戦の県大会は十月最初の週末だった。このイベントが終わると、高校陸上界は冬シーズンを迎える。長距離以外はオフ・シーズン。長距離は駅伝の県大会まで一ヶ月。準備の最終段階に入る。
新人戦の県大会へは六人が出場した。五千で和泉先輩と北澤。千五百で鹿沼先輩と中垣。そして女子から短距離の青井と幅跳びの遠見。
和泉先輩は五位、北澤は八位。ともに来年の関東大会が視界に入ってきた。中垣は予選落ち。自分のベストタイムより十秒以上も遅かった。鹿沼先輩も準決勝止まり。遠見も予選通過はかなわなかった。もっとも目立っていたのはやはり青井だった。百が二位、二百は三位。一年では最高位。来年はインターハイを狙える位置に立ったことになる。
表彰台の青井菜幹はなんだか妙に遠い存在に見えた。まぁ、そもそもさほど近いわけでもないけれど―。
ともかく新人戦はそんなふうに終わった。こっちはここから先が勝負。すでに駅伝メンバーを賭けたサバイバルは始まっている。県内どころか、校内での足下さえおぼつかないのがおれの現状だった。
すでに沖、鬼山の三年二人、和泉、鹿沼の二年二人、そして北澤。五人は当確。変更なし。残りの枠はふたつ。うちひとつは中垣だろう。二区か五区。スピードで押し切れる距離。おそらく二区。最長区間の一区と次に長い三区をつなぐ重要区間。
そして、おそらく五区。一、三、四の長距離区間を終え、六、七のミドル区間へとつなぐ三キロ。ここを長倉先輩と一年五人で奪い合う。
駅伝にさほど興味がないのはいまも同じだ。北澤にどう焚きつけられようと変わらない。十七分台にも権利はある。目標は自由に決められる。あと一年半で時計を三分詰める。自己記録から千メートルにつき三十六秒。かなりの難題。明快な関門。
問題はそれ以外の部分。
中垣には負けたくない。もちろん北澤や藤井に負けるのも癪だが、あいつに対する意識は別物だった。中垣が駅伝に選ばれるなら自分も走る。応援する側に甘んじるのは屈辱的だ。新人戦で実感した。想像以上に不愉快だった。
最短距離にいるのは藤井だろう。新人戦で十六分台。その意味は大きい。
タイムトライアルは二学期以降すでに二回。一回目は五千。二回目は一万。いずれもトラックだった。おれの成績はどちらもぱっとしなかった。五千は中垣にも藤井にも完敗。一万では距離を気にしすぎた。前半をセーブしすぎた。そのツケを最後に払わされた。藤井は八千で振り切った。だが、中垣は離しきれなかった。ラスト百メートルで逆にちぎられた。
逆転するには勝つしかない。幸い、夏以来の疲れは抜けつつある。怠さは後退し、練習が楽に思えることさえある。問題はこの先にまだチャンスが残っているかどうかだ。もう坂本っちゃんの腹は決まっているかもしれない。
あと一ヶ月早ければな―、と思う。体調を思い通りにコントロールするのは難しい。
2
「くっそー、ムカつく!」
中垣は低く吐き捨てた。しばらく途絶えていた罵り声が、ここのところ再び増えてきた。
中垣の隣で藤井直人は一人ため息をついた。
珍しく女子短距離のふたりも一緒だった。すでに夕暮れが近い。六人はサイクリングロードに自転車を走らせていた。
二学期になって、直人には少し気になることがあった。隣ではぶつくさ言いながら中垣がだらだらペダルを漕いでいる。先頭には北澤。その隣に青井。中垣も含め、北澤と青井は小学校時代からのつきあい。違和感はない。でも、その後ろを走る夜野と遠見は違う。なぜこの二人に会話が成立するのか―。藤井はいぶかっていた。
「あの二人、おかしいくないか?」と藤井は中垣に言った。
「どこがよ?」と中垣は二人の後ろ姿を見た。
「別に笑えるようなとこはねぇな」
「アホ。あいつら、つきあってるんじゃあるまいな?」
中垣はもう一度視線を向けた。数メートル先で夜野と遠見が自転車を併走させている。なにか話している。中身はわからない。
「そんなわけねぇだろ」
中垣の興味は薄かった。
「そんなことよりあの大村だ。お前どう思う?」
藤井は深いため息を大げさについた。
「なにがだよ?」と今度は藤井が訊く。
「バカ野郎」
わかってるだろう―、と言わんばかりの睨みが飛んでくる。
「あの野郎、ついこの前まで牛より遅かったくせによ!」
「じゃ、今日のおれとお前は牛以下だな……」
藤井は冴えない表情で答えた。
この秋以降、新コースの後半はフリーが当たり前になってきた。今日の直人と中垣は大村に突き離された。新人戦以降、たびたび起きている展開。二人とも最後の瞬発力勝負まで持ちこたえられない。
「お前はまだいいさ。駅伝のメンバーに入れそうだからな」
「そんなのわかるかよ」
「わかるさ。三キロなら大村に負けねぇだろ。先生だってわかってるさ」
瞬発力なら中垣、持久力なら大村。藤井はそのどちらも中途半端だった。瞬発力なら大村に勝てる。少なくとも互角。持久力なら中垣にだってひけはとらない。
春当時はわからなかった。だが、ここにきてそういう色があぶり出されるように見えてきた。藤井にはまだ自分の土俵がわからなかった。新人戦で十六分台。そこまではよかった。しかし大村が調子を上げてくると、にわかに自分の弱点が見えてきた。焦燥感がじわりと拡がってゆく。
「練習はどう?」
菜幹は自転車を走らせながら、北澤の横顔を見た。
合宿最後の夜以来、なんだか妙な意識が働いている。
「駅伝の練習にシフトしてるからな。あと二、三週はきつそうだ」
「いつもどれくらい走ってるの?」
「朝六キロ。放課後は十五、六キロかな」
「そんなに?」
「うちは多い方かもな」
「よく続くわねぇ」
「それでも強いところとはまだまだ差があるよ」
「目標は?」
「とりあえず関東大会」
「駅伝にも関東大会ってあるんだ」
「県大会で六位以内に入れば」
「じゃ、もし関東大会にいけたら次は全国ね」
「それはまた別」
「別?」
「全国は県の代表戦だから県大会で優勝すればいいんだ」
「今年はどこでやるの?」
「京都。来年も再来年も」
「来年も再来年も?」
「あんた、そんなことも知らないの?」とふいに後ろから厳しい声がした。了子と夜野が聞いていた。
「知ってた?」と菜幹は後ろを振り返った。
「常識よ」
夜野くんに訊いたんじゃないの?と言いたいところを、菜幹は「ふうん」という返事で我慢した。
「じゃ、来年は? 京都まで行けそう?」と菜幹は無邪気に訊いた。
「おれたち全員がもっと速くなれば。な、夜野」
「え? い……いや、でも、おれはまだまだだよ」
「なに、言ってんのよ。速くなるために練習してんでしょ?」と隣で了子が語気を強める。
「まぁ、そうだけど……」
「しっかりなさいよ」
叱りつけるような声。菜幹は思わず頬をほころばせた。あたりはすっかり薄暗くなっている。おそらく了子は気づいてない。
中垣と藤井ははるか後方だった。きっとろくな話をしてないな―、と思う。
「後ろの二人は大丈夫なの?」と菜幹は訊いた。
「あいつらは放っておいて平気だよ」
北澤は造作もなく答えた。おそらく練習に対する答え。そうじゃないんだけどな、と菜幹は思った。
「ずいぶん信頼してるのね」と菜幹は多少の嫌みを込めて言った。
「いまはいい感じだよ」
北澤はまるで気づいていなかった。
それはそうか―。
気づくわけもない。百も承知だった。
やれやれ―。
こんな感情、どこにあったんだろう。菜幹は改めて思い返した。
「なんだ?」と北澤は怪訝な顔でそんな菜幹を見た。
「ううん、なんでもないわ」
菜幹は笑顔で答えた。自分がおかしくてならなかった。
3
井上裕己は家に帰ってくると、食事もそこそこに部屋のデスクに向かった。中間テストが迫っている。
父親と二人暮らし。食事は死んだ母親の妹が作りに来てくれる。もう二年以上になる。
一学期の成績はまずまずだった。国語と古文はやや低め。他の科目には概ね満足していた。ただ、大学は国立のみ。苦手な科目も手は抜けない。
本棚にはバイク雑誌がぎっしり詰まっていた。それ以外にも整備教本やマニュアル本、カタログなどが無造作に押し込まれている。一番上の段にはアライのヘルメット。そして冬用のグローブ。その脇にはハンガーにかかった革ジャン。陸上競技に関連するものはひとつもない。
陸上部は自分の意思ではない。店を継ぐという宿命を回避する手段だった。陸上で父が納得する成績を残す。それが条件だった。大学は現役で国立のみ。ハードルは高い。
目標はメーカーのエンジニアだった。進学は必須。家にカネがないのは知っている。陸上部で結果を出し、なおかつ勉強も怠れない。中垣や藤井が聞いたら腹を抱えて笑い転げるだろう。でも、この決意は曲げられない。
頭を丸めたことに後悔はない。
課題の勝負には勝った。現実には完敗。一周のハンデをもらってきわどい結果。父は納得しない。
母の死。父の横暴な条件。学校でのなんやかんや。やさぐれて投げやりになっていた中二の夏。なんとなくかけたパーマが大問題になって意固地になった秋。あの時からずっと同じ頭。こだわりがあったわけではない。
いいきっかけだった。バクダンと揶揄されたパーマ頭はたしかに走りづらかった。
十一時。
参考書のページを閉じて勉強を切り上げた。首にマフラーを巻き付ける。ハンガーから革ジャンを外して着込んだ。ヘルメットとグローブを掴んで部屋を出た。
家とつながっている店の裏を横切ろうとしたら、まだ光が漏れていた。
「まだ、やってんのか?」と裕己は声をかけた。
父親がZ2(ゼッツー)のエンジンを組み直している最中だった。一週間くらい前にエンジンのオーバーホールで入ってきたやつだ。昨日、ようやく部品が届いたばかり。週末に乗りたいという無理な注文。
「ツーリングに行くってんだから仕方ねぇ」と父親はさして苦でもなさそうな口調で答えた。
「出掛けるのか?」
「ちょっと走ってくる」
「そうか」と父親は立ち上がると、油まみれの手をタオルでぬぐった。
「まだ、凍結しちゃいないだろうが、ヘマしてコケるなよ」
「そこらの暴走族と一緒にすんなよ」
裕己は裏手から表通りにRZを引っ張り出した。
ヘルメットは外へ出る前にいち早くかぶった。髪がなくなった分だけ少し緩い。寒さも堪える。
全員で刈った坊主頭はあの一回限り。伸ばしてもよかった。ただ、短いのも悪くない。手入れ不要。洗髪も楽だ。ひよこのように伸びた髪に躊躇なくバリカンを入れた。少しムラになったが気にしない。
あだ名は相変わらずバクダンのままだ。それも気にならない。斉藤にはマイケルと呼ばれている。そっちは悪くない。マイケル・ジャクソンはジャクソン5時代からよく聴いている。
RZを道路まで押してゆく。乾燥重量139キロ。難なく動く。
道路でサイドスタンドを立て、グローブをはめる。再びスタンドを跳ね上げてシートにまたがる。右側のステップを上げてキックペダルを出す。チョークを引いてペダルに体重を乗せた。
踏み込んだ。
一発でエンジンに火が入った。
裕己はいったんシートから尻を引きはがし、アイドリングのままRZを引いてバス通りを目指した。バス通りまで三百メートル。その間にチョークを調整し、アイドリングを安定させてゆく。
バイク乗りに対する風当たりは日増しに強くなっている。暴走族の影響で、三ない運動は全国規模で拡大している。メーカーやショップにとっては死活問題だった。暴走族が無茶して死ぬのは勝手だ。しかし間接的には一蓮托生。運動がヒートアップすれば、その分だけ家計は締め付けられる。
午後十一時過ぎの通りは静かだった。
裕己は再びRZにまたがった。アイドリングは安定している。ギアを一速に押し込むと、そろりとアクセルを開いた。
風が冷たい。
信号機は点滅に変わり、タクシーがハイビームで通り過ぎてゆく。
東海道線の踏切を越え、平塚の海岸までほんの数分。国道一三四号線を左に向ければ江ノ島。右は箱根へと続く。
右へ切った。西を目指す。
しばらく走ると花水川の橋を越えて、箱根駅伝の中継所が現れる。中学時代に一度だけ見に来たが、さほど印象はない。優勝した大学さえ覚えてない。そういえば、夏の江ノ島で北澤が箱根駅伝のことを熱心に話していたっけ―。ふと思い出した。
単純な野郎だ―、と思う。
中継所を通り過ぎると、道は高架道路に向かって緩やかな傾斜を駆け上がる。そこから先は西湘バイパスだった。制限速度七十。この時間にそんなスピードで流している車はない。片側二車線、メーターの針は百を超えた。スロットルにはまだ余力がある。
突如、先のほうでアクセルをあおるけたたましい騒音が聞こえてきた。ヘルメット越しにもはっきり聞こえる。マフラーに穴でも開けているかもしれない。数台規模。あるいは数十台。
ほどなく、道の先に渋滞が見えてきた。事故か夜間工事でもない限り、深夜の西湘バイパスで渋滞はおきない。暴走族が道をふさいでいるに違いなかった。
スピードを緩めて渋滞の先を見る。煙っていてよくわからない。裕己は車列の隙間を縫ってバイクを進めた。
渋滞の元凶が見えてくる。渋滞の先頭まで出ると、五十メートルほど先にそいつらはいた。一、二、三……と裕己は道いっぱいに展開しているバイクの数を数えた。時折放つロケット花火の煙で視界が悪い。
全部で八台。思ったよりは少ない。
ゴテゴテに改造したむくつけきバイク群。この寒空のなか、薄着の特攻服にノーヘル。背もたれのあるタンデムシートでバットを握った奴までいる。
クソども―。
裕己はあいだに突っ込めるスペースを瞬時に見極めると、ギヤを一段落としてスロットルを絞った。
一瞬、持ち上がったフロントを上体で押さえ込み、目標の隙間に向かって加速した。
自分たちのバイクとは異質のサウンドに、ほぼ全員が後ろを振り返った。すでにRZは見つけた隙間に飛び込まんとする刹那にあった。
相手のエンジン音が一斉に変質した。それまでのあおる音からクラッチをつないだ音に変わる。流れが転じる。
裕己がバイク二台の隙間にRZをねじ込むと、左から蹴りが飛んできた。裕己はマシンを傾けて交わした。上体を持ち上げ重心は左。そこへ右手前方からバットが水平に流れてくる。とっさに上体を伏せてこれも交わす。
スピードの違いは歴然だった。
前で三台のバイクが進路を絞り込んでくる。進路が閉じる前に網を突破した。その先にはクリアな道がまっすぐ続いていた。
暴走族たちは怒り心頭だった。遠吠えのような声がする。一斉に加速してRZを追いかけてくる。相手はZ400FX。ホークⅢ。XJ。400クラスが中心だった。250ではCB250E。ハーレーみたいなハンドルをつけたSR250。どれもが本来の性能を失っていた。見る影もないほど無残に。絶望的に。
RZの敵ではなかった。バックミラーに映る暴走族連中の姿はあっという間に小さくなっていった。
速い者が勝つ。レースとなれば、バイクも陸上競技も変わらないその爽快感もおそらく一緒だ。かつてそれは当たり前だった。まだ速かった頃は。でも、いまは遅いほうの気持ちがよくわかる。
いつの間にか陸上のことを考えていた。ヘルメットの奥で裕己は舌打ちした。
4
中間テストが終わり、日常が戻ってきた。駅伝までは三週間を切っている。その週の金曜日。タイムトライアルの日はやってきた。
グラウンドでロング(L)・スロー(S)・ディスタンス(D)を一万メートル。その後にマラソンコースでタイムトライアル。駅伝の選考レース。疑いの余地はない。
新コースの電波塔に入ってゆく山セクションを丸々省いた五・五キロ。これを普段とは逆の反時計回りに走る。新コースのラスト一キロに控える丘が、最初の一キロに設定される。この違いには大きな意味がある。
スタート直後に急な下り坂。そこから一転上り。最初はだらだら上って、ほどなく急勾配のヘアピン坂。ここである程度バラける。それでもまだ序盤。駆け引きには早い。丘はその数百メートル先に訪れる。この丘越えが残りの流れを左右する。
トラックで一万を走り終える。スタートは十分後。それほど時間はない。全員がのそのそ校門前まで移動してゆく。
「スタートから行くか?」と藤井が訊いてきた。
「いや、ゆっくりいく」
早くも駆け引き。
「嘘つけ!」
藤井は舌打ちした。
「お前はどうするよ?」
「ここんとこ調子悪いからな。様子見ながら行くさ」
「嘘コケよ……」とおれも返す。
「中垣、お前どうする?」と藤井は中垣の背中に声をかけた。
「行くに決まってんべ。お前らは最後までおれのケツ見て走れ」
中垣は挑発するように答えた。
まったく、どいつもこいつも―。
いつもこれだ。練習前に「電波塔の坂はゆっくり行こう」と全員一致で申し合わせていても、必ず誰かが反故にする。むしろそういう取り決めをした時のほうが、厳しい練習になるケースが多かった。入部当初はもっとおおらかにやってなかったか―。そんな記憶ももう忘れかけている。
「最後のトライアルだな」と北澤が言う。
「だな」と藤井がうなずいた。
メンバー登録の締め切りはもうすぐそこに迫っている。今日の結果で決まるはずだ。
十分という時間は瞬く間に過ぎた。
校門前で全員が横一列に並ぶ。
「位置について」
野口先輩の声で空気が張り詰める。校門の前を横切る鉄扉のレールに合わせて、十二個のランニングシューズがぴたりと並んだ。門の脇で坂本ちゃんが厳しい視線を向けている。プレッシャーのかかるスタート。
「スタート!」
十二人が一斉にダッシュした。
直後は急な下り。一気に二百メートルを駆け下りる。
中垣は宣言通りに飛び出した。さすがはアホだ。すぐ直後を沖、鬼山、和泉の三先輩と北澤も追いかける。さらに鹿沼先輩と井上が続く。斉藤までがその直後をゆく。斉藤の尻を見て走るのはずいぶん久しぶりだ。ペースはかなり速くなりそうだ。
おれは下り坂を意識的にセーブした。このロスはすぐ先の上りで帳消しにできる。スタートでリズムを乱したくなかった。
坂を下りきって突き当たりを左折。ちらりと後ろを見る。藤井がいた。マークされている。その顔がわずかに笑ったように思えた。
おれかお前のどちらか―。
おれにも藤井にもそういう意識がある。負けたほうがメンバーから遠ざかるとわかっている。もちろん二人の勝負に勝てばいいというわけではない。最低でも七着以内。それは必須。中垣にきっちり勝って、六着以内を確保したい。
前をゆく斉藤には期するところがあるのだろう。後ろから見ていても気迫が感じられる。ただ、まだ脅威を感じる存在ではない。丘越えまでには抜けると踏んだ。長倉先輩と夜野は自分との戦い。たぶん。足音さえ聞こえてこない。
不気味なのは井上だ。井上の積極策は記憶にない。奴がどう張り合ってくるのか想像できない。
ともかく離されるわけにはいかない。離されれば仕掛けのタイミングを失う。
ヘアピン坂をかけ上がる急坂で、早くも隊列が乱れた。おれの十メートル前で、和泉先輩が中垣を抜きにかかった。三年二人と北澤も続く。ワンテンポ遅れて鹿沼先輩まで中垣を追い抜いてゆく。中垣はあっさり行かせた。中垣らしくない。今日は厳しい戦いになりそうだ、とこの時思った。
斉藤は井上の後ろにぴったり張り付いていた。井上に坂で動いた四人を追いかける意志は見られない。奴もまた腹に決めている相手がいるようだ。ますます嫌な予感だ。
ヘアピン坂を上がりきった。隊列は前五人の直後に中垣。少し離れて井上と斉藤。おれと藤井はその後ろを追いかける展開だった。
どうもヘアピン坂は好きになれない。急すぎる。下りでもトップスピードには乗せられない。むしろブレーキをかけながらの走りになる。場所が悪いうえに駆け引きに使えるほどの距離もない。どこをとっても中途半端だ。だから、おれはこの坂の上をスタートラインに決めていた。
そのポイントを通過した。
坂を上りきるとすっと楽になる。ここで前との差を一気に詰めた。すぐ先には丘が待ちかまえている。坂自体は二百メートルもない。短い坂を生かすためには、その手前から相手を追い込む必要がある。
ペースを上げて斉藤と井上に並びかけた。井上がちらりとこっちを見た。その表情から競り合いに費やす余力は伝わってこない。
井上と斉藤を抜いて、目標を先に据える。中垣の背中。
藤井はぴったり後ろにいる。表情を読みたいが我慢する。振り返れば相手を刺激する。こちらの表情も読まれる。中垣も振り返らなかった。誰の足音か察しはついているだろう。
呼吸がきつい。オーバーペース覚悟でとばしているのだから当然だ。一気に追い抜こうとしたが、中垣も楽には抜かせない。並びかけたところでペースを合わせてくる。その刹那にちらりとこっちを見た。おれは目の角でその表情をとらえた。
ハイペースの流れで坂に飛び込んだ。
おれ。中垣。藤井。三人の争い。前はすでに坂の向こう。姿は消えている。秋を迎えて北澤はひとつ先の領域に入っていた。時に先輩たちを脅かすほどの勢いがある。いまは追いつけない。
路面をつかむようなピッチで脚の回転を上げる。体ひとつ二人の前に出る。その差をじりっと広げる。しかし突き放すには距離が足りない。勝負は坂を上がったあとも続く。むしろポイントはそっちにある。上がってさらにスピードを上げる。限界まで追い込む。それ自体が手形になる。自分が苦しむ分だけ相手も苦しめる。すぐ先の下りでもスピードは落とさない。おそらく二人は下りで息を入れる。呼吸を整えてバス通りで仕切り直し。おれはそこまでにリードを広げるつもりだった。ともに力が拮抗する相手。気持ちで後手に回れば負ける。諦めさせれば大きく前進する。中垣と藤井の前後ろはどうでもいい。隣の相手に意識が向けば好都合。こっちも自分の走りに専念できる。
バス通りに出た。後ろから気配が消えている。その差を確かめたいが我慢する。ここが一番苦しいところ。バテたそぶりはおくびにも出せない。
バス通りに出て前との差が見通せた。五人のうちの四人は百メートル近く先。先頭に刃向かうのは到底無理。拘ってペースを崩せば、逆に後ろからやられる。遅れ始めているのは鹿沼先輩だった。間違いなくオーバーペース。この先、さらにペース落ちると思った。おれは鹿沼先輩を目標に据えた。
バス通り半ば。すでに半分は過ぎている。後ろからのプレッシャーはない。おれはぶらりと両腕を下ろした。こわばった肩から力を抜く。ここで息を入れる。雀がチュンチュンいいながら田んぼの中を飛んでゆく。気持ちに余裕がある。行けるかもしれない。この時、初めて思った。先頭はもうバス通りを出ていた。見えなくなっている。どんどん離れてゆく。それでも気にしない。いまは別のレースを戦っている。鹿沼先輩との差も思ったほど詰まらない。新人戦で準決を走った力量は伊達ではない。五キロのロードなら行けるかもと思ったが、そう甘くない。
バス通りを離れ、丘へ向かう分岐点を過ぎる。残り一キロを切っている。ヘアピン坂を回る刹那、初めて後ろを確認した。坂の上に二人の姿。約二十メートル。わずかに藤井が前。だが、思っていたよりずっと近い。中垣はスタート直後のハイペースがたたったか。何度やっても学習しない奴だ。
ゴールは間近だった。あとはここを下りきって校門前の急坂を上がるだけ。少し早めのスパート。相手に行けると思わせたら、勝負の境目は曖昧になる。ヘアピン坂の急な部分を抜ける。接続する緩やかな下りにスピードを乗せてゆく。
角を曲がって最後の急坂二百メートル。早めスパート分だけ苦しくなる。中垣も藤井の後ろでしぶとく粘っている。二人が一緒になって追いすがってくる。
校門前。傾斜はさらに急。
凌ぎきった。
時計にして五秒か六秒。
藤井と中垣の争いはきわどかった。瞬発力で勝る中垣。持久力では藤井に分がある。互角の争い。校門に入る最後のコーナーを内で回った藤井がわずかに中垣を制したように見えた。平坦ならまず藤井に勝ち目はなかった。坂の分だけ中垣の脚が鈍った。
そこから二十秒遅れて井上がゴール。斉藤は前半のオーバーペースが裏目。そこから三十秒くらい遅れた。さらに三十秒。夜野と長倉先輩が相次いでゴールした。この時、夜野は初めて長倉先輩に勝った。
駅伝前の最後のトライアルが終わった。勝ちはしたが、その差はごくわずか。秋以降の成績を重ねれば、藤井の成績はおれより断然上。劣勢だと思った。
5
週が明けた水曜日に駅伝のメンバーが告げられた。
一区 沖隼人
二区 中垣竜二
三区 和泉雅章
四区 北澤聡
五区 大村洋護
六区 鹿沼孝治
七区 鬼山猛史
五区に入った。
うれしかったかといえば、もちろんうれしかった。でも、達成感には欠けていた。あっさりした気分。
意外だったのは、鬼山先輩がアンカーに回り、四区に北澤が抜擢されたことだ。力の証。認められた証。北澤は先週のトライアルで鬼山先輩に競り勝った。能力の絶対値はともかく、いまの北澤はよほど調子がいいのだろう。そういう部分も含めたオーダー。高校駅伝の三区と四区は一区に次ぐ長距離区間に当たる。必然、各校とも骨っぽい選手を配してくる。その分、アンカーは駒落ち感が出る。五千を十五分台で走る鬼山先輩なら、関東大会常連の大根にだってひけは取らない。
中垣は予想通り二区。距離は五区と同じ三キロ。重要度は天地の差。一区がいかに最長距離といえども、高校生レベルではそれほど大きな差にはならない。二区の出来如何でその差は大きくも小さくもなる。その結果で三区と四区の走りも変わってくる。
一方の五区は長い区間がすべて終わったあとのつなぎ。六区と七区は合わせても十キロちょっと。高校駅伝の基準はマラソンと同じ四二・一九五キロ。ちょうど残り四分の一くらいのところで襷をつなぐ計算になる。高校駅伝ではすでに決定的な差がついている可能性が高い。県大会レベルならなおさらだ。草野球なら九番ライト。
補欠には藤井と井上の名が呼ばれた。
6
その週の日曜日、長距離陣は丹沢湖までコースの試走に出掛けた。
部室の壁には国土地理院発行の二万五千分の一地図が貼ってある。丹沢湖を巡る地図。そこに各区のスタート地点が赤ペンで記されていた。
丹沢湖は湖のシンボル的存在といえる吊り橋―永歳橋を中心にして、東西北の三方に放射状の水面が広がっている。コースは湖に沿って走る周回コース。反時計回りで終始湖を左に眺めて走る。
「寒いなぁ……」
斉藤がぽつりと言った。
紅葉にはまだ少し早い。それでも平塚あたりに比べると、季節はずっと進んでいる。赤く色づいた葉がちらほら目に付く。
おそらく試走にもっとも興味がないのは井上だ。斉藤よりも。夜野よりも。バスのなかではずっと参考書に目を落としていた。
藤井レポートによると、成績は学年でトップクラス。うちの高校のレベル自体はかなり怪しい部類だが、そこを割り引いても国立を目指せるレベルにあるようだ。あのハゲ頭にそんな頭脳が組み込まれているとは驚きだ。そもそも領南に来たこと自体が意味不明。勉強のできるバカなのかもしれない。
ちなみに、藤井レポートとは藤井が持ってくる情報だ。どこから仕入れてくるのか、硬軟簡難区別なく集めてくる。信頼度は高い。おれが名付けた。
「よーし。じぁ、軽く一周しようか」
坂本ちゃんはさも楽しげな口調でワゴン車の運転席に乗り込んだ。この先生はよほど陸上競技が好きなのだろう。練習がきつくなるのも道理だ。
永歳橋袂の駐車場からスタート。一区のコースを順周りに進む。道幅は十分。車の往来はほとんどなし。坂本ちゃんはワゴン車のハザードランプを点滅させながら、おれたちの後ろをゆっくり伴走した。目的はあくまで試走。苦痛はない。こんなにのんびり走るのはずいぶん久しぶりだ。一キロ五分。もっと遅いかもしれない。
コースは緩い下りがだらだら続いてゆく。上りにかかったかと思うとまた下る。やがて比較的急な下りにさしかかった。まっすぐ駆け下りた先に上り坂の橋。約百メートル。下には湖から流れ出す川がある。すぐ先には湖を対岸に渡る橋。コンクリート製の板みたいな橋脚が二本。静かな湖面から生えるように突き出している。その上に水色の桁を乗せた桁橋。欄干に玄倉川橋とある。
「スタートから約三キロ」と車から先生の声が飛ぶ。ここは湖の東端部にあたる。橋の手前は五区の中継所になっている。ここからスタートする。
橋を渡るとコースの様相は一変する。湖の縁に沿って山裾を削り取って敷いた細い舗装路。それが北の端に向かって弧を描いてゆく。バスも走る大通りに対して、こちらは乗用車一台がやっとという程度。一方通行の標識もある。
起伏はさほど気にならないが、純粋な平坦部分はほとんどない。常時上りか下りのどちらかの支配下。そしてカーブと小さな橋。橋はともかく、カーブの多さは問題だ。先を見通せるポイントが少ない。見える場所でもせいぜい百メートルから二百メートル先。五区ともなれば、前から後ろまではかなり伸びているはずだ。
「大村、これはきついぜ」と隣を走る北澤は妙に嬉しそうだ。ことによると、最初から最後まで孤立無援の単走かもしれない。北澤の言うきつさとはそういう意味だろう。
「お前がペースメーカー連れてきてくれりゃ問題ねぇよ」とおれは答えた。襷を持ってくるのは北澤だ。団子状態でもらえばレースはしやすくなる。無論、厳しさもある。ただ、一人でペースに戸惑うよりはずっといい。
「トップで渡すことになるかもしれないぜ」
「それはないだろ」
「大村、聞こえてるぞ」
前のほうから沖先輩の声が飛んでくる。よく聞こえる耳だ。
おれは何も言えずに言葉に詰まった。
「アホ」
後ろから藤井の声がぼそりと聞こえた。
ともかく、このコースは厳しい。いくつものカーブと小橋で構成された三キロ。コース上の目印もつけにくい。何度も走れるならいい。でも、おそらく本番までは二回。今日と当日のレース前。その二回でどこまで掴めるか。
やがて湖を分断するようにかかる大仏大橋が見えてきた。橋桁の両側から鋼鉄の弧を掲げ、数メートルおきに鉄骨で橋桁を吊っている。その様には先鋭的な永歳橋とは対極の雰囲気がある。とらえどころのないコースのなかで、もっともわかりやすい目印。六区の中継ポイントはこの橋の手前にある。橋を見てからスパートしているようでは遅すぎる。もう少し手前に目印が欲しい。
結局、橋の脇を漫然と走りすぎた。
コースは北の端にかかる中川橋を目指す。ここもコースの構成は同じ。連続するカーブと緩い起伏。それが約一キロ半にわたって続く。
北の端にかかる中川橋の入口が四区の中継所。橋を渡ってバス通りに戻る。ここからは全コースのなかで唯一ともいえるダイナミックなレイアウトになる。下りと上りが連続する一区のクライマックス。洞門と隧道がアクセントになっている。
湖の北と東の部分を合わせた一周の距離は約十キロ。これがほぼそのまま一区のコースだった。まっすぐ永歳橋を渡れば、スタートした駐車場はすぐそこにある。だが、試走は橋の手前を右折して、長いトンネルに向かった。ここは二区と四区のコース。湖の西側は北に三保ダムを抱える約三キロ。はるか先に小さな光の出口が見える。トンネル内は薄暗く、先生の運転するワゴンのヘッドライトが行く手に自分たちの影を長く伸ばす。長さは五百メートル。二区全体の約六分の一はトンネル内での攻防になる。
西側のコースも湖の途中で橋を渡る。トンネルを抜けて数百メートル。大仏大橋をやや小振りにしたような世附大橋にたどり着く。橋の先は再び道が細くなり、曲がりくねった道が一キロあまりにわたって三保ダムの放水口まで続く。
放水口まで出ると、おもむろに左右の視界が開けた。左手に湖、右手には放水監視塔が六基。眼下には緑に覆われた山々が折り重なって見える。尾根の間を縫って滑り落ちるエメラルド色の川筋がのどかだ。ここからが三区。監視塔の脇をほぼ平坦のアスファルトが約五百メートル。ようやく最初の駐車場に戻ってくる。
外周の全行程は十五キロ弱といったところか。スタートしてから一時間半以上が経っていた。
イメージに反してメリハリのないコースだった。あえて印象に残る部分を挙げれば、北の端の中川橋から南下して永歳橋にいたる二キロ。長さ五百メートルの落合隧道から西の世附大橋にいたる一キロ。その程度だ。細く曲がりくねった裏の道が全体の半分を占める。五区にいたってはほぼすべて。似たようなカーブ。似たような小橋。どっちつかずの起伏。そんな道を湖に沿って走る。ぼやけた霧のなかを手探りで走るような気分だ。たしかに景観はいい。でも、当日はほとんど目に入らないだろう。風景に見とれる余裕があれば、つっとっているに違いない。
覚悟、期待、そして戦略。膨らんだのは不安だけだった。




