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5杯目¦ずるい人¦1話完結作品


 ドアベルが鳴る。


 湿った空気と一緒に、やわらかな香りが流れ込んだ。


 カウンターは五席。


 髪の毛が丁寧に整えられた二十代の女性。

 店内の備え付けの傘立てに、透明なビニール傘をそっと立てかける。


 マスターは温かいおしぼりと、この店オリジナルのクリームソーダを無言で差し出す。

 

 このBARカウンターには、とある噂がある。

 嬉しかった話をマスターに聞いてもらい、ドリンクを作ってもらうと、その幸せは長く続くのだという。

 

「ご注文は?」

 

「……今日は、誰かに見せたくて来ちゃいました」

 

 指先で自分の毛先をそっと持ち上げると、いい匂いがふわりと広がった。サラサラと美容室で整えられたままの艶が残っている。

 

「初めて行く美容室だったんです。予約の電話をかけるだけでドキドキして、店に入る直前は心臓の音が耳に響くくらい緊張して……」

 

 鏡の前に座った瞬間、美容師さんが笑顔で「今日はどうされますか?」と聞いてくれた。 言葉が詰まりそうになりながらも、希望を全部伝えると彼はうんうんと頷いてくれた。


「緊張しました。変なオーダーしてないかなとか、似合わなかったらどうしようとか」


 カット中も、トリートメント中も、些細な「ここをもう少しこうしたい」という希望を、決して流さずに聞いてくれた。シャンプーの指先が優しくて、まるで大切なものを扱うような手つきだった。


「担当してくれた美容師さんが、すごく親身で。髪質とか普段のセットとか細かく話を聞いてくれて。仕上がりも本当に綺麗で」


 ふっと笑う。


「でも帰り際、急に雨が降り出して。私、傘、持ってなかったんです」


「その美容師さんも気づいてくれて。“余ってる傘あるから”って」


 視線が、傘立てのビニール傘に向く。


「でも、初めて行くお店だし。また来る保証もないのに、借りるのは悪い気がして。一度、断ったんです。“返せるかわからないので”って」


 そのときの言葉を、ゆっくりなぞる。


「そしたら」


 彼女の声が、少しだけ柔らかくなる。


「“僕が綺麗に整えた髪を、雨に台無しにされたくないんだ”って」


 押しつけがましくなく、冗談みたいでもなく。

 ただ、当然のように。


「……ずるいですよね」


 小さく笑う。


「そんな言い方されたら、受け取るしかないじゃないですか」


 結果。


「ここまで、ちゃんと守られてきました」


 今日の髪は、まだ崩れていない。


「まっすぐ家に帰るの、もったいなくて」


 少し照れくさそうに続ける。


「誰かに見てほしくなっちゃって」


 結果、今もこの髪は完璧に守られている。

 触れるたびに、美容師さんの指の温度を思い出す。


 私は照れくさそうに笑いながら髪を耳にかけた。

 

「その守られた輝きに」

 短い祝辞。

 グラスが、静かに置かれる。

 

 透明で中にラメが入っているカクテルだった。

 細かい泡とラメがキラキラと光っていて、まるで髪の毛の艶そのもののように。

 

 一口飲む。

 

 美容師さんの言葉のように優しいのに、しっかり残る味がした。

 

「……守ってもらえるって、こんなに嬉しいんですね」

 

 グラスをそっと置いて私は微笑んだ。

 

 立ち上がると髪の毛がさらりと肩に落ちた。


 ドアベルが鳴る。


 外はまだ雨。


 今夜は、きちんと整えられた自分のまま帰れる。


 ――また、あの美容室に行こう。


 そう思えたことが、いちばんの収穫だった。

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