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ランドマークタワー、70階。
アルミなのかタングステンなのか知らないが、銀色の扉がひとりでに開いた。各階層の十階ごとに設置されている下降専用エレベーターは一つのボタンも無く、ただ70階に辿りつく。
僕たちは九十五階から降りてきた。
と言っても下降エレベーターは十階ごとにしか存在せず、九十階までは、また数日かけて歩いたのだ。
トウヤは初めての下降エレベーターに興奮して、あちこち触っていた。
「登りのエレベーターは、チェックポイントまでの転移だもんな」
上の階に行くには、エレベーターホールにある謎の装置に数字を入れて手をかざす。すると、チェックポイントの周囲に瞬間的に身体が転送されるのだ。
「どうして漢数字が使えるんだろうね?」
「学者さんが調べても分からないんだろ? ぼくらに分かるわけないよ」
ドランとユイが、この塔の謎の仕様に改めて嘆息する。
「――帰ってきたぁ!」
扉が開くと同時に、トウヤが真っ先に飛び出した。
冷たい空調の風が、火照った頬を撫でる。
そのまま床に膝をつく。
「はぁうう、文明だ……」
「大げさな」
シエナが呆れたように言う。
「九十五階にも文明くらいあったでしょ?」
「敵しかいなかっただろ!」
「じゃあ、あの鎧と友達になればよかったじゃない」
「殺しに来てたよ!」
僕はまだ騒いでいる二人の横を通り過ぎた。
◇
70階。
ここは少し奇妙な場所だ。
ランドマークタワーは、本来なら69階までしかない。少なくとも昔はそうだった、らしい。
正確には、その上にも設備階などが存在するけれど、少なくとも一般人がエレベーターのボタンを押して「70階」へ来ることはできない。
僕ら探索者にとっては違う。
ダンジョンから帰還した僕たちが降り立つのは、いつもこの70階だった。ここが、あの世とこの世の狭間だと呼ぶ人もいる。
ちなみに、僕らが「九十五階」とか「九十八階」とか言っているのは、あくまでダンジョン内の階数だ。71階を一階として数え直しているだけで、実際の建物としての高さで言えば、もっとずっと上にある。
ややこしい話だけど、探索者なら誰でも知っている常識だった。
無機質なエレベーターホール。
白い照明が床を照らし、機械の低い駆動音が壁の奥から響いている。
壁には探索者組合の注意書きや、負傷者用の担架、救急設備。日中であれば探索者組合の職員が待機し、様々なサポートをしてくれる。
誰かの治療の結果なのか、このフロアに消毒液の匂いが広がっており、石と鉄の匂いに慣れた鼻には妙に強く感じられた。
そして、その先にある扉を開けて階段を一つ降りれば――。
69階。
「あー、明るい」
大きな窓の向こうに、横浜の街が広がっていた。
ついさっきまで薄暗い石造りの迷宮を歩いていたせいか、ガラス越しの夕日がやけに眩しい。
橙色の光が窓いっぱいに差し込み、床に長い影を落としている。白いはずのベイブリッジが赤く染まっていく。夕日を受けた水面が、細かな金色の粒みたいに揺れていた。
「海、綺麗だね」
シエナと話すユイの目がキラキラと輝いているように見えた。
遥か下方にある道路には車が走っている。人が歩いている。信号が変わり、街のあちこちで赤や青の光が灯り始めていた。
いつもの横浜だ。
ここは完全に僕らの世界だった。
「生還祝いに一杯どうだ?」
ドランが69階のカフェバーを指差した。赤い海を見れば、座ってみたいのも分かる。
赤茶けた太陽が真横から店内を照らしている。フロアには、ある種の異世界じみた雰囲気が漂っていた。
「わたしたち、高校生でしょ」
ユイが言った。
「いや、ジュースだよ!」
「だったら下で飲めばいいじゃない」
「雰囲気だよ、雰囲気」
いつもなら、ここから始まる。今日倒した敵の話、失敗した攻撃、拾ったもの、次はどこまで行くか。そんな話をしながら、みんなで飯を食う。三年間そうしてきたんだ。
でも、今日は少し違った。と、思う。
ユイと、目が合った。
「あ……」
ユイが先に逸らした。と、思う。
耳まで赤くなっている。
僕も何となく窓の外を見る。
今日のことを思い出してしまう。
いや、断ったのだが。
――好き……なの。白のこと。
忘れられるわけがない。
胸の奥に、あの声がまだ残っている。あの熱っぽい頬の赤みを。
「……降りようか」
僕が言うと、全員が何も言わずに頷いた。
探索者用に指定されたエレベーターへと乗り換える。
今度は、ちゃんと現実世界のエレベーターだ。
扉が閉じると、軽い振動とともに身体が下へ引かれた。
表示がどんどん減っていく。
69。
58。
42。
21。
「速っ」
トウヤが表示を見上げた。
「ダンジョンのエレベーターより、こっちの方が怖くない?」
「今さらかよ?」
耳の奥がきゅっと詰まり、胃がふわりと浮く。
やがて数字が1になる。
普通のエレベーターの扉が開く。
その瞬間。
「山西くん!」
「山西白さん、少しいいですか!」
「九十五階到達、おめでとうございます!」
「今回の探索を振り返って、うまくいったところなんかを――」
一気に押し寄せた声とフラッシュに、僕は反射的に一歩下がる。
人。
人。
人。
カメラ。
マイク。
また人。
シャッター音が連続して鳴り、照明の熱が顔に当たる。
「あっつ」
トウヤが僕の後ろへ隠れた。
「なんだこれ」
「取材よ」
シエナが平然と言う。
「それは見れば分かる!」
僕たちがアンダー18の登頂記録を更新し始めてから、こういうことが増えた。
最初は学校まで来ていた。
それでは迷惑になるということで、最近は帰還時間を予想して、このようにランドマークタワー3階のエレベーターホールで待つ記者がいる。
「山西さん、九十五階ですよ。百階がいよいよ見えてきましたね!」
「そうですね。でも、まだ五階ありますから……」
「寺田黒さんのチームは九十八階まで到達していますよ。先に百階へ到達するのは彼らだという声もありますが?」
また、その名前。
黒。
「別に……、僕たちは競争しているわけではないので」
「意識していない? 全然?」
「まったくしていない、と言えば嘘になりますけど」
少し考える。
最近じゃ、先を越されがちかなとは思うけど……。
「でも、誰かより先に登るためにやっているわけじゃないです」
記者がさらにマイクを近づけた。
マイクの先端が、鼻先に触れそうな距離まで迫る。ため息が出るのを我慢していると探索の疲れが出たのか身体が重くなる……。
「では、百階を目指す理由は?」
「……」
疲れた頭だが、一瞬、ばあちゃんの顔が浮かんだ。
「今は、部活だから、ですかね」
笑って答えた。
「楽しいから登っています」
その後もいくつか質問に答える。
ドランたちにもマイクが向けられた。
トウヤは初参加だったこともあって、しどろもどろになっていた。額に浮いた汗を拭いながら、言葉を探している。
その横でシエナが笑っている。
ユイは――。
いつものように、ちゃんと笑っていた。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ緊張が見えた気がした。
やがて取材も終わる。
「ありがとうございました!」
頭を下げて、その場を離れようとした。
そこで、記者同士が話している声が聞こえた。
「寺田クンたちは?」
「あー、まだだよ。彼らはいつも夜かららしいからねぇ」
「ま、あの見た目から言って夜型だよな……」
「もうすぐ九十八階だろ? 待とうよ。いい絵撮れるって」
僕はふと足を止めた。
背後で、記者たちの声がまだ続いている。
「……」
「白?」
ドランが振り返る。
「なんでもない」
僕は歩き出した。
本当に人気なんだな。
黒ってやつ。
◇
「じゃあ今日は、解散にしようか」
ランドマークを出たところで僕は言った。
夜の横浜は、昼間よりも色が多かった。
ビルの窓明かり、車のヘッドライト、店先の看板。
人の話し声と、遠くを走る電車の音が重なっている。
いつもなら、この辺りで打ち上げをする。
でも誰も反対しなかった。
理由は、たぶん全員同じだ。
「ユイ」
「……白くん」
帰ろうとしていたユイを呼び止めた。
みんなが少し離れていく。
シエナだけがこちらを気にしていたが、ドランに背中を押されて歩いていった。
「あのさ」
夜風が頬を冷やした。
何を言えばいいんだろう。
今日ずっと考えていた。
結局、うまい言葉は見つからなかったけど。
「さっきは、ごめん」
「白くんが謝ることじゃないです」
即答だった。そりゃそうかもしれない。
「私が勝手に好きになって、勝手に告白しただけなので」
「でも――」
「それに」
ユイが僕を見る。
街灯の光を受けた瞳が、少しだけ潤んでいた。
少しだけ目が赤かった。
それでも笑っていた。
「……諦めるとは言ってませんから」
「え?」
「お疲れさまでした!」
「ちょ……」
ユイが逃げるように走っていく。
靴音が夜の歩道に小さく遠ざかっていった。
「……」
強い。
強いな。
やっぱり、うちで一番強いのはユイなのかもしれない。
◇
山手の家へ戻ると、玄関を開ける前から声が聞こえた。
「白が帰ったぞ!」
じいちゃんだ。
まだ開けていないのに。なぜ分かる……。
玄関の向こうから、味噌汁と焼いた肉の匂いが流れてくる。
掌を門に当てて、玄関を開ける。
「……ただいま」
「おかえりー!」
父さんが最初に飛んできた。
「白ーー! 九十五階だって!? すごいじゃないか!」
「ちょ、父さん、汗臭いから」
「お前の方が臭いだろ! このダンジョン帰り!」
「二人とも、玄関で騒がないの」
母さんが奥から出てくる。
「白、おかえりー!」
「ただいま、母さん」
母さんのハグは容赦がない……。
その後ろから、ヘルメスばあちゃんも顔を出した。
「おかえりなさい、白」
「ただいま、ばあちゃん」
「怪我はしていませんね?」
「ないよ」
「本当に?」
「ユイもいるんだから大丈夫」
「そういう意味ではありません」
相変わらずだ。
九十五階まで登れるようになっても、ばあちゃんにとって僕はたぶん五歳くらいのままなんだろう。
みんなとの夕食後、自分の部屋へと戻る。
ベッドに身体を投げ出した。
シーツが乾いた音を立て、全身の力が抜ける。
……疲れた。
腕も脚も重い。
服にはまだ、迷宮の土と鉄のような匂いが染みついていた。
端末を開く。
通知がいくつも来ている。
その中に見慣れた名前を見つけた。
『ハイネ』
え!
身体を起こした。
『九十五階おめでとー!』
ウサギが踊っているスタンプ。
画面の中で、白い耳がぴょこぴょこと跳ねている。
思わず笑った。
『ありがとう。そっちは何してる?』
既読。
『本堂で、お父さんの手伝いしてたの』
早いっ。
『ねね、明日、中華街いくよ!』
『誰と?』
送ってから、少し早かったかなと思った。
『麻子だよー』
……麻子。たしか学級委員長的な見た目のハイネの友達だったと思う。いつもハイネばかり見ていて、まともに顔を見た記憶がないんだよな。
まあいいか。
『僕も明日行くかも』
『ほんと!?』
『ばあちゃんが中華食べたいって』
『会えるかもね!』
僕はその文字をしばらく眺めた。
『絶対見つける!』
送る。
それだけなのに。
明日が少し楽しみになった。
◇
翌日。
「白。あそこですよ」
ヘルメスばあちゃんが指を差した。
「予約してあります」
「予約?」
少し前で車を降りて歩いていた僕たちは、ばあちゃんの声で一際高級そうな店の前で足を止める。
赤い提灯が軒先で揺れ、磨かれたガラス戸の向こうから、香辛料と熱い油の匂いが漂ってくる。
どう見ても、僕が普段友達と来るような店ではない。
「ばあちゃん。普通の店でよかったんだけど」
「普通のお店ですよ?」
「いや、絶対違う……」
バロンじいちゃんが隣で笑っていた。
「諦めろ。ヘルメスの普通は昔から普通じゃないからのぅ」
「……何か言いましたか?」
「あ、いや、なんでもないよな? そうだな? 白」
「はい……」
僕は二人の後ろを歩きながら、辺りを見回した。
人が多い。
休日の中華街。
通りには甘い菓子の匂いや、焼いた肉の香ばしい匂いが混ざっている。
観光客、家族連れ、獣人、エルフ、人間。いろんな人が行き交っている。
白くて長い耳を探す。人込みの中、いろんな耳が通り過ぎる。もっと上だ。白いウサギの耳。
「……」
いない、のか?
「白!」
「なに?」
「さっきから何を探しておる」
「別に」
じいちゃんがニヤッとする。
「ハイネちゃんか?」
「なんで分かるんだよ」
「分かりやすいのは良いことじゃ」
「そんなこと、ある、かな?」
ヘルメスばあちゃんまで微笑んでいる。
やめてほしい。僕を単純な人間のように思うのは。
ウェイターに案内され、店内へ入った。
扉を開けた途端、湯気と香辛料の熱気が顔に当たる。
料理は文句なく美味しかった。
箸を入れると肉がほろりと崩れ、舌に広がる濃い味と、鼻へ抜ける花椒の痺れがたまらない。
美味しかったけど、値段は見ないことにした。これはやばいだろうから。
食事の途中。
何気なくダンジョンの話になった。
「九十五まで来たなら、もうすぐですね」
ばあちゃんが言った。
「もうすぐ? 百階のこと?」
「ええ。階層をまたぐ、というのは世界を一つ超えるのと同じなのです。心してかかりなさい」
「あ、はい」
ヘルメスばあちゃんは綺麗な人だ。いつでも背筋がピンと立っていて、所作が凄く美しい。そして、凄く目が鋭い。
目力が強いと言うのだろうか。どんな嘘も建前も彼女には見抜かれてしまいそうだ。
「九十六と九十七は広いらしいからの、これで地図でも買ったらいい」
ヘルメスばあちゃんの視線と、大金をドスンと置くバロンじいちゃんに恐縮する僕。
「焦る必要はありません」
ばあちゃんが静かに茶器を置いた。
陶器が卓上に触れ、かすかな音を立てる。
「ですが――。そうですね……」
少し間があった。
「百階を越えたら、白に話してあげましょう」
「何を?」
ばあちゃんは僕を見る。
「この世界の、本当の歴史を」
「……本当の歴史?」
意味が分からなかった。
学校で歴史なら習っている。
「それって――」
ばあちゃんの顔を見て、言葉が止まった。
笑っていなかった。
ほんの一瞬。本当に、一瞬だけだった。
悲しいような、苦しいような。そんな顔をした。
助けを求めるように、じいちゃんを見る。
じいちゃんも何も言わない。
二人の視線が重なる。
店内のざわめきや食器の触れ合う音が、急に遠くなった気がした。
僕が知らない何かを、二人だけが知っている。
そう感じた。
「ばあちゃん?」
「百階を越えたら、です」
いつもの顔に戻っていた。
「今は、たくさん食べなさい」
「いや、もう腹いっぱいなんだけど」
「若いんだから入りましょう」
「そういう問題?」
じいちゃんが笑う。
話は、それで終わってしまった。
◇
店を出るころには、すっかり暗くなっていた。
中華街の赤い灯りが道を照らしている。
提灯の光が濡れた石畳に滲み、通りの上には甘い菓子と油の匂いがまだ漂っていた。
僕は歩きながら、さっきのことを考えていた。
本当の歴史。
どういう意味だろう。
端末が震えた。
ポケットの中で、短く振動している。
ちらりと画面を見た。
『ハイネ』だ!
思考が全部飛んだ。
ん、写真が一枚届いているぞ?
開く。
「……やば」
かわいい。
白い髪。白くて、ふわふわした長い耳。
画像の中で、楽しそうに笑っている。
赤い中華街の灯りを背景に、ハイネがこちらへピースしていた。
『中華街きたよー!』
僕は、思わず写真を拡大した。ハイネ。かわいい。戻して、もう一度見る。
「……ん?」
隣に麻子がいる。
麻子も笑っている。
その後ろ。
男がいた。
写真の端に切れていて、顔はほとんど写っていない。黒い服と、顎と、口元。それだけ。
男の、口元が笑っていた。
「……誰だ、コイツ」
ハイネの友達だろうか。
少しだけ、その口元を見る。
どこかで見たことが――。
無いな。
僕はすぐにハイネの顔へと視線を戻した。




