white side 16
ヒリヒリする。
最初に感じたのは、痛みだった。手の甲から指先、足首まで、何かに刺されたというより、皮膚の表面をじわじわと焼かれているように痛い。
「……痛っ」
目を開けると、辺りは暗かった。
完全な暗闇ではない。少し離れたところに、赤黒い壁のようなものが見える。それは生き物みたいにゆっくり動いていて、辺りには腐った肉と酸っぱい薬品を混ぜたような臭いが充満していた。息を吸っただけで吐きそうになる。
「何、ここ……」
身体を起こそうと左手をついた瞬間、ぬるりと手のひらが液体へ沈んだ。
「うわっ!」
慌てて引き上げると、皮膚が赤くなっている。足元にも浅い水たまりのような液体が溜まり、鎧の隙間へ入り込んだ場所だけが焼けるように痛んだ。
酸。そう思った瞬間、背中が冷えた。
腰へ手をやると、鞘に収まったラディッシュの柄に触れた。最後に握っていたはずの剣が、いつの間にか鞘へ戻っている。誰が収めてくれたのだろう。
でも、今はそれどころじゃない。
赤黒い壁。ぶよぶよと動く床。身体の周囲に溜まった液体。そして、この臭い。全部を一つにつなげた途端、嫌な答えが浮かんだ。
「……まさか」
胃袋。僕は、何かの胃の中にいる。
「嘘でしょ……」
百階での記憶を探した。ゴーレムと戦った。黒がいた。最後にラディッシュを受け取り、ゴーレムを倒した。そこまでは覚えている。その先だけが、ない。
自分の身体を見ると、黒のものだった手は元へ戻っていた。白い肌に銀色の手甲。頬には金色の髪が落ちている。
僕の身体だ。
いつ戻ったのか。どうして戻ったのか。考えたいことはいくらでもあったけれど、今は後だ。僕は何かに丸呑みにされて、その胃の中にいる。
「まず、出ないと……」
ラディッシュを抜いて立ち上がろうとした、その瞬間。
世界がひっくり返った。
「うわっ!?」
胃袋そのものが大きく揺れ、身体ごと柔らかい壁へ叩きつけられる。直後、頭上から大量の液体が降ってきた。
最初は胃液かと思った。でも違う。赤い。
血だ。
滝みたいな量の血が流れ込み、足元の液体と混ざっていく。
「何!?」
また大きく揺れた。外から何かがぶつかっている。最初はこの生き物が暴れているのかと思ったけれど、揺れ方がおかしい。
何かが、これを食っている。
そう気づいた時、目の前の赤黒い壁が裂けた。肉が大きく開き、その向こうから光が差し込む。
青い空が見えた。
「空……!」
考えるより先に走った。裂けた胃壁の間を、血と肉を踏みながら進む。足元は滑り、何度も転びそうになった。それでもラディッシュだけは離さず、さらに広がっていく傷口へ向かう。
外からまた何かが肉を引き裂き、穴が一気に広がった。僕はそこへ飛び込み、巨大な裂け目から外へ転がり出た。
◇
湿った土へ身体を打ちつけた。
土と植物の匂いがする。まだ血の臭いも混ざっているけれど、さっきまでいた場所とは何もかもが違った。
助かった。そう思いかけて振り返り、そこで動けなくなった。
森の中に、大蛇が横たわっている。そうとしか呼べなかった。
太さだけでも家なんて比べものにならない。身体は巨大な木々の向こうまで続き、どこからが尾なのかさえ見えない。百メートル、いや、もっとあるかもしれない。
僕は、あれに飲まれていた。
「……え」
その大蛇の胴体へ、巨大な顎が食らいついた。一頭じゃない。何頭もいる。
二本脚に太い尾。大きな頭と、鋸みたいに並んだ牙。ティラノサウルスに似ているけれど、学校で見た復元図よりずっと大きかった。十五メートルくらいはある。
そんな怪物たちが群れになって、百メートルを超える大蛇を食っていた。肉が引き裂かれるたびに大蛇の身体が痙攣し、地面まで揺れる。
そのうちの一頭が、食べるのをやめた。ゆっくりと顔を上げる。口の周りは真っ赤だった。
目が合った。
「……」
走った。
◇
どこをどう走ったのか分からない。
巨大な木の根を飛び越え、泥に足を取られ、岩を回り込みながら、とにかく前へ進んだ。葉っぱ一枚が僕の身体より大きく、木の幹は横浜にあるビルの柱みたいに太い。
後ろで何かが吠えると、空気まで震えた。振り返らない。転んでも、すぐに起きる。
恐怖で頭の中がいっぱいになりそうになったところで、何度も叩き込まれた言葉を思い出した。
「一個ずつ……!」
まず逃げる。次に隠れる。それから考える。九十六階で死にかけてから、何度も練習してきた。
全部を一度に考えるな。逃げるのも攻略。勝てないなら、逃げればいい。
今は戦わない。絶対に。
太い木の根の隙間を見つけ、身体を滑り込ませた。ほとんど同時に地面が大きく揺れ、巨大な脚がすぐ近くを通り過ぎる。頭上から土が落ちてきた。
僕はラディッシュを胸元へ抱え、息を止める。
影が過ぎていった。
どれくらい待ったのか分からない。一分かもしれないし、もっと長かったかもしれない。ようやく足音と振動が遠ざかり、僕は止めていた息を吐いた。
「……無理」
身体が震えていた。
百階で戦ったゴーレムより、さっきの蛇の方が大きかった。その蛇が、食われていた。
何だよ、ここ。どこなんだよ。
「みんな……」
ユイ、シエナ、ドラン、トウヤ。父さん、母さん、じいちゃん、ばあちゃん。ハイネ。
名前を思い浮かべても、誰もいない。知らない森の中に、僕一人。
そう思った瞬間、胸の奥が急に冷たくなった。
『一人じゃねえよ』
「え?」
聞き覚えのある声だった。
右手を見る。泥と血で汚れながらも、抜いてからずっと握ったままだった剣。
「……ラディッシュ?」
『他に誰がいるんだよ』
「ラディッシュ!」
本気で抱きしめそうになった。
『やめろ。気持ち悪い』
「いた……」
『いるよ』
「よかった……」
『俺がよくねえよ。何だよ、ここ』
「分かんない」
『あの蛇見たか?』
「見た」
『あれ食ってた奴も?』
「見た」
少しだけ沈黙があった。
『……無理だろ、あんなの』
「剣なのに諦めるの早くない?」
『剣だから分かるんだよ。斬れる大きさじゃねえ』
思わず笑った。こんな場所に来てから、初めてだった。ほんの少しだけど、ちゃんと笑えた。
僕はラディッシュを握り直す。
「じゃあ、逃げよう」
『賛成』
◇
それからは、逃げて、隠れて、また逃げた。
戦える相手を探そうなんて考えは、すぐに捨てた。何が強くて何が弱いのか、その基準すら分からない。
小さく見えた生き物が、木の幹を一撃で砕いた。草を食べていた四足の生き物は、近づいてきた巨大な捕食者を角だけで吹き飛ばした。鳥のような影が空を横切っただけで、森中の生き物が一斉に姿を隠した。その影は翼を広げると、建物みたいに大きかった。
『白』
「何」
『ここ、全部駄目だ』
「僕もそう思う」
『戦うなよ』
「分かってる」
『本当に分かってる?』
「分かってるって」
食べられそうなものを見つけても、簡単には口にできなかった。水だって、そのまま飲むのは怖い。
安全な場所を探し、水を確保する。食べられそうなものを少しずつ試して、何かに見つからないよう移動し、眠れる場所を探す。
一個ずつ。それだけを考えた。
二日目までに、どうにか最低限の水と、ほんの少しの食べ物は確保できた。それでも、一日生き延びるだけで精一杯だった。
三日目になって、ようやく少し奥行きのある岩穴を見つけた。入り口は狭く、少なくとも、これまで見た巨大生物は入ってこられそうにない。それだけで十分だった。
しばらくは、ここを拠点にする。そう決めた。
◇
通信機は、何度確認しても圏外だった。
電源は入るし、壊れている様子もない。それでも地上の通信網を一つも拾わない。
「……当たり前か」
そもそも、ここがどこなのかさえ分からない。まだランドマークタワーの中なのか。それとも、『狭間』の先にあるまったく別の場所なのか。階数表示もなければ、チェックポイントも見つからない。
通信機を握ったまま考えているうちに、学校で習った非常通信を思い出した。
ピンメッセージ。
普通の通信網を使えない場所からでも、魔力を使って特定の相手へ短い情報だけを飛ばす方法で、距離が離れるほど必要になる魔力も大きくなる。授業では先生が、実際に使う機会はほとんどありません、と言っていた。
「……あるじゃん」
『何が』
「連絡する方法」
『できんのか?』
「分かんない」
通信機を操作して、送り先にばあちゃんの名前を選ぶ。文章は短い方がいい。
《ばあちゃん。僕、生きてる。場所は分からない。必ず帰る。》
送信。
魔力を流した瞬間、身体の中から何かを根こそぎ引き抜かれた。
「っ……!」
膝が落ちる。それでも通信機には、まだ送信中と表示されていた。
「何これ……!」
『白!』
「大丈夫……!」
大丈夫じゃない。百階で魔力をほとんど使い切った時に近いのに、表示はまだ少ししか進んでいない。
止めるわけにはいかなかった。歯を食いしばって魔力を送り続ける。
遠い。ありえないくらい遠い。
短い文章を一つ送るだけで、身体中の魔力が持っていかれる。それだけで、今いる場所がどれほど遠いのか分かる気がした。
やがて、表示が切り替わった。
送信完了。
「……届いた」
その場へ座り込む。息が荒く、手も震えている。
『馬鹿。こんなの毎回やったら死ぬぞ』
「うん」
『うんじゃねえ』
「でも」
通信機を見る。
届いた。ばあちゃんへ、僕が生きていることを伝えられた。その事実だけで、切れていた世界と一本だけ細い糸がつながったような気がした。
「二、三日に一回」
『は?』
「それくらいなら、魔力戻せると思う」
『もっと空けろ』
「心配するから」
『お前が死んだ方が心配するだろ』
「それはそうだけど」
『じゃあ寝ろ』
「はいはい」
通信機を胸の上へ置く。
返事が来るかどうかは分からない。こっちから送れることと、向こうから受け取れることが同じなのかも分からない。
それでも、また送るつもりだった。生きている。それだけでも伝えたい。
◇
夜。岩穴の奥で小さな明かりだけをつけ、僕は壁へ背中を預けていた。
森の方から、遠く何かの鳴き声が聞こえてくる。低い音も、高い音もある。時々、何か巨大なものが歩いているのか、地面を通して震えまで届いた。ここへ来てから、静かな夜なんて一度もない。
ラディッシュを膝の上へ置く。
『一人ぼっちだな』
「お前いるじゃん」
『剣を一人に数えるなよ』
「自分で一人じゃないって言ったくせに」
『そうだったっけ』
「言ったよ」
少し笑った。ラディッシュはしばらく黙っていたが、やがて言った。
『でもさ。誰も助けに来れねえだろ』
返事ができなかった。
『場所も分かんねえ。通信もまともにできねえ。外にいるのは、俺らじゃ勝てねえ奴ばっか』
「……うん」
『未来、真っ暗だな』
嫌な言い方だったけれど、否定できなかった。
岩穴の入り口へ目を向ける。その先には、本当に真っ暗な森が広がっている。どこへ行けばいいのかも、ここが何階なのかも、地上へ帰れるのかも分からない。僕自身が知らないのだから、助けに来る側にはもっと分からないだろう。
「でも」
膝の上のラディッシュを見る。
「お前がいる」
『まあな』
「それに――」
もう一人。そう言おうとして、口が止まった。
誰かの顔が浮かんだわけじゃない。そもそも、その顔を知らない。声だって、まともに聞いたことがない。それでも、その存在だけははっきり浮かんだ。
「黒……」
『黒?』
「うん」
百階。見えなかった。でも、確かにいた。僕の身体で戦って、反対側からゴーレムを崩していた。そして僕も、黒の身体で戦った。
「ラディッシュは、会ったんだよね。黒に」
『会ったっつうか、握られたんだよ。お前の手で』
「どんな奴だった?」
『口が悪い。剣は素人。それと、俺を投げやがった』
「投げたんだ……」
『止める暇もなかったぜ』
「でも、それで僕に届いた」
『……まあな』
ラディッシュは少し黙ってから、声を落とした。
『あいつの魔力、お前のとは全然違ったぞ』
「違うって?」
『重くて、冷てえ。呪いとか、怨みとか、そういうもんがぎっしり詰まってる。俺の中を通るたび、知らねえ誰かの声が混ざってた』
背中が少し冷えた。百階で見た、あの黒い刃を思い出す。
『けどな、それだけじゃねえんだ』
「え?」
『もっと底の方に、妙なもんがあった。何て言やいいんだ。星も何もねえ、でかい空みたいなやつだ。全部が始まる前からそこにある感じの』
「……宇宙、みたいな?」
『ああ、それだ。その根っこみてえなやつ。何であんなもんが人間の中にあるのかは、俺にも分からねえ』
「そっか」
『好みじゃねえけどな。俺はお前の魔力の方がいい』
それきり、ラディッシュは黙った。
呪いや怨嗟。それと、宇宙の根源のようなもの。
怖いとは思わなかった。ただ、黒のことをもっと知りたいと思った。
顔を見たことはない。まともに言葉を交わしたこともない。それなのに、黒のことを考えた瞬間、頭の奥に自分のものではない何かが引っかかった。
「……何だ?」
目を閉じる。何かを思い出しかけている。でも、自分の記憶じゃない。
どこかで、女が怒鳴っている。何を言っているのかまでは分からない。ただ、その声だけを僕は知っていた。聞いたことなんてないはずなのに。
「何だ……これ」
胸の奥がざわついた。思い出そうとしたわけじゃない。それなのに、そこに記憶があることだけは、はっきり分かる。
僕のものじゃない。黒のものだ。
「黒……キミは……」
ラディッシュを握る。
さっきまで、自分の未来が真っ暗だと思っていた。帰れるかどうかも分からない場所で、一人きりになったと思っていた。
でも、その時。もっと昔から続いている、誰かの記憶が僕の中にあることに気づいた。
僕は息を止めた。
黒が生まれ落ちた、その瞬間を。
僕は知っている。




