9杯目¦それぞれの味
ドアベルが鳴る。
カウンターは五席。
俺はいつもの端に腰を下ろす。
マスターは温かいおしぼりと、この店オリジナルのクリームソーダを無言で差し出した。
このBARカウンターには、とある噂がある。
嬉しかった話をマスターに聞いてもらい、ドリンクを作ってもらうと、その幸せは長く続くのだという。
「ご注文は?」
「……ただのぼやきだ」
俺は四十を過ぎた独身だ。
夕飯はだいたい駅前の弁当屋。
店内調理が売りらしいが俺がいつも手に取るのは棚に並んだ作り置きだ。
値引きシールの貼られた、いつもののり弁。
どうせ一人だ。
温めれば同じ。
安いに越したことはない。
それがいつの間にか基準になっていた。
その日、いつものように棚を覗いたが半額弁当がなかった。
少し視線を横にずらすと、奥の厨房で油が弾けている音がした。
「ご注文を受けてからお作りします」と書かれた札。
いつも食べているものと同じ、のり弁だ。
違うのは値段と、出来上がるまでの数分。
なんとなく、注文した。
受け取った容器は、底からじんわりと温かい。
家に持ち帰り蓋を開けると、海苔の香りがふわりと立った。
白身フライに箸を入れると、衣がサクサクと音を出す。
タルタルの酸味は、まだ輪郭を失っていない。
ご飯は湯気をまとい、粒が自然とほぐれる。
唐揚げを噛むと、肉汁がじゅわりと溢れ出た。
いつもの、のり弁のはずなのに。
半額のそれは、海苔がご飯に溶け込み。
衣はふわふわとした食感になり、
タルタルは時間が経ち酸味がやわらかになる。
唐揚げは味が染みてご飯によく合う味になっていた。
それを悪いと思ったことはない。
ただ――
出来立ての弁当はそれぞれが〝自分が主役だと〟名乗り出ているようだった。
温かいものを食べただけなのに、少しだけ満たされた。
「その温もりに」
短い祝辞。
グラスが、静かに置かれた。
マスターが差し出したのは、十八年物のウイスキーだった。ロックグラスの中で琥珀色の酒が静かに輝いていた。
一口。
派手ではない。
だが、急いで飲む気にならない味だ。
すぐに広がらず、少し遅れて、奥から立ち上がってくる。
手をかけて作られたものの、静かな深さがある。
半額ののり弁が悪いわけじゃない。
十八年物が偉いわけでもない。
ただ、手の込んだものは、きちんと心に応える。
大事なのはきちんと味わえているかどうかだけだ。
グラスを置く。
店内は静かだ。
余計な言葉がない。
「また来るよ、ごちそうさま」
ドアベルが鳴る。
きっと明日も半額ののり弁を買うだろう。
それでも。
腹を満たすだけじゃない夜が、たまにあればそれでいい。
この店に足が向く理由も、たぶんそれと同じだ。




