black side 1
「――そこだ」
俺の声と同時に、澪が跳んだ。猫耳がぴんと立つ。
「見えてるにゃ!」
爪の先に闇の膜を纏わせ、カエルに似た化け物の背後へ着地する。そのまま後ろ足の腱を一閃した。
悲鳴じみた咆哮が、九十八階の暗い回廊に響き渡る。
「牙狼、右から来るぞ!」
「言われなくても!」
牙狼が吠えながら突っ込む。
何かの呪文の後、彼の身体の何倍もあろうかという大きな狼の顎が現れた。それは牙狼の口の動きに追随して、化け物の首筋へ食い込んだ。
「摩耶!」
「もうやってるよ〜」
摩耶が抱えた人形――ミミの腕に、黒い針を突き刺す。同時に、化け物の右腕が不自然に膨張し、パンッと弾けた。
「よしっ、終わりだ!」
俺は魔力を込めて右手を薙いだ。足元の影が伸び、そのまま床を這った黒が、意思を持ったように化け物に迫る。それは触れる直前に実体化し、残った腕を切断した。
物理的な武器ではない。
魔法とも少し違う。俺にしか使えない。おそらく、俺自身の一部のようなものだ。
「グォォオオオ!」
化け物自身の影からも、鋭い闇の刃が無数に突き出す。黒い刃に胴体を貫かれ、巨体が崩れ落ちた。
「はい、討伐完了」
摩耶が呑気な声を上げた。
牙狼は巨大なカエルの頭に足を乗せてポーズを決めている。また、SNSに上げるのだろう。
「こんな名前も知らねーバケモン撮っても駄目だろ?」
「あれはエルダーフロッグですよ、黒さん」
柴田が言った。
「お疲れさま、ミミちゃん」
摩耶が人形の頭を撫でている。
「そいつは何もしてねえだろ」
牙狼が言う。
「したよ。見てなかったの?」
「お前が針を刺しただけじゃねえか」
「だから、それが――」
「静かに」
澪だった。猫の耳だけが、別の方向へ動いている。
「何かいる」
全員が黙った。柴田が鼻を鳴らす。
「血の臭い以外にも、何かありますね」
「どこだ?」
俺が尋ねると、澪がゆっくり振り向いた。
「後ろ――」
その瞬間だった。
「澪!」
壁際の暗闇から、巨大な腕が飛び出した。
先ほどまで壁だった場所に巨大な握りこぶしが形作られ、すごい勢いで殴りかかってきたのだ。
澪の小さな身体が宙に浮き、そのまま壁へ叩きつけられた。
ぐちゃりと音が響いた。
「――っ!」
澪が床に落ちる。壁には、身体が擦れ落ちた跡に沿って大量の血が付いている。
動かない。
「こ、こんな敵は資料になかった!」
柴田ががなる。
「とにかく殺すぞ!」
俺の影が一気に広がった。
床だけではない。
壁。
天井。
あらゆる影から刃が生え、壁から生えた巨大な腕へ一斉に収束した。
「腕だけのゴーレム?」
柴田が訝しむ。
「そんな場合じゃねぇ!」
俺と牙狼が澪へ駆け寄る。
「澪! おい!」
「どいて!」
摩耶が俺たちを退かして膝をつく。澪の腹部は赤黒く染まっていた。
手足が、あり得ない方向に曲がっている。
きれいだった顔も潰れ、歯が何本も折れてる。無残な状態だ。
「息は?」
「ある。でも――」
摩耶の顔から、いつものふざけた表情が消えた。
「中級治癒、全力でかけるから」
摩耶は本職のヒーラーではないが、治癒魔法の心得がある。俺は澪の潰れた顔を見た。その口からは、かすかに呼吸の音が聞こえる。
「頼んだぞ、摩耶」
摩耶の手から緑色の光が溢れ、澪の身体を包み込んだ。
裂けた皮膚が塞がり、血が止まる。
折れた骨が軋む音を立てながら元の位置へ戻り、抜け落ちた歯も元どおりに収まっていく。俺は黙って見守っていた。
これほどの負傷を治すには、大昔なら一握りの人間しか習得できない上級治癒魔法が必要だったらしい。
だが、エルフがこの世界にもたらした魔法が現代医学と結びついた結果、今では中級治癒魔法でも大抵の傷を治療できるようになった。
「……よし」
摩耶が息を吐く。
「傷は治った」
「澪?」
牙狼が呼ぶ。返事はない。
「おい、澪!」
頬を軽く叩く。
動かない。
「どうして起きねえんだよ」
「傷は治せても、意識までは戻せない」
摩耶が唇を噛んだ。
「ショックが大きすぎたんだと思う」
柴田が澪の横にしゃがみ込み、鼻を近づけて呼吸を確かめる。
「呼吸は安定しています。血の臭いも新しいものではありません。治癒自体は成功していると思います」
「魔力回復薬は?」
俺が尋ねた。
「あと、一本だね」
摩耶が小さく答えた。
澪に飲ませるべきか。
いや。
魔力を回復させたところで、意識が戻る保証はない。
だったら――
「悪いけど、今日はここまでにする」
俺は言った。
「え?」
牙狼が俺を見る。
「帰るぞ」
「黒、いいのか?」
「何が」
「今日、九十九階まで行くって言ってたじゃねえか」
「言ったな」
「俺はまだ動ける。お前もだろ?」
「動けるよ」
「だったら――」
「澪を早く地上へ運ぶ」
牙狼が黙った。
「ちゃんとした病院で診てもらった方がいい」
「でも、傷は治ったんだろ?」
牙狼はそう言いながら、何度も澪を見ていた。こいつだって、本当は分かっている。摩耶も俺を見ている。
「死んだら、終わりだろ」
口から勝手に言葉が漏れ始める。
「やだよ。澪とここで別れるのは」
しん、と静まり返った。
牙狼が俺を見ている。何だ、その顔は。まるで、珍しいものでも見たような。
「……黒、お前」
「何だよ」
「いや……」
摩耶がにやにやしている。
「牙狼ちゃんは途中参加だから知らないんだよ。黒は、とーっても優しいんだぞ?」
「優しくねえよ」
「あ! 照れてる」
「面倒なだけだ」
「はいはい」
「それに」
柴田が口を挟んだ。
「厳密には、『死んだら終わり』ではないんですぞ?」
全員が柴田を見る。柴田は眼鏡を押し上げた。
「蘇生魔法は実在するっ! 記録上確認されているだけでも複数の術式体系が存在しまして、最も有名なのは――」
「柴田」
摩耶が言った。
「はい?」
「今、それ必要?」
「必要でしょう。黒さんの発言には、事実と異なる部分がありますからね。ここはまさに僕に解説が委ねられたと……」
「いらねえよ」
俺が言った。
「……あ、はい」
柴田が黙る。
三秒。
「ただ、蘇生魔法には膨大な魔力が必要で、あの伝説の魔王ヨルカですら、ついぞ使用することは――」
「……柴田」
「はい」
「黙れ」
「あ、はい」
また黙る。
今度は五秒。
「ちなみに、蘇生魔法は、魔術体系上まったく――」
「お前、わざとやってんだろ!」
「ふむ。何か間違っていましたか?」
柴田は真顔だった。
摩耶が吹き出した。牙狼まで笑った。
少しだけ、張り詰めていた空気が和らいだ。俺は澪を見下ろす。
「……柴田、澪を運べるか?」
「もちろん! 僕にとっては簡単なことです!」
返事が異様に速い。しっぽもぶんぶん振っている。
柴田が澪を背負ったのを確認して、全員に聞こえるよう告げる。
「じゃあ、帰るぞ」
「本当にいいんだな?」
牙狼がもう一度尋ねる。
「しつけえな」
「だってよ。九十九階まで行けば――」
「今日は十分だ」
俺は階段脇の装置へ手を置いた。
九十八階。到達登録完了を示す光が灯る。
「これで次は、ここから始められる」
本音を言えば、今すぐ九十九階へ行きたい。
その先、百階まで。
でも。
澪を置いてまで行くほどではない。
摩耶がスマートフォンを操作しながら言った。
「ま、白くんたちは、まだ九十五階みたいだしね」
「関係ねーよ」
俺もスマートフォンを取り出した。
「あいつと競ってるわけじゃねーんだ」
画面を開く。さっき投稿した《九十八階クリア》には、すでに大量の反応がついていた。
俺はその数字を眺める。
別に自慢したかったわけではない。ただ報告しただけだ。
本当に。
コメント欄をスクロールしていると、見慣れたハイネのアイコンで指が止まった。
『ハイネ:九十八階おめでとう!』
「うおぉおおお!?」
思わず変な声が出てしまう。何と書いてあるかは分からんが、変なウサギが万歳しているスタンプが付いているぞ!
俺はしばらくそれを眺めた。疲労が飛んでいくのが分かる。
「黒、何ニヤニヤしてんの?」
摩耶が覗き込んでくる。
「してねえし」
「ねー、どうせあの子でしょ!」
「うるせえ」
スマートフォンをポケットに突っ込む。
九十九階への階段を一度だけ振り返った。
逃げるわけではない。次に来ればいい。
「あー、もう。帰るぞ」
俺は澪を背負った柴田の隣を歩きながら、ハイネへの返信を考えていた。




