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black side 3

「――ここまでにしておくか」


俺はそう言って、階段脇の装置に手を触れた。


九十九階。

淡い青い光が灯る。


到達登録完了だ。


四日。

九十九階を攻略するのに、それだけの時間を要した。


広大な毒沼。理不尽なトラップが至る所に仕掛けられ、マッシュと呼ばれる異様に硬い魔物が徘徊していた。


先人のメモと、摩耶のオリジナル闇魔法アンフォーチュンクッキーがなければ、攻略は不可能だっただろう。


「……ようやく、チェックポイントか」


牙狼が壁にもたれかかる。息が上がっている。いつもの威勢は、どこにもない。


「牙狼、お前、随分弱ってんな」


「うるせえ。四日もぶっ通しで戦ってりゃ、誰だってこうなるだろ」


「一応、寝ただろ?」


「毒の沼でな! 今日はもう帰るんだろ? な?」


「……珍しく話が早いな」


「このまま百階を目指すのは、さすがに無理だろ」


「わかってきたな。百階には『あれ』がいるらしいからよ」


「いるって、あの階層支配者とかいう……」


牙狼は、ミーティングと柴田が呼んでいる座学ではほとんど寝ている。


よく知っていたな、と感心した。


「強いらしいぞ?」


「事前情報では、巨大な岩石系ゴーレム。床も壁も、その身体になるという、まさにダンジョンと一体化した――」


柴田が眼鏡をくいくい押し上げながら割り込んできた。


「あー、柴田。わかった。後で牙狼に教えてやってくれ。頼む」


「いや……いい。きちんと休む。次は万全の状態で来たいからな。帰って寝ないと。うん」


「いやいや、牙狼くん。時間はたっぷりありますぞ?」


柴田の眼鏡が光る。


「ここから九十階まで歩いて帰るんですから……」


「ああ、やっぱそうか。戻るのか、くそー」


牙狼が座り込む。


澪が愉快そうにふたりを眺めながら言った。


「とにかく、緊張はしていないみたいだね」


「……そうだな」


俺は、少しだけ心配になっていた。


こいつらには死んでほしくないから。


◇


「――というわけで、今日は俺の店で祝うことにした」


二階のVIPフロアが、祝賀会場になっている。


九十九階の突破と、澪の復帰祝いだ。


今夜ここにいるのは、俺たちだけじゃない。


店長やキャスト、系列の店で働いている連中。


俺と付き合いのある奴らも何人か呼んでいる。


表で商売をしている奴もいれば、裏側に片足突っ込んでいる奴もいる。


まあ、だいたい身内みたいなもんだ。


「太っ腹だねー、黒ちゃん」


摩耶がグラスを掲げた。


未成年だからジュースのはずだが、くねくねと絡みついてくる。


……ジュース、だよな?


「今回もかなり稼いだからな」


「どれくらい?」


「知らなくていい」


「ケチ」


「ちゃんと分け前、振り込んだだろ」


「わたしは黒と一緒にいられるなら、何でもいいよ」


実際のところ、タワー攻略はかなりの収入になる。


魔石。素材。討伐報酬。攻略済み階数に応じた組合の手当て。


まあ、店を買った金は別口だがな。


柴田が補足する。


「九十階を超えた辺りから、死亡率は急激に跳ね上がりますからね。ですが、その分、稼げるというわけです」


俺はグラスを置いた。


「そのフロアでしか採れない魔石や素材がある。今回みたいに一度潜るだけで、普通に働いている奴の二、三年分は稼げるってわけよ」


「えぐ」


「その代わり、死ねば終わりだぞ」


場が一瞬、静かになる。


牙狼はフンと強がり、柴田は眼鏡を押し上げる。


「毎年、何百人と死んでいる。金と命が釣り合わねえと思ったら、いつでも降りていいぜ」


「黒ちゃんが言うと、重みがあるね」


摩耶が笑いながら言った。


「本当のことだからな」


「でも降りないんでしょ、みんな」


「そんなの絶対にないにゃ」


澪がしっぽをぶんぶん振る。


この間の負傷をものともせず、遠征でも張り切っていた。


頼もしいな。


澪の顔を見つめていると、「にゃにゃっ!?」と自分の尻尾の後ろに隠れた。


なんなんだ。


「お前らがどうするかなんて知らねえよ」


ここで止める奴らとは思っていないけどな。


「知ってるだろ」


牙狼が茶々を入れる。


「うるせえ」


笑い声が上がった。

重い話は、それで終わり。


音楽の音量が上がる。

誰かが料理を追加で頼む。


場はいつもの調子に戻っていった。


◇


「うそっ、柴犬じゃん!」


「おー、犬ころ!」


聞き覚えのない声だった。


見知らぬ男が三人、フロアの奥から近づいてくる。


まるでプロレスラーのような大きな身体をしていた。


澪の尻尾がぴくりと動く。


今夜は俺の知り合いだけでもかなりの人数が来ている。


店長やキャストの連れまで全部把握しているわけじゃない。


こいつらも、その誰かの知り合いなんだろう。


「……吉沢くん」


小さく呟いた柴田の表情が、固まった。


下を向いて、拳を握っている。


「やっぱり! 柴犬だよ。久しぶりー」


男たちが笑いながら近づいてくる。


そのまま柴田の頭を乱暴に撫でた。


「柴犬、元気にしてたか?」


「おい、柴犬。なんでお前がこの店にいるんだよ。迷子か? また保健所に連れてくぞ?」


もう一人が繰り返し笑う。


「懐かしいよなあ。なんで学校、辞めたんだよ」


柴田は何も言わない。


「何だよ、知り合いか?」


俺が聞いた。


「……以前の学校の、同級生」


柴田が短く答える。


普段の饒舌さが、消えていた。


「あー、あの学校ね」


俺は柴田と出会った日のことを思い出す。


捨てられた野良みたいに、小さくなっていた。


まるで自分のようだった。


吉沢と呼ばれた男は、何を思ったのか俺に話しかけてきた。


「知ってます? こいつ、昔さ」


笑いながら続ける。


「教室の窓から、毎日こいつの筆箱とか投げてたんですよ。『取ってこい』って」


「毎回、ちゃんと取ってくるんだよ。校庭の端まで走って」


「犬みてえだから、柴犬なんだよな」


三人が笑い合う。


柴田は俯いたまま、何も言わない。


「おい」


俺は立ち上がった。


「帰れ」


「は?」


「柴田。今の話、面白かったか」


柴田は俯いたままだった。


代わりに吉沢が答える。


「いや、別に。俺ら、ただの思い出話――」


「帰れ。二度と来るな」


俺の声のトーンに、三人の表情が変わった。


「な、何だよ急に。お前にそんな権利があるのか?」


吉沢の抗議に、摩耶が苦笑する。


「早く消えた方がいいよ。ここが誰の店かも知らないんでしょ」


「え。もしかして、く、黒……さん?」


「わ、悪かった。すいません」


一人が慌てて頭を下げる。


摩耶に言われるまで、誰の店かも分かっていなかったらしい。


「し、柴田くん、ごめんな。もう俺ら行くからさ」


もう一人も続いた。


「もういい。早く消えてくれ」


偉そうな奴は嫌いだ。


そう思っていた。


だけど――。


「寺田くんも、すいませんでした」


三人目が、俺に向かって頭を下げた。


「……」


「寺田くん?」


頭から言葉が消えていく。


「あの、寺田さん、ですよね」


視界の端が、じん、と痺れた。


……早く、消えろ。


「寺田さんっ、あの」


大嫌いな、その名前が繰り返される。


「――ッ」


音が遠くなる。


摩耶の声が聞こえた気がした。


「黒ちゃん?」


分からない。


自分でも分からない。


腹の底から、何かが競り上がってくる。


真っ赤な炎が。


「寺田さん?」


ドン!


もう一度、その言葉を聞くと、今度はテーブルの上のものが一斉に跳ねた。


グラスや料理がぶちまけられる。


「誰が、寺田だって?」


自分の声が、自分のものではない。


三人の顔から、血の気が引いていく。


「な、何言って――」


「てめぇ。てめぇよぉ」


足元の影が、するすると俺の足を登ってくる。


蛇みたいに。


牙狼が腕を掴んだ。


「黒、待て。今のは――」


振りほどいたつもりはなかった。


だが牙狼は吹き飛んで、別のテーブルをめちゃくちゃにした。


「あー、……またいつものか」


摩耶の声が、いつもより早い。


「ねえ、黒。謝ってるよ? さっさと追い出したらいいじゃん」


吹き飛んだ牙狼を見ているはずなのに、摩耶は腕を絡めてくる。いい女だ。


いつもの。


そうかもしれない。

許せなくなる。


怒りに染まると目の前が真っ赤になって、そして――。


吉沢の首を掴む。

足先が床を探して、ぶらぶら揺れた。


消えればいい。

この名前も、一緒に。


「誰が、寺田だ。言ってみろよ!」


俺の声が叫ぶ。

五本の指に力が入る。


吉沢の喉が潰れそうなほど、締め上げる。


「ぐ……っ」


足先が必死に床を探している。


後ろの二人が叫びながら俺の腕に掴みかかり、引き離そうとする。吉沢の爪が俺の右腕に食い込む。


それでも、俺の右手は止まらない。

止まらない。


澪が後ろから俺の服を引く。

縫い目が裂ける音がした。


「黒、やめ――」

やめ、が届かない。


右手が、名前の出所を探している。


「黒さん! ここで殺ったらまずいですよ」


そう言って柴田が俺を羽交い締めにしてくるが、無視する。


俺の頭は自動的に考えていた。


まず喉だ。


口だ。


そこを潰せば、もう呼ばれない。


……いつも、そうしてきた。そうだ。


「黒ちゃん、ストップッ、ストップ!」


摩耶がスマートフォンを握りしめながら叫ぶ。


「ああ、もうあの子を呼ぶしかないっ。お願い、ハイネちゃん、出て……」


吉沢の顔が赤黒くなっている。

苦しそうに、俺の手首を何度も叩く。


「言ってみろ。どうした。言えないのか?」


「黒、お願い。もうやめてよ」


「うるせぇ!」


店に悲鳴が響く。

椅子が倒れる。


音楽だけが、まだ残っている。

俺の中で、何かが焼き切れる音がした。


◇


そこから先は、よく覚えていない。


誰かに腕を引かれた。


何かが壊れた。

何人もの声が、俺を呼んでいた。


どれくらい経ったのかも分からない。

気付けば、吉沢の首を掴んでいた右手は空いていた。


それでも。


怒りだけが消えなかった。

赤い怒りが、頭を支配している。


「うあああああああああああああああ!」


行き先のない怒りが、口から溢れ出す。


消えろ。


全部。


全部、消えろ。


「消えろおおおおおおおおおおおぉぉ!」


「あまっ」


……甘い?


甘い。

イチゴ味、だ。


赤かった視界が、じわりとピンクに変わる。


「美味しい?」


その声に、反射的に首がそちらを向く。


白くて、ふわふわの耳。


馬鹿みたいに大口を開けて叫んでいた俺の口に、飴玉を入れやがった。


「……ハイネ」


いつの間に来たのか。


自分の中に渦巻いていた赤い何かは、ハイネの少し悲しそうな笑顔に吸い込まれ、消えた。


目の前に、ハイネがいる。

心配そうな顔で、俺を見上げている。


店の中を見回す。


ガラステーブルは粉々に割れて、椅子もほとんどか倒れている。


吉沢たちの姿は、もうなかった。


「やっち、まったか」


いつの間にか、摩耶と牙狼が俺の右手から吉沢を引き離していたらしい。

その牙狼は何事も無かったかのように、テーブルに残った料理を食べている。澪はソファで寝ていた。こいつらの普通が俺を現実に引き戻す。


柴田は、俯いたまま座っている。


「……悪い」


誰に向けての言葉かは、自分でも分からなかった。


「大丈夫だよ」


ハイネが俺を座らせる。

何もわからない幼児のように、素直に従う。


「みんな、無事だから」


「あいつらは」


「大丈夫。少し休んでから帰ったよ。首は痛そうだったけど、歩いて帰ったんだって」


「そうか」


俺は自分の手を見た。

震えてはいない。


血も付いていない。

なのに、指の腹が、何かの跡を覚えていた。


視界の端で、摩耶が小さく笑った

――黒には、そう言っておこう。


そんな顔に見えた。


「黒」


「……何だよ」


摩耶が首を傾げて問う。


「その名前、そんなに嫌なの?」


「……」


ハイネは黙って俺を見つめている。

もしかしたら、ガキの頃に話したかもしれない。


答えなかった。

答えられなかった。


そんなこと、知ってほしくないから。


「何かあるんだね」


摩耶はそれ以上、聞かなかった。

ただ、隣に座り続けた。


しばらくして、柴田が顔を上げた。


「……すみませんでした」


「お前が謝ることじゃねえよ」


「僕のせいで」


「違う」


牙狼が、低い声で言った。


「柴田、あんな奴ら、マッシュよりよっぽど柔らかいぞ? 次に会ったら甲羅をはがしてやれ」


澪が眠そうに目をこする。

摩耶はグラスを回したまま、何も言わない。


俺は首を振った。


「お前は悪くねえよ、柴田」


柴田は何も言わず、また俯いた。

その日の祝賀会は、それで終わった。


俺は、黒井 黒。


誰にも、この名前は奪わせない。

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