white side 3
放課後、部活の基礎訓練を終えて、僕は制服のまま待ち合わせ場所へ向かった。
クイーンズスクエアの、地下へとつづく長いエスカレーター。
その壁に、日本語とドイツ語で何か文字が書かれている。僕は三年間ここを通るたびに読もうと眺めているが、未だに全文を読めていない。
確か、フリードリヒ・フォン・シラーの言葉だったか。
「えーと。樹木は育成することのない無数の芽を生み……」
今日こそ最後まで読んでみよう。
そう思って、流れていく文字を目で追う。
「白ー!」
無理だった。
エスカレーターの下から、白い耳がぴょこんと跳ねた。
ハイネだ!
すごく、笑顔だ。
その顔を見た瞬間、シラーの言葉は全部どこかへ飛んでいった。
「ハイネ! 久しぶり」
「久しぶりー! 元気だった?」
紺のブレザーではなく、彼女が通うヒーラー専門学校の制服を着ている。
淡いベージュのカーディガンに、動きやすそうなパンツスタイル。肩から学校指定らしい白いバッグを提げている。
なんとなく見慣れない。いや、何度か見たことはある。でも、久しぶりだからだろうか。今日は少しだけ違って見えた。
「どうしたの?」
「え?」
「じーっと見てる」
「いや、制服。久しぶりに見たなって」
ハイネが自分の服を見下ろした。
そのままクルリと回って見せる。
「似合う?」
「うん。似合ってるよ」
「えへへ」
耳がぴこっと動いた。
……そういう反応をされると、こっちが困る。
「白は?」
「何が?」
「元気だった?」
「ああ、うん。まあ」
「まあって何、まあって」
ハイネが頬を膨らませる。
言えないよな。
少し前に女の子から好きだと言われて、未だにどうすればいいのか分からない、なんて。
ましてや、それをハイネに相談するのは――。
……何か違う。
「元気だよ、普通に」
「ならよし!」
ハイネが満足そうに頷いた。
◇
まだ帰宅時間には少し早かった。
僕らはクイーンズスクエアをぶらぶら歩いた。
学校帰りの学生、買い物袋を持った人、仕事を終えたらしいスーツ姿の人たち。
ガラスの向こうには、夕日に染まり始めたみなとみらいの街が広がっている。
「お腹すいた」
「いきなりだね」
「今日、実技だったから」
「ヒーラーってそんなに体力使うの?」
「使うよー。魔力も使うし、ずっと集中してるし。終わったらお腹ぺこぺこ」
そう言いながらハイネは、生クリーム山盛りが売りのクレープ屋の前で止まった。
視線がショーケースに固定されている。
「食べる?」
「いいの?」
「聞いただけだけど」
「白のおごり?」
「なんでそうなるの」
「九十五階まで行った探索者さんだから」
「学生です」
「白、お金持ちでしょ?」
「……」
結局、クレープをひとつずつ買った。
ハイネはたっぷりのイチゴ。
僕はチョコバナナ。
どちらも生クリームがもりもりだ。
「一口、いる?」
「いる!」
即答だった。
僕が差し出すより早く、ハイネがこちらへ顔を寄せる。
近いって。
「……」
「白?」
「いや、はい」
「ありがと」
僕が差し出すと、ハイネが一口かじった。
「あ、おいしい」
「でしょ」
なんで僕が得意げになっているんだろう。
「私のも食べる?」
「いいよ」
「遠慮しないの」
今度はハイネが差し出してくる。
イチゴ。
さっきハイネが食べたところとは、反対側。
……反対側だよな。
「何してるの?」
「確認」
「何を?」
「なんでもない」
一口食べる。
うまっ。なんだこれ……うまい。これがハイネの味なんじゃ……いや、僕は何を?
「どう?」
「えっ、あ、甘いよ」
「それだけ?」
「イチゴ味」
「白……食レポ下手だね」
ハイネが笑った。
心臓がずっとおかしかった。
◇
白い船の前にあるベンチに、僕らは並んで座った。
夕方の光が、ビルの隙間から斜めに差し込んでいる。
少し前まで明るかった空も、もうオレンジ色に染まり始めていた。
「学校、どう?」
「んー、大変! でも楽しい」
ハイネの通う専門学校は、関東でも指折りの難関だと聞いたことがある。
「今日も実技だったの。回復魔法の精度チェックってやつ」
「精度?」
「うん。回復量が多ければいいってわけじゃなくて、傷の種類に合わせて出力を調整できるかが見られるの」
ハイネが人差し指を立てた。
「例えば小さな切り傷に全力で回復魔法かけても、魔力の無駄でしょ?」
「確かに」
「逆に、内臓まで傷ついてる人に表面だけ治して『はい終わり』ってやったら大変だし」
「それは怖いね」
「でしょ? だから傷の状態を見て、必要なところに、必要なだけ」
ハイネは自分の手のひらを見つめた。
「探索者の人を治すなら、一瞬の判断でそれができないと駄目なんだって」
なんだろ、いつもより知的に見える。
「ふふ。白くん、よく聞きたまえ」
ハイネが得意げな顔で、人差し指を立てる。
「すごいんだよ? エルフの人がみんなに魔法を教えて、それがこの世界の元々の技術と融合したんだから」
現代では、ほとんどの病気や怪我も医学理論に裏付けられた魔法技術で対処可能なのだという。
いつものハイネとは少し違って見えた。
ふわふわしていて。
よく笑って。
甘いものが好きで。まるで光っているかのように明るい。
だけど……。
「それでも、助からない人もいるんだけどね……」
そう言うと、ハイネの赤い瞳が一瞬だけ地面に落ちる。
ハイネのお母さんは、彼女を出産する時に亡くなったと子どもの頃に聞いた。
「わたしね、絶対すごいヒーラーになるんだ。今日だって、けっこう褒められたよ!」
すぐにいつもの顔に戻った。
「すごいじゃん」
「でしょー!」
耳が満足げに揺れる。
「白の方は? ついに九十五階だったんでしょ?」
「うん」
「すごいよ、それ。大人だって行けないよ」
「まあまあかな」
「また、まあまあって言った!」
ハイネが軽く僕の肩を小突く。
「白、昔からそうだよね」
「何が?」
「頑張ってるのに、頑張ってないみたいに言うところ」
「そうかな」
「そうだよ。九十五階なんて、普通の高校生は行かないもん」
「普通の高校生はタワー攻略しないからね」
「そういう意味じゃないの!」
また肩を叩かれた。痛くはない。むしろ、ちょっと嬉しい。
でもハイネは真面目な顔をしていた。
「怖くないの? ランドマークタワーに登るの」
「怖いよ」
「え?」
「怖い。でも、それ以上に楽しいんだ」
僕は少し考えてから、正直な気持ちを伝えた。
ハイネの耳が少し伏せる。
「そう、楽しい、んだ」
「わたしは怖いよ、白がいつか死んじゃうって」
「学校併設の病院に探索者の方がね、毎日のように運ばれてくるの。たくさんの人が死んでるんだよ。なのに、平気な顔して、子どもにまで登らせてる。やっぱりおかしいよ」
ハイネ、探索することについて、そんな風に思ってたんだな。
「……この前、上で小学生の子を見かけた時は、本当にそう思ったよ。でも、僕は……やってみたいんだ」
「ばあちゃんのために、っていうのもある」
「ヘルメスさんの?」
「うん」
ばあちゃんが何を抱えているのかは、まだ僕自身よく分かっていない。
ただ、ばあちゃんが時々見せる、あの遠くを見るような目。普段は何でも知っているみたいに笑っている人なのに。たまに、僕たちには見えない何かを見ている。
寂しい、とも違う。悲しい、とも少し違う。何かをずっと待っているような。
それを見るたびに、何かを叶えてあげたいと思う。理屈じゃなくて。
「ばあちゃん、何か抱えてるみたいなんだ。百階を越えたら教えてくれるって言ってた」
「何を?」
「この世界の、本当の歴史、って」
ハイネが少し首を傾げた。
白い耳も一緒に傾く。
可愛いな。
「よく分からないけど、それ、すごく大事な話に聞こえる」
「そうかもね」
「白は、知りたい?」
「知りたい。でも、それよりも」
僕はベンチの背もたれに寄りかかった。
「ばあちゃんが、あんな顔をしなくて済むなら、それでいいかなって思う」
ハイネは、少しだけ黙った。
それから。
「白らしいね」
柔らかく笑った。
「そういうところ、好きだよ」
「……え?」
「あ」
ハイネの耳がぴんと立った。
「あ、変な意味じゃなくて! 友達として、ってこと!」
慌てて両手をぶんぶんと振る。
耳まで少し赤い。
「だよね、分かってるよ」
「ならいいけど……」
沈黙が流れた。
電車が一本、僕らの前を通過していく。
風がハイネの髪を揺らした。
友達として。……分かってる。ずっとそうだったから。
なのに、この前ユイから言われた「好き」と、ハイネの「好き」が頭の中で重なった。
全然違うはずなのに。どうしてかハイネの声が離れない。
「……白?」
「何?」
「なんか今日、変だよ」
「そうかな?」
「うんうん」
ハイネが僕の顔を覗き込む。
近いって。そういうとこだぞ?
「何かあった?」
「何もないよ」
「怪しい」
「本当に何もないって」
じっと見つめてくる。
危ない。
これ以上見られたら、何か全部ばれそうだ。
勇気を出して伝えてくれたユイ。
あんな風にハイネに伝えるべきなんじゃないか。
そう思うが、いつも言葉は出ない。……僕は腰抜けだ。
こんなに情けない姿の自分を知れば、ユイも目が覚めるのかもしれないな。
「あ、そうだ!」
助かった。
ハイネが何かを思い出したらしい。
「黒もね、頑張ってるんだよ」
ああ。
黒……か。そう。
「ああ……うん、知ってる。九十八階まで行ったんでしょ」
「違うの、今朝、もう九十九まで行ったんだって!」
一瞬だけ思考が、止まる。九十九??
「……早いね」
僕より四階上。
……別に競っているわけじゃない。だけど。
「うん、すごいよね」
ハイネの声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
何だろう。
ほんの少しだけ、面白くない。
いや。
何を考えてるんだ、僕は。
「白と黒、似てるところあるんだよ」
「そう?」
「うん。二人とも、頑張ってる理由を、あんまり自分からは言わないところとか」
「その黒は何で頑張ってるのかな?」
「何かあるんだと思う。詳しくは……知らないけど」
ハイネはそれ以上言わなかった。
僕も、それ以上は聞かなかった。
知らない男の話だ。
なのに僕は、その男のことを妙にたくさん知っている。
ハイネの幼馴染の、黒。僕より先に九十九階へ到達した。ちょっと怖い。でも、本当は優しいって。ハイネにとって大切な人。
そして――。僕はまだ、一度も会ったことがない。
「次は会えるかな」
「うん、今度こそ、ね」
「何回か会おうとしたよね」
「全部、駄目だったけどね」
「はは……だね」
僕らは思い出す。
最初は黒の都合が悪くなった。
次は僕だった。
一度なんて、同じ日に同じ場所へ行ったはずなのに、結局、顔を見ることはなかった。
偶然と言えば、偶然だ。
ただ。正直、僕は黒のことなんてどうでもよかったし、彼にとっても僕なんてどうでもいいに決まってる。
理由はハイネが可愛いからだ。だから分かる。
ハイネが空を見上げている。
夕焼けが、少しずつ藍色に沈み始めていた。気づけば、空はずいぶん暗くなっている。僕らは話しながら、桜木町駅へ向かった。
「なんか、変な感じ」
「何が?」
「白も黒も、私にとってはどちらも大事な人なのに、二人はお互いのこと、全然知らないんだもん」
どちらも大事な人。
胸の奥に、ほんの少しだけ何かが引っかかった。
「そうだね」
「早く三人で遊びたいな」
「前にも聞いたよ、それ」
僕はハイネを見る。
「僕はハイネとふたりでもいいんだからね」
「それも前に聞いたよ」
そう言って、ハイネが笑う。
「三人の方が楽しいよ」
「まだ黒に会ったことないから分からないよ」
「絶対仲良くなるって」
「そうだといいけど。黒だって、僕に会いたがってるとは思えないよ」
「仲良くなるよ。私が保証する」
そう言うとハイネは、わざわざ立ち止まり、僕のほうに向き直って胸を張った。
「何、その自信」
「だって二人とも、私の大事な友達だもん」
また、それだ。謎理論。
僕は笑った。
笑えた。
なのに、胸のどこかに残った小さな引っかかりだけは、消えなかった。
電車がホームへ滑り込んでくる。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
ハイネが電車に乗り込む。
その瞬間、白い耳がドア枠に当たらないように、ぴょこんと折りたたまれた。
ドアの向こうから、こちらへ手を振った。
僕も振り返す。
白い耳が、人込みの向こうで最後まで見えていた。
ドアが閉じる。
「……なんで、いちいち可愛いんだろ」
電車が動き出した。
一人になったホームで、僕はふと思う。
黒。顔も知らない。声も知らない。会ったことすらない。
それなのに、ハイネの口から何度も聞いているせいか、ずっと前から知っている人間のような気さえする。
どうして僕らは出会わないんだろう。
同じ街にいる。
同じタワーに登っている。
……たぶん、同じ人を、大切に思っている。
それなのに。
理由の分からないその違和感は、いつものように答えをくれない。
ホームを抜けていく電車の音だけが、夕暮れの街へ溶けて消えていった。




