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九十六階。
九十五階から続いていた登り階段は、不思議なことに途中から緩やかな下りへ変わった。
その折り返し、一番高い場所まで来たところで、僕らは揃って足を止める。
「……なんだ、これ」
眼下に、次のフロアが広がっていた。
最初に浮かんだ言葉は、地平線だった。
灰色の石壁が、視界の右端から左端まで途切れることなく続いている。高さだけでも二十メートル近い。その壁が幾重にも重なり、遠くへ行くほど細い線になって、最後には空との境目へ溶けていた。
何本あるのか。
何百本。
いや、何千本なのかも分からない。
迷路、と呼ぶには大きすぎる。
「……これ、フロアだよな?」
「フロアです」
シエナが即答した。
疑問の余地はない、と言わんばかりの表情だったが、その長い耳は眼下の景色を探るように小さく動いている。
「広すぎない?」
「広いですね」
「どれくらいあるんだろう」
トウヤが目を細めながら呟く。
「攻略前に確認した八月時点の最新情報では、およそ群馬県ほどの広さだそうです。というより、ミーティングでこの話をしたはずですが」
「群馬県!?」
トウヤの声が広い空間へ響いた。
「フロア一つが県一つ分って、どういうことだよ!」
「知りません。ダンジョンですから」
シエナは平然と答えた。
慣れているのか。それとも、慣れたふりをしているだけなのか。
僕自身、群馬県ほどだと事前に聞いてはいた。
でも、数字として知っていることと、実際に目の前へ広がっているものを見ることは、まるで違った。
このどこかに出口がある。
そう考えただけで、急に足元が頼りなく感じる。
「地図を買っておいてよかったね」
ユイが背負ったバッグから、羊皮紙のような地図を取り出した。
攻略前に、赤レンガ倉庫にある探索者向けショップで最新版を確認して購入したものだ。
高かった。かなり高かった。じいちゃん、ありがとう。
けれど、この景色を見てしまうと値段にも納得できる。
「これがあれば安心だな」
「ええ」
シエナが地図を広げ、眼下の迷路と何度か見比べた。
その眉が、ほんの少しだけ寄る。
「……大丈夫、よね」
「どうした?」
「いえ。行きましょう」
彼女は地図を畳んだ。
その時は、まだ。
僕もそれほど気にしていなかった。
◇
一時間後。
「これは、絶対におかしい」
トウヤが地図と目の前の壁を交互に見比べていた。
僕も横から覗き込む。
地図には、ここに十字路が描かれている。
確かに僕らも通った。
左側には、少し欠けた石があった。シエナが目印になると言っていたのを覚えている。
けれど顔を上げれば、そこにあるのは切れ目のない灰色の壁だけだった。
目印にした石もない。
道そのものが、消えている。
「さっき通ったはずの分かれ道が、地図にない」
「……変化しています」
シエナが石壁に手を当てる。
ざらついた灰色の壁は、最初からそこにあったように微動だにしない。
「多分、ではありません。先ほどまで、ここには道がありました」
「道が消えたってこと?」
「はい」
シエナは目を閉じた。
長い耳がわずかに揺れる。僕には見えない精霊たちへ確認しているのだろう。
しばらくして目を開いた時、彼女の顔からいつもの余裕が消えていた。
「不規則にフロアの構造が変化する、という報告はありました。しかし……ここまで頻繁だとは想定していませんでした」
つまり、高い金を払って買った最新版の地図が、もう役に立たない。それ以上に嫌だったのは、帰り道まで信用できなくなったことだった。
振り返る。右を見ても、左を見ても、同じ高さの灰色の石壁。
さっきまで歩いていた道が消えるなら、「戻る」という言葉にすら意味がなくなる。
「どうする?」
ドランが僕を見る。
全員の視線が集まった。
「まずは退路を確保しよう。……いや、構造が変化しているなら、帰り道そのものがもう分からないか」
誰も答えなかった。
食糧は二週間分用意してある。
水もある。
装備にも余裕はある。
それでも。
この巨大な迷路が、僕らの知らないところで勝手に形を変え続けている。
そう考えるだけで、口の中が少し乾いた。
「シエナ、頼む。また変化するかもしれないが、ルートを探してみてくれ。出口でも、入り口でも構わない」
「やってみます」
長い耳がぴくりと動いた。
シエナが目を閉じ、何かを小さく囁く。
精霊を飛ばしたらしい。
僕には何も見えない。ただ、シエナの視線だけが、僕らの立つ十字路から四方向へ順番に動いていく。
十五分。
思ったより長い。
ユイとトウヤも、声を出さずにシエナを見守っていた。
やがて彼女が目を開く。
「右です。しばらく広い通路が続いています。そこから八百メートルほど道なりに進めば、元来た道に戻れそうです」
全員の肩から、わずかに力が抜けた。
「中央の道は、ゴールに続いている可能性があります。ただ……」
シエナの表情が曇る。
「精霊が消えました」
「消えた?」
「はい。何かに消されたように感じます」
今度は、誰も喜ばなかった。
「中央はやめよう。まず元の道まで戻る」
僕は地図を畳む。
「入口まで戻れたら、そこで一度整理しよう。構造が変わる間隔も分からないまま進むのは危険だ」
「そうだな。一度戻って、変化の周期でも調べた方がいい」
ドランが灰色の壁を見上げ、珍しくため息をついた。
「くそ。黒の連中はどうやって突破したんだよ」
僕も少しだけ思った。
でも、今考えるべきことではない。
僕らは入口へ戻るため、再び迷路の中を歩き始めた。
◇
魔物自体は、それほど強くなかった。
少なくとも、九十五階まで到達した僕たちが対処できない相手ではない。
多いのは狼を模したゴーレムだった。
石とも金属ともつかない鈍い色の身体を四本の脚で走らせ、灰色の通路へ硬い爪音を響かせながら襲ってくる。
何体か倒したところで、二メートル近い人型のゴーレムも現れた。
「硬い!」
トウヤの片手剣が甲高い音を立てて弾かれる。
「下がって!」
横から踏み込み、ラディッシュを振るう。
光をまとった刃がゴーレムの肩口へ食い込み、そのまま硬い身体を斬り裂いた。
「その剣、反則だよな。白、貸してくれよ」
『はっ、お前なんかに俺様を使いこなせるか。へっぴり腰がよー』
「白、お前の相棒、相変わらず口が悪いな」
「集中しろ、トウヤ!」
トウヤが振り向く。
その頭上へ、ゴーレムの拳が振り上げられていた。
ドランが一歩前へ出る。
重い衝撃音。
拳を両腕で受け止めたドランの足が、石床をわずかに滑った。
その隙に、シエナの風がゴーレムの脚を薙ぎ、巨体が傾く。
「今です!」
「うん!」
ラディッシュを振り抜いた。
ゴーレムが大きな音を立てて崩れ落ちる。
「……敵自体は、なんとかなりそうだね」
ユイがドランの腕へ回復魔法をかけながら言った。
「問題は迷路ですね」
「そうだな……」
トウヤが周囲を見回す。
どちらを向いても、同じ灰色の壁、同じ床、同じ高さ。
戦闘中に何度か向きを変えただけなのに、僕ももう、どちらから来たのか一瞬迷った。
その時だった。
「――待って」
シエナが足を止めた。
弓へ手を伸ばす。
「何かいます」
通路の角から、小さな黒い影が半分だけ顔を出していた。
痩せた身体に、長く尖った耳。ぎょろぎょろと忙しく動く目の下には、身体の大きさと釣り合わないほど横へ裂けた口がある。頭には黒い頭巾。額のあたりには、黄色っぽい小さな印。
「ゴブリン……いや、インプか?」
端末を取り出し、魔物図鑑を開く。
外見は確かにインプに似ている。
小型魔物。
単体での危険度はそれほど高くない。
「弱そうだな」
「図鑑どおりなら、ですが」
シエナは弓を下ろさない。
黒い魔物が、こちらを見た。
そして。
にたりと笑った。
「キキキ」
全員の動きが止まった。
笑った。
いや。
今。
声を出したのか?
「キキキ。シネシネ」
トウヤの顔から笑いが消えた。
「……喋った?」
黒いインプは、答える代わりにさらに大きく口を歪めた。
背中へ手を回す。
そこから、ぼろぼろの黒いローブのようなものを取り出した。
ばさり。
布が小さな身体を包む。
次の瞬間。
消えた。
「――え?」
「なんだ、それは!?」
「アイテムを使ったのか?」
「……あれ、欲しいな」
「集中しろ!」
音もしない。
走り去った足音もない。
僕は慌てて周囲を見回したが、灰色の通路には僕らしかいなかった。
「シエナ」
「いません」
返事が早かった。
彼女の目が忙しく動く。
「精霊にも見えていません。気配も……ありません」
「透明化じゃないってこと?」
「分かりません。転移かもしれません」
転移。あのローブ。喋るインプ。どれも、僕が知っている情報と噛み合わない。
「……図鑑に載っているインプではないよね」
「そのようですね」
シエナが弓を握り直した。
「少なくとも、百階以下で通常遭遇する魔物が使うような能力ではありません」
背中に、冷たいものが走った。
◇
それから、何度か黒い影を見た。
遠くの壁の上。
曲がり角の向こう。
僕らが振り向いた瞬間だけ、黒い頭巾が見える。
こちらが立ち止まれば、向こうも止まる。
追おうとすれば、ローブを翻して消える。
最初は偶然だと思った。三度目くらいから、そうは思えなくなった。あいつは、僕らを見ている。
……キキキ。
石壁の向こうから、笑い声だけが聞こえる。
距離も、方向も、よく分からない。
「気味が悪いな、あいつ……」
トウヤが小さく呟いた。
僕も同感だった。
追わない。絶対に追わない。そう決めていた。
人型ゴーレムと交戦していた時だった。
「痛っ!」
左肩に、小さな衝撃を感じた。
何かが刺さった。
最初は、その程度だった。
次の瞬間。
肩から首へ。
腕へ。
焼けた鉄を身体の中へ突っ込まれたような痛みが走る。
「ぐっ……!」
膝が落ちかける。
振り返った。
「さっきの黒インプだ!」
いつの間にか、僕たちの背後にいる。
本当に楽しそうな顔をしながら、左右へ飛び跳ねて笑っていた。
その手には、細い吹き矢。
「アタッタ、キキキ、アタッタ」
「白!」
ユイが駆け寄る。
「大丈夫。浅い」
そう言いながら肩を見る。
五センチほどの細い針が刺さっていた。
傷自体は小さい。
なのに。
痛みだけがおかしい。
「毒は――」
「分からない。ただ、ものすごく痛い。なんだ、これ」
力まかせに針を引き抜いた。
その瞬間、視界が白くなるほどの痛みが肩を走る。
先端から、黒い煙のようなものが細く立ち上っていた。
「闇魔法にある、苦痛魔法に似てる……」
ユイが傷口へ手を当てる。
淡い治癒の光が広がる。
それでも痛みが消えない。
「傷じゃないから、普通の治癒じゃ消せない。上位の浄化が必要になる」
「今は?」
「痛み止めで抑えるくらいしか……」
「痛みだけなら、根性で!」
剣を構える。
言った直後。
肩から背中へ走った痛みに、筋肉が勝手に強張った。
くそ。
身体が思うように動かない。
シエナが即座に黒インプへスナイプショットを放つ。
切り裂く風ではない。
狙いすました空気の塊を死角からぶつけ、相手の体勢を崩す。その瞬間に僕がラディッシュで斬る。
何度も使ってきたコンボだ。
外すはずがない。
なのに。
黒インプは踊るように身体を傾けただけで、風を避けた。
「なっ……」
その間にもゴーレムが来る。
そちらへ対処すれば。
ぷすっ。
「ぐあっ!」
今度はトウヤの脚。
また戦闘へ戻れば。
背中。
軸足。
攻撃を避けられない瞬間だけを狙ってくる。
「キキキ」
痛みに耐えきれなくなったトウヤが《光矢》を連射した。
「この野郎!」
白い光が通路を走る。
一発。
二発。
三発。
黒インプは、それすら楽しむように、ひらひらと身体を左右へ揺らして避けた。
やがて吹き矢を背中へ背負い直す。
そのまま。
僕らへ背中を向けて走り出した。
「キキキ、マヌケ、バカザル、キキキ」
時々振り返る。
こちらが追っているか、確認するように。
「あいつ……!」
「待って、トウヤ!」
駆け出そうとした腕を掴む。
「どこからどう見ても罠でしょ!」
「だからって逃がしたら、また後ろから来るぞ!」
「誘導された方が危険だ!」
僕らが言い合っていると。
黒インプが止まった。
遠くから。
こちらを見ている。
首を傾げる。
そして。
小さな手で、こっちへ来いと招いた。
「コッチ、コッチ」
「……やっぱり、馬鹿にしてるだろ、あいつ」
「キキキ、ハヤク、シネシネ」
「腹が立つな! 行くわけないだろ!」
トウヤの叫びが通路へ響く。
黒インプは笑った。
ローブを翻す。
「キキキ」
消えた。
残ったのは、また灰色の壁だけだった。
◇
改めてルートを探し直し、それから三十分ほど進んだ。
何度か壁の配置は変わった。
それでもシエナの精霊を頼りに、僕らは元来た方向へ近づいているはずだった。
「止まってください」
シエナが手を上げる。
その先。
細い通路が突然途切れ、円形の広い空間へ出ていた。
体育館ほどの大きさがある。
天井も高い。
ずっと狭い灰色の通路を歩いていたせいか、急に視界が開けたことで逆に落ち着かなかった。
向こう側にも通路がある。
「向こう側の通路、その先で元来た道に戻れます」
シエナが言った。
ようやく。
そう思った直後。
「……でも、これを見て」
壁際を指差す。
そこに、古びた大きなレバーがあった。上から下へ、ガシャンと下げるためだけに作られたような、いかにも怪しい金属製のレバー。事前情報にもない。
ここまで歩いてきた道にもなかった。
古い石壁の中に、それだけが後から無理やり取り付けられたように浮いて見える。
「怪しいね」
「怪しいです」
全員の意見が一致した。
「そうだよな」
シエナが精霊を飛ばす。
僕らはその間も、入口からほとんど動かなかった。
しばらくして。
「床、天井、壁。魔法的な罠はありません。敵も確認できません」
「レバーは?」
「ただの機械式に見えます。向こう側の入口にも付いているようですね」
反対側を見る。
確かに。
出口のすぐ横にも、同じ形のレバーがある。
「触らない方がいいな」
「賛成です」
もう一度、全員で周囲を確認する。
進める道は向こう側だけ。
引き返したところで、また迷路が変わるかもしれない。
なら。
「一気に抜けよう」
僕は言った。
ドランを先頭に、シエナ、ユイ、トウヤと続き、僕は最後につく。
走り出す前に、もう一度だけレバーを見る。何もいない。黒い影も、笑い声もない。
大丈夫だ。そう思うしかなかった。
「行くよ!」
五人で走る。
広い空間。
何も起こらない。
足音だけが響いている。
半分。
まだ何もない。
四分の三。
出口が近づく。
本当に。
何も――。
「――え」
誰かの声。
走りながら。
全員の視線が、その先へ向いた。
いた。
出口の横。
黒いインプ。
いつからそこにいたのか。
分からない。
出口の傍らにあるレバーへ、小さな両手でぶら下がっている。
走ってくる僕らへ。
顔だけを向けた。
にたり。
笑う。
「キキキ」
「やめろ!」
届かない。
黒インプが。
全体重をかけるように。
レバーを倒した。
ガコン。
重い音。
それだけだった。
次の瞬間。
僕らの目の前にあった出口が。
消えた。
何の前触れもなく。
音すらなく。
巨大な石壁へ変わっていた。
レバーも。
壁の中へ吸い込まれるように消えていく。
「なんだと!」
「ぐぁっ!」
全速力で走っていたドランが止まりきれず、突然現れた石壁へ肩からぶつかった。
鈍い音が響く。
「ドラン!」
大丈夫か。
そう聞くより先に。
キキキ……。
背後。
笑い声。
振り返った。
黒インプが。
僕らが入ってきた道へ向かって走っている。
「まずいぞ白!」
ドランが壁へ手をつきながら叫ぶ。
「あっちにもレバーがあった!」
トウヤも気づいた。
「アイツ、あれも下げる気だ!」
入口。
もう一つのレバー。
あれまで下げられたら。
前も。
後ろも。
塞がれる。
――閉じ込められる。




