7月
1
七月に入るとすぐに学期末テストがやってきた。
部活が休みになるのはいい。が、浮いた時間に勉強するかと言えば、その意欲はまったくもってない。中間は散々だった。このままだと少々マズいことになる。それでもやる気が起きない。部活と同じ。あるいはそれ以上。
週明けの月曜日。放課後は午前中のうちにやってきた。おれと斉藤は連れだって教室を出た。
空は珍しく晴れている。白く陽気な雲が呑気に漂っている。裏腹に、空気は不愉快な蒸し暑さに包まれていた。
「昼飯食って帰らないか?」と斉藤が言う。
「カネがない」とおれは却下した。
「どーんと任せなさい。ごちそうして差し上げよう」
おれは舌打ちした。
「気前がいいな」
むかっとくる。
昨日は斉藤に誘われて競馬場に出掛けた。府中の東京競馬場。競馬はやってないのに馬券だけは売っている。妙な感じだった。
「ローカル開催に移ったからな」と斉藤は謎の言葉を吐く。
場内は閑散としていた。競走馬はどこにもいない。馬は場内のテレビの中で走っていた。オヤジたちは紫の煙をまき散らしながら熱心に画面を見つめている。ため息と罵声のるつぼ。そんな中で、朝から夕方まで馬券を買い続けた。そして、斉藤はしこたま儲けた。おれはスッカラカンにむしり取られた。帰りの電車賃は斉藤のおめぐみに与った。試験勉強ほったらかしで遊んだ罰。無論、その罰は斉藤にも下るはずだ。
「乗った!」とふいに背中から声がかかった。振り返ると藤井がいた。
そこから校舎を出るまでのあいだにアホの中垣に出くわした。さらに自転車置き場で北澤に会った。そのたびに藤井が声をかけてメンツが増えてゆく。こういう日に限ってこの調子だ。知ってて待ち構えてたんじゃないかと思えるほどだ。
「よ~し、みんなまとめてついて来ーい」
なぜか藤井が仕切っている。
「お前は植木等か……」とおれは呆れた。
「お前、ほんとに大丈夫なのか?」
自分で数を増やしておきながら、藤井は不安げな色を浮かべる。たしかに、おれもないけど―、は洒落にならない。
「心配すんなって」
なぜか中垣が機嫌よく藤井の肩をたたく。
「お前は少し心配しろよ」と藤井は中垣の頭をこづいた。
なんだか妙な展開になった。おれたち五人は群れをなして校門からの坂を自転車で駆け下りた。
店は藤井が決めた。この手の段取りは独壇場だ。誰も文句を言わない。案内した先はお好み焼き屋だった。丸九という看板の掛かっている。学校からほどよい距離。伊勢原組のおれたちにもハンデのない場所だった。気の回し方がいかにも藤井らしい。
店は空いていた。十脚くらいのイスが並んだカウンターと、大小のテーブル席が五つほど。それぞれに鉄板が備え付けられている。
おれたちは一番大きな八人掛けを占領した。豚玉、ネギ玉、イカ天と各々が好き勝手に注文する。
「ホントに大丈夫だな?」
真っ先に注文したあとで、藤井はもう一度念を押した。斉藤は答える代わりにスポーツバッグから財布を出した。ナイロン製の黄色い財布。だいぶ使い込まれている。斉藤はマジックテープをベリッと引き剥がすと、中身を藤井に見せた。
「うーん……。よし。みんな、今日は食い放題だ」
「おい、そんなに入ってんのかよ。おれにも見せろ」と中垣が手を伸ばす。
「だーめだ。お前は抜きかねん」
斉藤はさっさとバッグに財布を放り込んだ。
「てめぇ、人を泥棒扱いする気か?!」
財布には聖徳太子が少なくとも三人はいるはずだ。もちろん黙っていた。
そうこうするうちにボウルに入った具材が到着した。鉄板での仕上げは自分たちでやる。頼めばやってくれるのに、「おもしれぇ」と中垣が仕切って自分でやるハメになった。
まず、藤井が中身を鉄板にぶちまけた。さすがに藤井は手慣れている。いわゆる広島風。自分でやるにはそれなりのセンスとテクが要る。そしてなによりキャリアだ。藤井以外は全員童貞。とにかく見よう見まねだ。
意外にも、一番へたくそなのは北澤だった。生地から具材がはみ出して一体感を失っている。焼き方も見るからにムラ。たいていのことは並以上にこなす北澤にしては珍しい。斉藤は手先が器用だ。そう酷いモノは作らない。不本意ながら、おれと中垣は似たようなレベル。幾分おれのほうがマシだ。
「腹に入れば一緒だ」と北澤は嘯く。
北澤の負け惜しみを初めて聞いた。ただ、それはちょっと度を超えていた。イヌが後ろ脚で砂をかけるレベルだった。
「おれはこれがいい」
北澤は平然と言い切ってびくともしない。これで、ではなく、これが、という。負けず嫌いも極まれば感心に変わる。でも、間違いなく嘘だ。
普段の練習ではその地金はあまり目立たない。一年にライバルがいないせいかもしれない。しかし一枚剥げば負けじ魂の地肌をさらけ出す。
「昨日、城山に行ってきたんだけどよ。な」と、ふいに中垣が北澤に相づちを求めて切り出した。
「あぁ」と北澤は不器用にお好み焼きを口に放り込みながら頷いた。小田原の城山競技場。そういえば、実業団の大会があったっけ、と思い至った。こいつらも勉強なんてしてなかったらしい。まぁ、競馬よりは健全だ。
「初めて瀬戸を間近で見てきたぜ」と中垣は興奮気味に続けた。
「ダウンのあとで握手してもらったんだぜ」
ガキのように無邪気に騒ぐ。
「それで思ったんだけどよ―」とそこで中垣は言葉を切った。いやな予感がする。
「おれたちもボウズにしねぇか?」
唐突に突拍子もないことを言う。
「なんでそうなるんだよ」と藤井がもっともな反論をする。そもそも一年のなかでボウズ頭の奴なんて一人もいない。うち一人に至っては爆弾頭だ。先輩でさえ短く刈り込んでいるのは鹿沼先輩一人だけだった。
「なんかわかんねぇけどよ。一体感、ってーの? おれたちには足りねぇ気がすんだよな」
てめぇの口からそんな言葉が出るとは驚きだ―、と喉元まで出かかった。滑稽でさえある。本人も自覚しているはずだ。おれには一瞥もくれない。
「北澤はどうなんだよ?」
藤井は北澤に訊いた。
「おれはどっちでもいい。みんながやるなら従うよ」
北澤にとっては、たいした問題ではないのだろう。そんな口ぶりだった。
「斉藤は?」
「ボウズねぇ。おれはロッカーだぜ。髪は命だ」
「だよなぁ」と藤井は語気を強くしてうなずく。ロッカーという部分にはまったく触れない。
「でも、これから暑くなるしな。一度くらいやってもいいかな」とあっという間に前言を翻した。ロッカーが聞いて呆れる。
「お、いいねぇ。わかるねぇ、斉藤君」と中垣が調子づく。
もともと斉藤はこういうタイプだ。媚びるつもりはないのだろうが、いわゆるお人好だ。
藤井はため息をついておれを見た。
「どうするよ?」と訊く。
「お前、やるなら下の毛も刈ってこいよ」とまず斉藤に釘を刺す。
「おう、そうだ! チン毛もスポーツ刈りだ!」
威勢よく藤井もうなずく。
「なんでだよ!」
「全員でやるってんなら、まず、井上を説得しろよ」
おれは鉄板を挟んで一番遠い場所に座る提案者に言った。斉藤の反論を無視した。
「そうだ!」と藤井も膝を打った。
「あの爆弾頭を丸坊主にできるなら一年全員で丸刈りってことにしようじゃねーか」
夜野には悪いが、まぁ、六人がやるとなれば納得するだろう。藤井の提案に異論はなかった。
「よーし、決まりだ!」
中垣はイスから立ち上がると、挑発的な目でおれを見た。
睨んだって知るもんか。相手が違う。
「よぉし。見てやがれ、あの爆弾頭。必ずおれの手でつるっぱげにしてやる! ついでに斉藤のチン毛も丸刈りだ!」
妙に気合いが入っている。
「こいつ、競技場で瀬戸に握手してもらってからずっとこの調子」と北澤が呆れ顔で説明した。
なるほど。単純バカだ。
その北澤がいつの間にかまともなお好み焼きを突いている。くしゃくしゃに焦げ付いたお好み焼きはそっくり中垣のものと入れ替わっていた。
興奮さめやらぬ感じでイスに座り直した中垣は、箸を手にして目をむいた。
「あー! お前、いつの間に!」
興奮しすぎて気づかなかったとみえる。北澤の目の前で、すでに月の形は半分以上が欠けている。
「お前、下手くそだよな」と北澤は他人事のようにぼそりと言った。やはりマズかったようだ。
「くっそー、腹壊したらお前のせいだからな!」
それでも食い気は抑えきれないらしい。中垣はやけになって北澤の作った黒焦げを食べ始めた。
「おい。外は焦げてるのに中は半生だぞ。どうすりゃこんなふうに作れんだよ」と中垣は文句を言いながら食う。
「下の毛は切らねぇぞ。絶対切らねぇからな」
斉藤はおれたち一人ひとりの顔を見ながら同じ言葉を繰り返していた。もちろん誰ひとり相手にしなかった。
気象庁が梅雨明けを発表したのはそれから二日後のことだった。
2
試験明けの練習はいつも気怠さとともに始まる。中学時代からそうだ。練習再開が待ち遠しかったことは一度もない。
今年の梅雨前線は平年よりも十日ほど早く太平洋高気圧に屈した。天気の悪い日は多かった。大雨もあった。それでも全体の降雨量は気象庁の期待に届かなかったようだ。試験休みの最中に梅雨が明けて、ぎらつく太陽がじりじりとグラウンドを焙っていた。
「この前の話はどうなったろうな?」
放課後の教室。弁当の卵焼きを口に放り込みながら斉藤が言う。
「あぁ、お前のチン毛をどうするかって話な」
「それは絶対やらねぇからな!」
「まぁ、それは追々考えるとして―」
「考えねぇょ!」
「井上次第だろうな」
奴が爆弾撤去に同意すれば、おれたちも腹を括るしかない。
「できれば切りたくねぇなぁ」
「なーに言ってんだ。お前があのアホを乗せたんじゃねぇか」
斉藤が薪をくべなければあそこまで燃えたりなかった。擦ったマッチの火はそのままジュッと消えておしまいだったはずだ。
「ちゃんと言ったぜ。気は進まねぇって」
「なら、いまから訂正してこいよ」
「お前も冷たいねぇ」
「アホ……」
ため息をついて、おれはカラになった弁当箱の蓋を閉じた。
だらだら時間をやり過ごして、午後十二時四十分。練習は一時からだった。トイレに寄るという斉藤を置いて、一足先にグラウンドへ向かった。
帰宅部の連中はとっくに帰ったあと。他の部活もほぼ休み。校内はがらんとしていた。真夏の蝉が短い一生を振り絞るように鳴いていた。
いつものコンクリート段に向かって歩いてゆくと、段に座っている奴が一人。その脇にもう一人。井上と中垣だった。声は聞こえない。でも、内容はわかる。おれは様子をうかがいつつ、近づいていった。
かなり近づいたところで二人がおれを振り返った。ほぼ同時。おれはぴたりと足を止めた。
険悪な雰囲気。話はあれに決まってる。決まったなら早く知りたい。だが、どうも雲行きが怪しい。おれは黙って踵を返した。
「待て!」と鋭い声が二人から同時にあがった。
「逃げる気か?」と井上が言う。
「なんでおれが逃げなきゃなんねんだよ」とおれは振り返った。
「お前が言ったんだろ! おれが切ればってよ!!」
「なにー?」とおれは視線を中垣に向けた。
「てめぇ、ふざけんなよ!」
無性に腹が立った。
「そう言ったろうが」と中垣はあくまで太々しい。
「バカ野郎、全員でって言ったのはてめぇだろ。巻き込むんじゃねぇよ!」
「切らねぇよ。お断りだ!」
井上は言い切った。
「なんだと?! 切らなかったらこいつの思う壺だぞ」
「知ったことか! 切ればお前の思う壺だろうが!!」
そりゃ、そうだ。なかなか面白い返しをする。中垣はぐうの音も出ない。おれは腹のなかで腹を抱えた。
そうこうするうちに続々と部員が集まってきた。練習が始まる頃には、もう部全体の話題になっていた。その声はおのずと坂本ちゃんの耳まで届いた。そして事態は思わぬ方向へ向かった。
全員揃ってアップ。種目別に分散したあとで、坂本ちゃんは練習メニューを発表した。
「今日はロードに出るつもりだったけどな。変更してトラック一万。そのあと五千のタイムトライアルをやる」
なぜ?
全員がそう思っただろう。休み明けにいきなりタイムトライアルとは珍しい。炎天下の暑さもある。意図を計れない。
「ボウズにするかどうかでもめてるらしいな」
坂本ちゃんは誰に確認するわけでもなく、一同を睥睨した。坂本ちゃんの睨みは鬼より怖い。
「井上が切れば、一年全員でボウズにします」と中垣が出しゃばった。
「よし、わかった!」と坂本ちゃんは嬉しそうにうなずいた。
「タイムトライアルで中垣が勝てば全員ボウズ。井上が勝ったらやりたい奴だけボウズ。どうだ? いい考えだろう?」
微妙な沈黙が流れた。やる前から結果は見えている。
「そうだな。井上にはハンデを一周つけよう」
おれは瞬時に計算した。いまの中垣の力とこの暑さ。二百五十メートルのトラック。五十秒前後の差になるか―。
ハンデの妥当性は微妙なところだ。五千のタイムトライアルは初めて。力の差は明白だが、タイムに置き換えるのは案外難しい。暑さへの対応力もカギになる。最後は井上の本気度が分水嶺。本気でハゲが嫌なら、能力以上を発揮するかもしれない。
一同の反応は一様に曖昧だった。
「よし、じゃ始めようか」と坂本ちゃんが手を打った。条件はうやむやのうちに確定した。
まず、トラック四十周。それ自体に重圧は感じない。正確には麻痺した。もはや一万という数字にプレッシャーはない。ただ、試験明け最初の練習だ。しかも梅雨明け直後の炎天下。決して楽ではない。
走っている間はトライアルのシミュレーションをしていた。中垣が井上との力差を正確に把握している可能性はゼロ。ただ漠然と見下している。おそらくスタートから強気に攻める。展開のカギは井上が握っている。
そこまで考えて、ふと思った。
ハンデ一周とはなんだ―。
なぜタイムではなく一周なのか?
問題はハンデの付け方だ。最初に井上をスタート。一周回ったところで本スタートになるのか? それとも全員が一斉スタートして、中垣が井上を周回遅れにする条件か? いずれにしても、中垣のオーバーペースが目に浮かぶ。あのアホはペース配分を知らない。聞いたことすらないかもしれない。
どっちか? 前者なら一周目は歩いて回ってもいい。圧倒的に有利。このレースは純粋なタイムトライアルではない。中垣が一周のハンデをどう挽回するかの戦いになる。
おもしろい。
おれならどう走るだろう。そう思って井上の作戦を想像した。脚力。性格。暑さへの耐性。走りの質。すべてが関わってくる。いつの間にか暑さを忘れていた。
四十周を走り終えて二十分。短距離陣がトラック練習を終えた。トラックがクリアになる。今日は試験直後とあって、活動している部活はほとんどない。野球部は甲子園の予選が迫っているはずだ。呑気に休んじゃいないだろうが、姿は見えない。ネットで仕切ったテニス部とハンドボール部のコートも今日はカラだ。
タフなレースになる。休み明けにこの暑さ。スタート前の緊張感。
時おり、グラウンドをわたってゆく風が心地いい。陽はまだ高く、気温の下がる気配はない。少し休憩して水分もとる。中学時代から水を飲むとバテると言われてきた。いまだ真っ向から否定する人はいない。だから飲み過ぎないようにはしている。ただ、どうにも腑に落ちないところはある。失われた汗は邪魔な水分だったのか―。塩分にしてもそうだ。もし必要なものが減ったのであれば、補う必要があるはずだ。実際、水分を取ったあとのほうが明らかに楽になる。話してもめると面倒なので黙っているが、たぶん大丈夫だ。
ハンデの付け方は井上に任された。井上はしばらく考えていたが、結局自分が一周先行する方式を選んだ。プライドか実利か。負けたら元も子もない。井上は本気で勝つつもりらしい。
まず、スタートラインに井上一人が立った。
スタートラインの脇にストップウォッチを手にしたマネージャーの野口先輩と坂本ちゃんが立っている。
「よーし、位置について」と先生自らが声を張る。残りのメンバーはトラックの内側にいた。そわそわと身体を動かしながらその時を待つ。
「スタート!」と先生が手を叩くと、井上はそろりとスタートラインを跨いで走り出した。
当然、そういう走りだ。露骨に歩いたりはしないが、かなり遅い。アドバンテージを最大限に生かそうという腹がみえる。これに中垣はイラッとしたようだ。
「おいこら! てめぇナメてんのか!! 全力で走れ!!」
走るわけがない。
「てめぇには武士道精神ってものがねぇのかよ」
「おい、なんだか訳わかんねぇこと言いだしたぞ」
隣で藤井がぼそっと呟く。
スタートラインに残りのメンバーが二列に並んだ。井上の走路になるコース最内を空けて、前列に中垣。そこから外に向かって三年生二人と和泉、鹿沼の二年生、そして北澤が立った。おれを含めた残り五人は二列目。そういえば、今日も花岡先輩の姿がない。もはやいないのが普通になってきた。
全員が片足に体重を預けて井上を待つ。六十秒を超えるだらっとしたペースで回ってくる。二十分を超えるペース。ダメージゼロ。
蝉の声だけがグラウンドに満ち、静かな緊張がみなぎる。
井上が四コーナーを回り込んできた。土を踏むサクッサクッという小気味いい音が近づいてくる。
直線半ばでペースを上げる。したたかだ。
スピードに乗って一周目のスタートライン。坂本ちゃんがパーンと手を叩いた。
「それ行け!」
張りつめた空気が破れた。
予想通り、中垣はダッシュよく飛び出した。
北澤は「アホ」と呟いただろう。たぶん。
中垣は向こう正面で早々と井上に追いついた。追い抜きにかかる。ここで一気に抜けば、展開は違ったかもしれない。だが、中垣はコーナーで待った。外側を回るロスを嫌った。実際にはそれほど大きな違いはない。ただ、抜くためにはペースを上げる必要がある。精神的な負担が増す。しかも井上はコーナーでペースを上げていた。狡猾な作戦。
中垣はコーナーの出口から再び加速して井上に並びかけてゆく。しかし井上も簡単には引かない。横並びのまま次のコーナーが来て、再び中垣を後ろに追いやる。
今日の井上はひと味違っていた。絶対的スピードで劣る井上が中垣を抑え込んでいる。強い意志の表れか。よほどバクダン頭が大事と見える。普段とは別人の走りだった。
中垣も距離への意識が働くのだろう。いつもほど強引にはいかない。だが、すでにペースは乱されている。柄にもなく弱気に出て、自ら相手の術中にはまっている。
三周目に入る手前の直線で、ようやく中垣が前に出た。この時点で後続との差は十メートル以上に広がっていた。五百メートル一分四十秒は確実に切っている。三十秒に近いペースかも知れない。この暑さを考えればかなり速い。もっとも、ここで井上が諦めれば、まだ修正はできた。ペースを戻して普通に走れば自然と差は広がる。四千メートル先で一周分くらいの差は築けたかもしれない。だが、そうはならなかった。
三周目の向こう正面に入ったところで、今度は井上が中垣を抜きにかかった。もちろん中垣は抜かせない。井上に合わせてペースを上げる。前後を入れ替えて同じ展開になった。
井上の目的は中垣のペースを乱すことだ。目的は共倒れだろう。うまくいけば、井上にも可能性が出てくる。自爆と紙一重。それでも無策で戦うよりはずっといい。
後続は沖先輩が引っ張っていた。前との差はじわじわ広がっているが、焦る様子はない。ペースは保たれている。おれにはややきついペース。
隊列は徐々に縦長。沖先輩のあとに鬼山先輩と和泉先輩が並んで続く。差がなく鹿沼先輩、北澤、藤井が追走。おれはその後ろだった。どうにか藤井の背中について行く。少しでも離されたら気持ちが萎える。敵は暑さだ。それがパフォーマンスを一段階も二段階も押し下げる。
先頭の競り合いは千五百の手前まで続いた。そこまでいって、ようやく井上の走りに疲れが見え始めた。直線の加速が鈍り、中垣との差が少しずつ広がり始めた。ここからが本番。坊主を賭けた戦いだ。
後続はまだ動かない。沖先輩は着実なペースを刻んでいた。タイムは気にしてないだろう。炎天下のトライアルに時計の意味はない。それでも前の動きが鈍った分だけ差は詰まり始めている。一方で、おれと藤井は徐々に置かれ始めた。オーバーペース。先輩たちと張り合う力はない。一年のなかで対応できているのは北澤だけだ。先行する中垣と井上にいたっては無謀のレベルだ。すでにおれたちとの差さえ縮まってきている。
十周目で井上が集団に飲み込まれた。ガタッとペースが落ちた感じはないが、序盤でみせたストライドは見る影もない。
それからさらに一周。おれと藤井も井上を抜いた。すでに先輩たちは中垣をも抜き去っている。終盤に向けて着実にピッチは上がってゆく。
そこから二周を費やして、おれと藤井は中垣に追いついた。先輩たちに抜かれた中垣が、それを追いかけた分だけ手間取った。行為自体は自ら首を絞めたに等しい。焦りも感じ始めているはずだ。先輩たちはすでに三十メートル以上も先に遠ざかっている。そこに北澤だけがまだへばりついていた。
中垣はおれと藤井をあっさり前へやった。そこからケツにつけて、ピタリとペースを合わせてくる。今度はおれたちをペースメーカーにする腹だ。息は上がっている。ストライドにも伸びがない。どうにか離れずにいるのは意地だけだろう。自分で蒔いた種。性格的にもあとには引けない。おれたちに離されたら、その後ろには井上がいる。一周差を克服するどころか、目の前でゴールを見守ることにもなりかねない。
四千メートルを前にして、井上は約半周後ろにいた。序盤の競り合いが効いている。伴走なしの単走。ペースをつかみあぐねているようだ。
「よーし、いいぞー。いいペースだ。そのまま三人で行け」
一周ごとに坂本ちゃんの声が飛んでくる。
おれや藤井にしてみればジレンマだ。結果として中垣を引っ張る形になっている。これで万が一にも井上を周回遅れにしたら、おれたち自身がボウズの片棒を担いだことになる。さりとてペースを落とすわけにもいかない。ボウズがイヤで手を抜いたとあっては沽券に関わる。そこは藤井も同じだろう。ペースが崩れそうになると、すかさず藤井が出る。中垣も息が上がっているわりにはしぶとい。ここでスパートをかければ嫌が応にも流れは乱れる。おそらく真っ先に崩れるのは中垣だ。それはわかっていた。しかし坂本ちゃんがそれをさせない。一周ごとに檄を飛ばすのもそのせいに違いなかった。
四千を過ぎたところで、三年二人と和泉先輩が井上を周回遅れにした。力差を考えればかなり粘った印象だ。じきに北澤と鹿沼先輩にも抜かれる。ただ、まだ諦めた走りには見えない。おそらく中垣との位置関係は見ている。その差は半周弱。残り千メートルを切ってこの差を埋めるのはかなり難しい。井上はセーフティリードと考えているかもしれない。時計勝負でないことが井上のアドバンテージになってくる。
あとはラストスパート次第。双方の余力は計れない。中垣には図抜けた瞬発力がある。いまの井上のペースなら半周差でも捉えるかもしれない。しかし疲れているのは中垣も同じ。むしろ中垣のほうが顕著かもしれない。おそらく井上の逃げ切りだろう。そう踏んだ。
とはいえ、それはそれ。中垣と井上の争いにクビを突っ込むつもりはない。おれの対象は藤井と中垣。井上は対象外だ。四千を過ぎて先生の声はしなくなった。すでに駆け引きは始まっている。
最初に仕掛けたのは藤井だった。残り三周を過ぎたバックストレッチ入口。藤井がロングスパートで一瞬にしておれと中垣を置き去りにした。
予想外だったが、追わなかった。ここで中垣を振り切る自信がなかった。中垣はまだ諦めてない。そう簡単に離れるとは思えなかった。そして、ここでは中垣の動きがおれに味方した。
中垣も藤井を追わなかった。もし、中垣が藤井を追えば、おれ一人が流れを外れて脱落したかもしれない。
中垣にしては意外だった。残り三周を切って、井上との差はまだ百メートル近くある。普通は届かない。ここで動いても早すぎることはない。あるいはガス欠で行きたくても行けないか―。
ともかく、藤井一人が飛ばす形になった。ここで完全に振り切られてしまえば、負けを覚悟するしかない。しかしここまで来たらこっちにも意地がある。欲も出る。おれはほんの少しピッチを上げた。安全圏までは逃がさない。同時にスパートのタイミングを計る。最後はおつりなしで逆転を狙う。そのタイミングは最終周より前。最終周までもつれたら中垣に負ける。それはわかっていた。先手を打つ。それは絶対条件だった。瞬発力だけでは乗り切れない距離が必要になる。おそらく藤井にもその計算があった。おれはその距離を残り二周に決めた。残り二周のゴールライン手前。五百メートルは長いが、待ちすぎると後手に回る危険が増す。
前では藤井のスピードが鈍っていた。その差は十メートル。これなら一気に抜ける。
四コーナーを回って直線に入った。
ピッチを切り替えようとしたその瞬間、おれの脇を風のように追い抜いてゆく陰があった。一瞬早くスパートしたのは中垣のほうだった。
しまった―、と思った。
おれとの争いなら、最終周までついていくだけでいい。その時点で勝負は決まる。だが、やはり中垣は諦めていなかった。ガス欠の嫌疑をいつの間にか確信に書き換えていた。完全なミス。
遅れておれもスパートをかけたが、その差はじりじりと広がる。いったん前に出た中垣はテコでも抜かせない。その勝負強さは認めざるを得ない。
中垣は前をゆく藤井も一気に抜き去った。井上との差がぐんぐん詰まってゆく。その様はまるでマラソンレースのなかに短距離走者が混じっているかのようだった。
「井上ー、中垣が来てるぞー!」
坂本ちゃんの声に井上が後ろを振り返った。その差は最後の一周を前にして、五十メートルを切った。
にわかに井上はペースを上げた。腕の振りが大きくなり、遠目にも脚の回転がシフトアップしているのがわかる。中垣とてもうそれほど切れる脚は残ってない。おかげでおれも藤井もちぎられずに食い下がっている。
すぐ背中でぞくぞくと先輩たちがゴールした。危うくおれまで周回遅れにされるところだった。
井上は必至に逃げている。そのせいで急激な追い上げは鈍った。中垣が三コーナーに入ったとき、すでに井上は四コーナーの出口。もうすっ転びでもしない限り追いつけない。それでも中垣は諦めなかった。いったん鈍ったエンジンをもう一度吹かすかのようだった。今度は百メートル走に近い爆発的な瞬発力を繰り出す。ゴールに向かって井上と中垣の差が再びぐんと縮まってゆく。おれと藤井は一気に突き放された。追いかけようにも脚の回転が上がらない。
自分とは違う舞台で、二人がゴールラインを走り抜けていった。
おれはそこから五秒あと。藤井を外側から交わそうとして、並びかけたところがゴールだった。
十七分四十二秒。
おれにとって、それが五千メートル最初の記録になった。
3
事件が起きたのは週明けだった。月曜日の放課後。
学校は午前授業に入り、おれと斉藤はがらんとした放課後の教室で弁当を食っていた。
開け放った窓からはぴくりとも風が入ってこない。入ってくるのは蝉の鳴き声だけだ。
「しっかしよかったよなー。ハゲにされたらどうしようかとおもったぜ」
アルマイトの弁当箱には白飯がぎっしり詰まっていた。おそらく自家製の米だ。
「よく言うぜ……」
あきれ返る。
「それにしてもよく食うな。お前、最近ちょっと太ってきてねぇか?」
弁当箱はふたつ。白飯とおかずが別々になっていた。
「おうよ。最近、運動量が増えてっからよー。やたら腹が減んだよな」
そんなくだらないことを話していたら、ふいに廊下からけたたましい上履きの音が聞こえてきた。ばたばたと走ってきた音が教室の前で止まった。
おれと斉藤は箸を止めた。藤井が血相を変えて飛び込んできた。
「大変だ! 井上が頭丸めてるぞ!」
「なに!」
「どこで?!」
「部室の前だ!」
おれたちは弁当を放り出して教室を飛び出した。
各部の部室が並ぶ体育館の裏手。陸上部は一番端にある。そのドアの前で上半身裸の井上がパイプイスに座っていた。その脇で鬼山先輩がバリカンを握っている。すでに井上の爆弾頭は半分が撤去済みの状態だった。その周りを囲むように中垣、北澤、荻野。他の先輩たちもみんな集まっている。井上の頭が青々とした坊主頭に変わってゆく。その姿を無言のまま眺めている。
「どうなってんだ?」とおれは北澤に訊いた。
「自分で志願したらしい」
「先週の結果がよほどショックだったんだろ」と藤井が耳打ちするように付け加えた。
「まぁ、当然だな!」と井上の前で中垣が太々しい面持ちで腕組みをしている。
負けただろうが―。
実際のところ、勝負は井上の逃げ切りだった。ほんのわずか。コンマ数秒のレベル。それでも負けは負けだ。勝ちは勝ち。井上が丸坊主になる話はお流れになった。
「あのバリカンは誰のだ?」
中垣を無視して、おれは藤井に訊いた。
「坂本ちゃんだ。常に体育教官室に置いてあるらしいぜ」
「ぞっとしない話だな……」
きっとこれまで何人ものけしからん生徒の頭を丸めてきたのだ。おれはため息をついた。
おれたちが見守るなかで、井上の頭は刻々とジャングルから砂漠へと変貌していった。
儀式が終わると、やれやれといった感じで微妙な空気が流れた。
「じゃ、次はおれだな」とばかりに、おもむろに沖先輩がTシャツを脱いだ。
「えー!」と誰からともなく声が上がった。
「先輩やるんですか?」と藤井が訊いた。
「やるしかあるまいよ」とパイプイスに座る。
なるほど。さすが部長。おれは妙に納得した。
もともと沖先輩の髪は短めだ。それでも頭の真ん中にバリカンの刃が食い込むと、周りから声があがった。頭に残った髪の長さは五分を通り越して五厘見当だ。
「五厘かよ……」
「野球部でももうちょっと長いぜ」
井上が頭を刈るのとは意味が違う。まったく違う。井上だけなら個人の問題で片付く。おれたちが続く義理はない。
しかしこれは―。
中垣が負けた時点で一年全員の条件は失効している。だが、部長が丸めた。こうなると、もはや議論の余地はない。
「別にお前らもやれとは言わん」
鬼山先輩に刈られながら先輩は言う。
「なに言ってんすか。おれたちだって続きますよ」
中垣が調子づく。
「まさか、ここまで短くなるのか……」と藤井はもう諦めている。
「どうすんだよ。もう坊さん寸前だぜ」と斉藤が調子に乗る。
「斉藤。坊さんとは誰のことだ?」
「え……。あ……。いや、お似合いです。すぐ出家できそうなくらい……」
「お前はあとでおれが出家させてやる」
「う……」と斉藤は絶句した。
アホだ。
「よし! 次はおれが行きます!!」ともうひとりの中垣が早々と上半身裸になった。
おれはため息をついた。腹をくくるしかない。順番にはまだ間があるだろう。昼飯の残りを片付けることにした。
「弁当の残り食ってきます」といっておれは踵を返した。
「おい、逃げんなよ」と背中から中垣の声がした。
「死ね」とおれは返した。
おれと斉藤が離れていたのは三十分ほどだった。その間にも先輩たちの断髪式は粛々と進行していた。一年ではすでに井上と中垣が丸坊主だった。
先輩たちの断髪が概ね終わり、あとは五人の一年と花岡先輩を残すのみになった。今日も花岡先輩の姿はない。
「花岡先輩はどうしたんです?」と藤井が鹿沼先輩に訊いた。
「さぁ。見ねぇな」
鹿沼先輩は丸坊主になった頭を手のひらでぐるぐる撫で回しながら答えた。元がスポーツ刈り。床屋代が浮いたくらいにしか考えていなさそうだ。
北澤が切り、荻野が切り、藤井が渋々と刈り込まれた。そしておれの順番が回ってきた。
「おい、いやならやめてもいいんだぜ。強制ってわけじゃねぇんだからよ」とイスの前で中垣が太々しく見下す。
「引っ込んでろ、ハゲ!」
「うひゃひゃひゃひゃ」とアホ面が笑い転げる。
水道で濡らしてきた髪にバリカンの刃が食い込んだ。ジャキジャキと刃が上に向かって動くにつれて、背中にぱらぱらとチクチクしたものがこぼれてゆく。
ボウズにするのは三年ぶりだ。
小学校時代には周りの友だち同様、将来はプロ野球選手になるつもりだった。疑いもなくそう思っていた。だから中学でも野球部以外の部活は頭になかった。ただ、野球部に入る条件が坊主頭と知って疑問がわいた。規則と伝統という説明に納得しがたい理不尽を感じた。結局、おれはその一点だけで野球部を諦めた。そして自分の将来がそんな些末な理由で覆ったことに愕然とした。
代わりに選んだのはバスケットだった。単に顧問をしている担任に誘われただけで選んだ。ルールどころか、何人でやるスポーツかも知らなかった。
案の定、まったくおもしろくない。おもしろくないところへ持ってきて、この顧問が夏休みを前にして「明日から全員坊主」という命令を出した。さすがに伝統とは言わなかった。代わりに持ち出してきたのが精神論だ。おれは即刻やめる決意をした。ただ、坊主がいやでやめたと思われるのは癪だった。丸めた頭で退部届けを出した。バリカンで頭を丸刈りにするのはその時以来だ。思えば、陸上競技を始めたのもその一件がきっかけだ。チームでやるスポーツはうんざりだと思っていた。
ものの数分で頭はすっきりした。
「よぉ、ハゲ」
パイプイスから立ち上がるなり、中垣が挑発してくる。アホくさくて相手をする気にもならない。
そして最後が斉藤だった。
鬼山先輩がバリカンを沖先輩に手渡した。
「え? だ……大丈夫ですか? 先輩、バリカン使ったことありますか?」
「心配するな。さっき、鬼山の頭を刈った」
斉藤はさっと鬼山先輩の頭に目をやった。どことなく刈り具合がまだらに見える。斉藤が不安げな表情をみせる。
斉藤は水の滴る髪でパイプイスに座った。覚悟は決まったようだ。昼寝でも始めそうな表情で目を閉じた。だが、事はそう易々とは進まない。ここまで十一人の髪を裁いてきたバリカンの切れ味はかなり鈍っていた。髪質もあるだろう。柔らかめの髪がたびたび刃の進行を妨げる。
「痛てててて」と刃が引っかかるたびに斉藤は悲鳴をあげた。
「お前ら、職員室でハサミ借りてこい」
鬼山先輩の指示で借りてきた数本のはさみを使って、まずおれたちがよってたかって斉藤の頭にハサミを入れた。数分で虎刈りのような頭が出来上がった。
「お。もう、これでいっか」と沖先輩が満足しきった顔で言う。
「勘弁してくださいよ。やるならちゃんとやってくださいよー」
斉藤は月の表面みたいなデコボコの頭を手のひらで確かめる。これにはさすがに泣きが入る。
「面倒くせぇな」
沖先輩はいかにもそんな感じで、いびつに残った髪にバリカンを入れた。
「ハゲだー! こいつハゲがあるぜ!」
突然、その部分を指さして、中垣が叫んだ。
のぞき込んでみると、なるほどその部分に長さ十センチほどの細長い線のようなハゲがある。
「まるで弾丸がかすったみたいだな」
「伊勢原で銃撃戦でもあったか?」
「ありませんよ!!」
斉藤はきっぱり言った。
「刀で斬られた痕じゃないのか?」
「違いますから」
「直パゲだ、チョッパゲ」
中垣が頓狂な声で叫んだ。
おれたちは口々にそのハゲについて議論し合った。
「この角度だと、前屈みになったところを後ろから撃たれた感じかな?」
「いや、前っ側のほうがかすかに太い。前からだろ」
「でも正面から鉄砲向けられて、前屈みにはならねぇだろ」
「そうか……」
「暗くて見えなかったとか」
「そういう考え方もあるな……」
「お前ら、いつか殺す……」
斉藤は呪うように呟いた。その日から斉藤はたびたびチョッパゲと呼ばれるようになった。
4
夏は連日惜しみなく大地を焼き続けていた。今年はひときわ暑い。刈った頭も焼き続ける。当初は地肌が青々とむき出しだった。その頭皮はみるみる真っ黒く焼けて金時豆のようになった。そして痒みとともに皮が剥けた。
陸上部は終了式の翌日から一週間の休みに入った。まとまった休みはほぼここだけ。その後は概ね三日練習して一日休みのローテーション。お盆明けには山梨での合宿も決まっていた。長い夏休みは楽よりも苦が勝る無法地帯だった。
斉藤から貧乏旅行に誘われたのは、夏休みが始まる数日前だった。行く先は新潟。国鉄の周遊券を使って、宿も取らずに行き当たりばったりの旅だ。
「日本海側なら少しは涼しいだろ」と、斉藤はその理由を語った。最終目的地は新潟競馬場。そこで今回の旅費をまかなうつもりのようだ。
馬がどこで走ろうと大差ない、とおれは思う。馬券なら東京でも買える。そう言うと、「まだまだだな」とチョッパゲのくせに生意気を言う。
まぁ、どのみち暇だった。うちにはエアコンがない。扇風機もリビングに置いた一台だけ。一日自分の部屋にいたら汗の水たまりができる。
少しはマシか―。
そんな気分でつきあうことにした。終了式の翌日から普通電車を乗り継いでゆく呑気な旅だ。
道すがら斉藤は競馬について熱く語った。これまでにもさんざん聞かされている。大概わかったつもりでいたが、斉藤自身はさらに深みにはまっている。馬の固有名詞なんて出されても知ったこっちゃない。ほとんど聞き流しいていた。
ただ、初めて見るローカルの競馬場は悪くなかった。旅というシチュエーションがそう思わせるのかもしれない。広々とした周辺に視界を遮るものはなにもない。空は広く、塗りつぶされた青。そのなかをぽつりぽつりと浮かんだ雲がのんびり流れてゆく。老朽化の進んだスタンド。小さなパドック。それらは前時代的な古めかしさを感じさせる。それでいてそれ自体が趣のようでもある。そこは真夏の牧歌的な雰囲気が拡がる大空間だった。
一方で、涼を期待した当初の目的は完全に裏切られた。
「誰だよ、涼しいなんて言ったのは!」と斉藤。
「てめぇだよ」と返事をするのも忌々しい。日中はむしろ神奈川より暑いくらいだ。
夜はローカル駅の駅舎や、競馬場の駐車場、海岸の砂浜などにテントを張って過ごした。もとより交通費の工面でいっぱいいっぱい。食事の半分はコンビニのカップラーメン。風呂は一日おきに銭湯。ホテルに泊まる予算など捻出できるはずがない。あわよくば馬券で調達―、も夢想に終わった。
それでも斉藤が日曜の最終レースでささやかな軍資金を得た。夜はへぎそば、のっぺ、茶豆で新潟らしい食事にありつけた。日本酒も少しなめてみた。悪くない。
休み中は完全休養。ノルマなし。ただ、斉藤が一緒で妙な義務感に煽られた。毎日、朝か夜の一時間は自主練に充てた。一人なら一分たりとも走らなかっただろう。
「お前、卒業したらどうすんだ?」
明日は帰るという最後の夜。テントのなかで斉藤がらしくないことを訊く。
最後の夜は日本海の砂浜だった。静かな波の音がかすかに聞こえてくる。日中の暑さは和らぎ、ここが旅先であることを意識させた。テントの入口に置いた蚊取り線香の香りが潮風と一緒にテントの中へ流れてくる。いくぶん煙たさはあるが、蚊に刺されるよりはマシだ。
「まったく考えてねぇ」
「呑気だなぁ。もう二年後だぜ」
まさか、斉藤に言われるとは思いもしなかった。おれにしたら、もうというよりまだの感覚だ。
「お前は決まってんのか?」
「まぁ、漠然と」
「漠然とってなんだよ」
「とりあえず大学かな」
「とりあえず行ってどうすんだよ」
なんだ、その程度か―、と内心おれはほっとしていた。そもそも大学に行ける頭なのか、という疑問もある。
「そこなんだよな」と斉藤はおれを見た。
「一応方向は決まってんだ。競馬か音楽の仕事がしたい」
「競馬? 騎手にでもなんのか?」
「バカ。この体重で騎手になれるか」
「ふうん」
説明なんて聞きたくない。どうやらそういうものらしいと納得した。
「競馬に関わる仕事はたくさんある」
「ふうん」
「競馬会の職員、競馬新聞の記者、トラックマン、テレビ局、ラジオ局、出版社、スポーツ新聞、牧場で働くって道もある」
「ふうん」
「他にもまだまだたくさんある」
「ふうん」
「お前、適当にあしらってるだろ?」
「あら」
斉藤にしては勘がいい。
「もう、いい。話さん!」
「悪ぃ悪ぃ。イメージとのギャップが……な。で、音楽は?」
「同じだよ! 音楽の世界だってミュージシャンがすべてじゃない。作詞家、作曲家、ミキサー、ディレクター、レコード会社や音楽関係の雑誌を出版してる会社だってある。はっきり方向が決まれば、無理に大学行く必要もないんだけどなぁ」
「意外と真面目に考えてるか……」とおれは少し感心した。
「お前がトロいんだよ。あと二年しかないんだぜ」
その二年がおれには遠く感じられる。
「ま、おいおい考えるさ」と答えるしかない。
「お前は呑気でいいなぁ」とまた同じことを言う。なんだかバカにされている気分だ。
あるいはその通りなのかもしれない。いまは毎日を前に進めるだけで手一杯だった。当面は中垣や藤井より速くなる―と。その程度の先しか見えない。
気がつくと、斉藤はもう小さな寝息を立てて眠っていた。背中は砂地とはいえ、寝るにはカタすぎる。よくもこうやすやすと眠れるものだ。感心する。
開け放ったテントの丸い出入口からは星がよく見えた。神奈川ではちょっと目にできない景色だった。満天の星くずが漆黒の空一面にちりばっていた。
宇宙飛行士もいいよな―。
「バーカ言ってんじゃねぇ」
ふと思った心の声に斉藤が寝言で反応した。
そんなふうにしておれたちの短い旅は終わった。




