幕間:三年後
夫の病は、まだ治らない。
一つの病を克服すると、別の病が現れる。新しい治療法が確立されたという報告を受けた翌月には、それまで見たこともなかった症状の患者が運び込まれてくる。
治癒術師をしていた夫は、彼らの治療の治療を行うたびに、自分も同じように感染し苦しむのだ。それを何年も繰り返している。
最初の頃、私はこれらの病は時間が解決してくれると思っていた。人間たちは短い生涯の中で、驚くほど多くの知識を積み上げてきた。医学も例外ではない。
私たちの治癒魔法と彼らの医学を組み合わせれば、いずれどんな病にも対処できるようになる。そう信じていた。
けれど、四十年以上が経っても全ての病を克服することは未だ出来なかった。クリードの身体はその度に少しずつ弱っていた。
「また難しい顔をしているな、ヘルメス」
寝台から声がした。
「あなたが難しい病気にかかっているからでしょう」
「それは申し訳ない」
クリードは笑った。昔からそうだ。私が怒っている時ほど、この人は穏やかな顔をする。
机には、エンパイアステートビルとモスクワ大学のダンジョンから持ち帰られた資源の分析結果が広がっていた。
二つのダンジョンでは、通常の魔物の討伐後に、ごくまれに特殊な資源が得られることが分かっている。私たちがこの世界へ来た時、門を開くために使用したものと同じ性質を持つ資源だった。
傾向はあるが、必ず決まった魔物から手に入るわけではない。何が、いつ、どれほど得られるかは分からなかった。
人間たちは、これをランダムドロップと呼んでいる。
ずいぶん気楽な名前をつけたものだと思う。その気まぐれな資源を集めるために、私は塔を誰でも自由に登れる場所にし、探索者組合を組織した。
人々が塔で戦う力を身につけられるよう支え、塔へと導いてきた。どれだけの人を、塔へ誘導したことか。
「本当にやるのか」
クリードが尋ねた。
「ええ」
「帰れる保証はないぞ」
「帰れる可能性はあるわ」
「それは違うだろう。門を開ける可能性があるだけだ」
私は返事をしなかった。
クリードは正しい。
私たちが地球へ来たのは、故郷を捨てたかったからではない。隕石から逃れるためだった。あの災厄さえなければ、誰も住み慣れた世界を離れようとはしなかっただろう。
けれど、避難先であるこの世界にも、別の危険があった。
人間にはありふれた病でも、私たちにはそうではない。一つを克服しても、次が現れる。
私はようやく、考え始めていた。この世界にいること自体が、私たちにとって危険なのではないかと。
「……あなたを連れて帰りたいの」
そう言うと、クリードはしばらく黙っていた。
「帰った先が、ここより安全ならいいな」
私は彼の手を握った。
その言葉が、どうしても気に入らなかった。安全な場所を見つけるために、私たちは研究を続けているのだから。
◇
一九七三年。
南アフリカ、ヨハネスブルグ。
カールトン・センターの最上階で、第一回の逆儀式が行われた。
地球側から元の世界へ門を開く。かつて私たちが行った儀式を、反対側から再現する試みだった。
集めた資源を使い、術式を起動する。接続が安定すれば、選抜した精鋭が先行して向こう側の環境を調査する。そして安全が確認できれば、帰還計画を本格的に進める。
そのはずだった。
最初の報告が届いた時、私は成功を確信した。
門が開いた。接続先には、私たちの故郷と一致する特徴が確認されたという。
ところが、次の報告はまったく違うものだった。
「見たことの無いタイプの獣人が、門から降りてきています」
「獣人?」
「はい。相当な数です。こちらの呼びかけにも、ほとんど応じません。負傷者も多数います」
私は通信機を握り直した。
「先行した者たちは?」
「一部が向こう側を確認しました。ですが……」
報告者の声が途切れた。
「何?」
「魔物がいます。非常に強力なものが、無数に」
「……私たちの世界なのでしょう?」
「地形や魔力の特徴には一致する部分があります。しかし、我々が知っている世界とは、あまりにも違います」
続いて送られてきた映像を見て、私は言葉を失った。
荒れ果てた大地。崩れた建造物。その向こうを、巨大な魔物の群れが移動していた。
先行した精鋭が撮影したものだった。彼らはすでに撤退を始めている。
「いつの世界なの……」
誰も答えられなかった。
遥かな未来なのか。遥かな過去なのか。そもそも、時間というものが門の両側で同じように流れているのかさえ、私たちには分かっていなかった。
ただ一つ確かなことがあった。あそこへ帰ることはできない。
「門から来た人々は?」
「まだ続いています。ほとんどが獣人です」
私は画面を切り替えさせた。
そこには、見慣れない顔をした人々がいた。
獣人そのものは、故郷にも存在していた。ライカンスロープや竜人、ハーピー。私たちにとって、彼らの存在は珍しいものではない。この世界にも少数だが共に移民してきたのだ。
けれど、門から現れた人々は違っていた。短い毛に覆われた顔。動物の特徴を強く残した鼻や耳。猫に似た者、犬に似た者、そして地球で見たゴリラを思わせる大柄な者までいる。
不思議なことに、その姿は故郷の獣人よりも、地球の動物たちに近かった。
彼らは何者なのだろう。同じ世界で、長い時間をかけて変化した種族なのか。それとも私たちの知らなかった人々なのか。
考えている間にも、門からは人々が降りてくる。
「ヘルメス様。指示をお願いします」
私は画面に映る人々を見た。
疲れ切った顔で、傷ついた者を支えている。小さな子を抱えている者もいた。
かつて、私たちもそうだった。
「全員、受け入れなさい」
「ですが、人数が……」
「受け入れなさい。食料と医療の手配を急いで。人間側にも協力を求めます」
「承知しました」
「先行した精鋭は全員撤退。向こう側に誰も残っていないことを確認して」
「門はどうされますか」
私はもう一度、荒れ果てた世界の映像を見た。
「閉じます」
「術式の停止だけでは、接続が残る可能性があります」
「……」
ゲートを閉じたことなど無かった。
少しだけ間を置いた。
「術式を仕掛けた最上階を爆破しなさい」
爆破とともに、門は閉じた。向こう側へ伸びていた階段がどうなったのかは、分からない。ただ、この世界への出口は失われた。
人間側には事故があったと伝えた。
◇
救出された獣人たちを巡って、エルフ社会では議論が続いた。
私たちと同じ世界から来たのだから、同胞として迎えるべきだと主張する者もいた。しかし、それは少数だった。
「彼らを我々と同じように扱うのですか」
ある会議で、そう尋ねられた。
「同じように、とは?」
「彼らは獣人です。エルフではありません」
「見れば分かります」
「ならば、なぜそこまで保護する必要があるのです」
私はその男を見た。
故郷では、エルフ以外の亜人がひどい扱いを受けてきた歴史がある。私たちが地球へ移住しても、その考え方まで消えたわけではなかった。
「私たちが地球へ来た時、人間たちは何をしましたか」
男は答えなかった。
「あなたは、私たちが人間ではないという理由で、追い返されるべきだったと思いますか」
「それとこれとは……」
「何が違うというのですか?」
結局、その日の会議では結論が出なかった。
獣人たちの受け入れは進んだが、彼らが私たちと同じ社会の一員として認められるまでには、まだ多くの問題が残っていた。
私は会議を終えると、家へ帰った。
子どもたちは眠っていた。ゴールドと、アロージア。寝顔を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「おかえり」
クリードは寝台で本を読んでいた。
「また遅くなったわ」
「聞いたよ。ずいぶん揉めたそうだな」
「ええ」
「獣人たちは?」
「保護できたわ。でも、これからが大変でしょうね」
「そうだろうな」
反発するエルフの声は人間にも届くかもしれない。
それに事故とした件で、同時に現れた彼らのことを人間が不審に思うのも無理は無かった。
私は彼の隣に腰を下ろした。
「門は、失敗だった」
「そうか?」
「帰れなかったもの」
「だが、帰る道があることは分かった」
私は顔を上げた。
「……そうね」
「それに、助かった人たちもいる」
クリードは本を閉じた。
「お前が門を開かなければ、彼らはどうなっていたんだろうな」
私は答えなかった。
助けられたことは嬉しい。けれど、私はあの人たちを救うために門を開いたわけではない。
目の前にいる夫を救いたかったのだ。
そのことが、少しだけ苦しかった。
◇
三年後。
一九七六年、カナダ。
CNタワーで、二度目の逆儀式が行われた。
前回の失敗を受け、私たちは接続先の年代について研究を重ねていた。
目指すのは、隕石が落ちる前の遥かな過去、あるいは災厄が去った後の遠い未来。同じ世界であっても、年代が違えば環境はまったく異なる。
今度こそ、安全な時代へ。そう願っていた。
しかし、結果は再び失敗だった。
門の向こうでは、大地が崩れていた。地面には巨大な亀裂が走り、遠方では山が崩れている。空には噴煙が広がり、地鳴りが絶えず響いていた。
そこは、地殻変動によって崩壊寸前となった世界だった。そして、またしても獣人たちが門から逃れてきた。数千人もだ。
「……またなのですか」
報告を聞いた私は、思わずそう呟いていた。
今回も彼らを保護した。それ以外の選択肢など、考えられなかった。門は、前回と同じように最上部ごと壊して閉じた。
けれど、二度目の失敗は、私に別の疑問を抱かせた。そもそも、安全な時代など存在するのだろうか。
私は地球の歴史を調べ直した。
この星でも、生命は何度も大量絶滅を経験している。ある時代には海の生物が激減し、ある時代には巨大な生物たちが姿を消した。地球の環境は長い時間の中で変化を続け、繁栄していた生命が突然生きられなくなることもあった。
それでも生命は生き延び、形を変え、また繁栄してきた。私たちが暮らしている今の地球も、永遠にこの姿であり続けるわけではない。
ならば、故郷も同じなのではないか。
隕石から逃れるために地球へ来た。地球で病に苦しみ、帰還を試みた。しかし、別の時代へ門を開いても、そこには別の災厄が待っていた。
年代を指定する技術そのものが不完全であることも問題だった。仮に指定できたとして、その時代が安全だと、どうやって確かめればいいのだろう。
私は机に広げた資料を見つめた。
そして、ふと思った。
新しい門を開く必要が、本当にあるのだろうか。
私たちは、すでに門を通ってきている。あの日、旧世界で開いた三つの門。
地球で四十年以上を過ごした今、あの門を逆にたどれば、いったいどこへ行くのだろう。元の世界の同じ時代なのか。四十年以上が経過した世界なのか。それとも、まったく別の時間へつながるのか。
分からない。けれど、少なくとも新しい門を開く実験とは違う方法を試すことができる。
エンパイアステートビルは、すでに一万階を超えているとも言われていた。そこを攻略するのは現実的ではない。モスクワ大学本館は、この冷戦のさなかに、私たちが表立って登れる場所ではない。
ならば、残る門は。
私は第三陣の記録を開いた。彼らはいつか、まだどこにも建っていない新しい塔へ降りてくる。
その門が開いた時、私たちはそこを登る。今度は、誰かが作った新しい道ではない。私たち自身が通ってきた道を、逆にたどるのだ。
「もう、やめてもいいんじゃないか」
クリードが言った。
私は彼の顔を見た。
「何を?」
「俺を治すために、世界を探すことだ」
「まだ方法はあるわ」
「そりゃあるかもしれないが。……ヘルメスを止めるなんて無理だな」
彼は笑った。以前よりも痩せていた。
治療は続いている。新しい薬も試している。それでも現在の病の進行を完全に止めることはできなかった。
「俺も、一つ決めたことがある」
「何?」
「次の薬を試したい」
「まだ承認されていないわ」
「だからこそ、結果が必要なんだろう」
私は黙った。
「今までの薬もそうだ。効いたものもあれば、効かなかったものもある。どんな副作用が出たのか、どのくらい続いたのか。全部、研究に使ってほしい」
「危険よ」
「今のままでも危険だ」
クリードは静かに答えた。
「俺だけじゃない。ほかにも苦しんでいる者がいる。俺の身体で何か分かるなら、それでいい」
「……あなたは、患者なのよ」
「そうだな」
彼は少し考えてから続けた。
「だから、患者にしか分からないこともあるだろう」
私は彼の手を握った。
「それから、もう一つ」
嫌な予感がした。
「俺が死んだら、身体を調べてほしい」
「クリード」
「最後まで聞いてくれ」
彼は私の手を握り返した。
「エルフは、死後に身体を切り裂かれると、魂まで引き裂かれると言うだろう」
古くからの言い伝えだった。
だから基本的に大樹の近くに土葬される。この世界でもそうしてきた。
私たちの社会では死者の身体を解剖することが強く忌避されてきた。治癒魔法では分からない病の原因を探ろうにも、研究者たちは十分な検体を得られずにいた。
「俺は、あれを信じていない」
「でしょうね」
「だったら、いいじゃないか」
「よくありません!」
思ったよりも大きな声が出た。
クリードは驚いた顔をした。私は俯いた。
「……そんな話を、今しないで」
「ヘルメス」
「あなたは、まだ生きているでしょう」
「だから、今決めておきたいんだ」
私は何も言えなかった。
この人は昔からそうだった。誰も疑わないことを疑い、誰もやろうとしないことをやろうとする。私が当たり前だと思っていたことにも、平気で首を傾げる。
そんな彼だから、私は一緒になったのだ。
それなのに。今だけは、その性格が恨めしかった。
「お前は、俺を救おうとしてくれている」
クリードは言った。
「俺も、お前を、誰かを救いたいんだよ」
私は顔を上げられなかった。
「……勝手な人ね」
「お互い様だろう」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
笑った途端、涙が落ちた。
クリードは何も言わず、私の手を握っていた。
机の上には、第三陣の到着を待つ計画書が置かれている。
私はまだ、諦めるつもりはなかった。
たとえどれほど高い塔でも。たとえ、その先に何が待っていようとも。
今度こそ、帰る道を見つけてみせる。




