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8杯目¦指先

 ドアノブに手をかけたとき、ふと自分の指先が視界に入った。

 ほんのわずかに、口元がゆるむ。

 ドアベルが鳴る。


 カウンターは五席。

 私は少しだけ姿勢を正して、中央の席に腰を下ろした。


 マスターは温かいおしぼりと、この店オリジナルのクリームソーダを無言で差し出す。


 このBARカウンターには、とある噂がある。

 嬉しかった話をマスターに聞いてもらい、ドリンクを作ってもらうと、その幸せは長く続くのだという。


「ご注文は?」


 私はわずかに首を振った。


「……大した話じゃないんですが」


 


 私は五十を過ぎた会社員だ。

 会社では業務連絡しかしない。昼は一人で弁当を食べ、定時になれば帰る。


 爪は伸びたら切るだけ。

 鏡を見るのは髭を剃るときくらい。


 自分を飾る、という発想はこれまでなかった。


 

 ある晩、何気なく見ていたテレビで、同年代の男性がネイルをしている特集が流れていた。


「清潔感のひとつですから」


 自分と同じくらいの年齢だった。


 それだけのことなのに、少しだけ気になった。


 

 数日後、散歩の途中で小さな看板を見つけた。


 “メンズネイル”。


 一度は通り過ぎたが、また戻って足を止めた。


 気分転換だ、と自分に言い訳をして店内に入る。


 施術中、店員は多くを語らなかった。


 爪を整えられ、透明に近い艶をのせられる。

 甘いオイルの匂いが、指先から漂う。


 今までこんなにじっと自分の手を見たことがあっただろうか。


 


数日後、職場で女性社員が言った。


「爪、綺麗ですね」


 それだけ。


 私は「そうですか」と答えただけだった。


 だが、その日、キーボードを打つ指先がわずかに軽かった。


 


 帰りの電車で、吊り革を握る。


 派手な色はない。

 けれど、整っている。


 気づけば、爪をぶつけないようにしていた。

 洗面台で手を拭くときも、少しだけ丁寧だった。


 自分の手を、少しだけ雑に扱わなくなっていた。


 


「その小さな慈しみに」

 短い祝辞。

 グラスが、静かに置かれる。


 自分には縁遠い色のカクテルだった。

 ピンクの液体の上に、白い生クリームフォームがふわりと乗っている。


 一口。


 ヨーグルトのような甘酸っぱさに、生クリームのコクが重なる。

 

閉じたままだと思っていた引き出しが、また一つ、静かに開いた気がした。

 

「……悪くないですね」

 

 

 グラスを空にして立ち上がる。


 ドアベルが鳴った。


 夜はいつもと変わらない。


 特別なことは起きないだろう。


 それでも。


 ドアノブに触れる指先を、私はもう一度見る。


 自分を雑に扱わない日が、少しずつ増えていく気がした。


 それで十分だと思えた。

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