black side 15
暗い。水の底にいるみたいだった。
遠くで、女の声が二つしている。
「お母さん。他の人間は全て下がらせたわ」
「鑑定魔法の存在は、秘匿することになっていますからね」
何かが、額のあたりを撫でていった。手じゃない。もっと薄い、光みたいなものだ。
「……名前は、寺田黒」
「やっぱり?」
「ええ。入れ替わったままなら、山西白と出るかと思ったのですが」
何の話だ。言葉は聞こえるのに、意味が入ってこない。
「闇魔法の値が、異常です。こんな高さは、私たちの世界でも見たことがありません」
「そんなに?」
「それに、影に関わる技能がいくつも。……どれも、知らないものばかりです」
少し、間があった。
「光は、どこにもありません。この子は、白ではありませんね」
白。その名前だけが、どこかに引っかかった。
目が開いた。
白い天井。その手前に、長い耳をした女の横顔があった。
ばあちゃん。
喉まで出かかった言葉を、止めた。
何だ、今の。知らない。誰だ。いや、この顔は……。
続きを考える前に、瞼が落ちてきた。
「ば」
漏れたのは、それだけだった。
二つの顔が、弾かれたようにこっちを向く。何かを待っている顔だった。
何をだよ。そう思ったところで、また暗くなった。
◇
重い。
最初に思ったのは、それだった。胸の上に何かが乗っていて、息がしづらい。少し身体を動かすと、すぐ近くで椅子の脚が床を擦る音がした。それまで小さく聞こえていた話し声が、一斉に止まる。
目を開けた。
白い天井の、知らない部屋。病院だと分かるまで、少しかかった。
窓の向こうには夜のみなとみらいが見えている。いつも見ている街なのに、寝たまま眺めると妙に遠かった。
それより、人が多い。多すぎる。
ベッドの周りには摩耶、牙狼、澪、柴田。その後ろには、百階で見た白の仲間たちがいる。さらに金髪のエルフ、人間の男、ドワーフ、老人。ヘルメスまでいた。
壁際には、看護師の服を着たハイネもいた。そういえばここは、あいつの学校の隣にある病院だ。実習で入っていると、前に聞いた。
全員が俺を見ている。いや、見ているというより、待っていた。
誰も喋らない。摩耶まで黙っている。シエナだけが、俺ではなくヘルメスを見ていた。ヘルメスは小さく首を振る。
何だよ。気持ち悪い。
もう一度身体を動かそうとして、ようやく胸の上の重さの正体が分かった。
摩耶だ。ベッドへ突っ伏すようにして、俺の身体へ半分乗っている。目を覚ました俺を見ているくせに、退こうともしない。
部屋中が静まり返った中で、誰かが小さく言った。
「……どっち?」
意味が分からなかった。だから、一番気になっていることを言った。
「おい、摩耶重いんだよ!」
一秒、誰も動かなかった。
「黒ちゃん!」
次の瞬間、摩耶が飛びついてきた。
「重いって言ってんだろ!」
「黒だ! 黒ちゃんだ!」
「やっぱ黒じゃねえか!」
牙狼が笑う。澪の耳がぴんと立った。
「黒にゃ!」
柴田まで眼鏡を押し上げながら、大きく息を吐いている。
「その言い方、その態度、その第一声! 間違いありません、黒さんです!」
「何だよ、それ」
「よかったぁ……」
摩耶が俺の肩へ顔を押しつけた。
痛い。でも、生きてる。
摩耶がいる。牙狼も、澪も、柴田もいる。四人とも。
「……お前ら、生きてんじゃん」
「生きてるよ」
摩耶が顔を上げた。
「黒ちゃんもね」
「そっか」
それだけ言って、少し笑った。よかった。本当に。
壁際のハイネと目が合った。いつもならよく喋る奴が、今日は一歩も動かない。ウサギの耳が、両方とも寝ていた。
「約束、守ってくれたね」
それだけ言って、ハイネは笑おうとした。うまくいっていなかった。
「……ああ」
しばらくして、部屋の空気が、こいつらのものだけじゃないことに気づいた。
白の仲間たちは俺を見ていた。安心したような、それでも安心しきれないような妙な顔をしている。その後ろにいる連中も同じだった。摩耶たちは笑っているのに、他は誰も笑っていない。
「何だよ」
俺が言うと、柴田が少し困った顔をした。
「黒さん。覚えていますか? 百階で何があったか」
「ああ」
そこまで言われて、ようやく自分の身体を見る。
手。腕。肩へ落ちている黒い髪。身体の重さも、腕の長さも、全部知っている。
俺の身体だ。
「……戻ってる」
部屋の何人かが息を呑んだ。
「やっぱり」
ユイが呟く。俺は自分の手を見たまま言った。
「百階で、俺は白の身体にいた」
誰も口を挟まなかった。
「最初は意味分かんなかったけど、あいつの剣持って、あいつの身体で動いてた。魔力は俺のだった」
白の仲間たちが互いを見る。
「白も」
ユイが言った。
「黒の身体で私たちのところに来た。自分は白だって言った」
「だろうな」
「黒さんには、白が見えていましたか?」
柴田に聞かれ、首を振った。
「見えてねえ。何かいる感じはした。向こうの四人の近くに、もう一人いるのも何となく分かった。でも、見ようとするといなかった」
百階。崩れたゴーレム。反対側で動いていた四人。その間にいたはずなのに、俺には見えなかった一人。
「たぶん、あれが白だった」
シエナがゆっくり頷いた。
「白も、同じようなことを言ってた」
「じゃあ、本当に……」
牙狼が俺と白の仲間を交互に見る。
「入れ替わってたのか」
「そうだよ」
少なくとも、俺の中ではそれ以外に説明のしようがなかった。
「で」
部屋を見回す。
「白は?」
誰も答えなかった。さっきまで少し緩んでいた空気が、また固まる。
ユイは俯き、シエナは口を結んだまま。後ろにいる連中も、誰も俺を見ようとしない。
嫌な感じがした。
「おい」
もう一度聞く。
「白はどこだよ」
摩耶が俺の袖を掴んだ。
「黒ちゃん」
「何」
「白くんの身体……『狭間』に落ちた」
一瞬、意味が入ってこなかった。
「は?」
「百階から帰る途中です」
柴田が続けた。
「階段を降りている時に、突進型の魔物がまた出ました。白さんの身体が担架から落ちて、狭間へ……」
「待て」
自分の身体を見る。
白の身体には、その時、俺がいたはずだ。少なくとも、意識を失うまでは。なのに、今は俺がここにいる。
「どうなってんだよ」
「分かりません」
柴田が答えた。
「黒さんが目覚めた今、少なくとも中身は元へ戻ったように見えます。でも、白さんがどうなったかは……」
「狭間は転送だろ」
「はい」
「死んだって決まってねえだろ」
強く言った。誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。
ユイがすぐに頷く。
「うん」
それでも、声は震えていた。
そこで初めて、後ろにいた金髪のエルフをちゃんと見た。
アロージア。前に定食屋で見た、白の母親だ。あの時は、ただ白の話をしていた女だった。今は両手を強く握り締めて、何度泣いたのか分からない顔をしている。
その隣には陽介。少し後ろにはヘルメス、バロン、カンタ。白の仲間もいる。ユイ、シエナ、ドラン、トウヤ。
壁際のハイネは、床を見ていた。俺が戻ったことを喜んで、それでも笑えずにいる。耳が寝ている理由が、やっと分かった。あいつは、白を待っている。
みんな生きて帰ってきた。百階の階層支配者も倒した。なのに、誰も喜んでいない。
白が、一人いないから。
胸の奥が痛んだ。急に、何の前触れもなく。
「……何だよ」
呼吸がおかしい。何でだ。俺は白とまともに話したことすらない。顔だって、自分の目では見ていない。
なのに、アロージアが唇を噛んだのを見た瞬間、頬を何かが伝った。
「……は?」
触る。濡れている。
涙だった。
もう一つ落ちる。
「黒ちゃん?」
摩耶が変な顔をしていた。牙狼も、澪も、柴田も俺を見ている。
俺が泣いているのが、そんなに珍しいのか。いや、珍しいな。
「何見てんだよ」
「いや……」
牙狼が頭を掻く。
「お前、白とそんな仲良かったっけ」
「会ってねえよ」
「だよな」
「黒ちゃん……」
「何だよ」
摩耶は少し考えてから、笑った。
「優しいからね」
「は?」
「黒ちゃんは、こういうとこ優しいんだよ」
牙狼まで勝手に納得したように頷く。澪も続いた。
「優しいにゃ」
「違うし」
言い返した。でも、涙は止まらなかった。
何で泣いているのか、俺にも分からなかった。
◇
その日は、もう休めと言われた。
身体の傷は治療されているらしいが、魔力も体力もほとんど空になっている。しばらく動くなと医者にも言われた。いつもなら無視する。今日は、素直に寝ることにした。
摩耶たちも、白の仲間たちも、白の家族も、一度帰ることになった。
最後まで残っていたのは、アロージアとヘルメスだった。二人とも何か言おうとしていた。でも、結局何も言わなかった。
たぶん、俺に言うことじゃない。二人が欲しいのは、白からの言葉だ。
ドアへ向かう二人の背中を見ていると、また胸の奥が痛んだ。理由は分からない。なのに、口が勝手に動いた。
「……ごめん」
二人が止まった。アロージアが振り返る。ヘルメスも。
俺自身、何を謝ったのか分からなかった。白を助けられなかったことか。白の身体を使ったことか。白の代わりに俺だけここへ戻ってきたことか。
分からない。
声は間違いなく俺の声だった。低くて、白とは全然違う。それなのに、今の言葉が、俺一人のものじゃないような気がした。
アロージアは泣きそうな顔で、それでもほんの少し笑った。
「あなたが謝ることじゃないわ」
そう言って、今度こそ部屋を出る。
ヘルメスは何も言わなかった。ただ、ドアが閉まる直前、一度だけ俺を見た。
◇
夜、目を覚ました。いや、ずっと寝ていなかったのかもしれない。
部屋には俺しかいない。窓の外では、みなとみらいの灯りが光っていた。身体は重く、動く気にもならない。
ずっと昼間のことを考えていた。白の家族。白の仲間。泣いた俺。
何で、あんなに苦しかった。
目を閉じる。
その時、知らない部屋が浮かんだ。
山手の家だ。俺は行ったことがない。なのに、知っている。
朝の光が入る窓。抱き上げられる感覚。金色の髪が頬に触れる。嬉しそうに笑う女の顔。
アロージア。
次に男の声がする。陽介。大きな手。それから、ヘルメス、バロン、カンタ。
知らないはずなのに、名前より先に、その人たちを知っていた。
違う。知っているんじゃない。
覚えている。
「……何だ、これ」
目を開ける。病室の、見慣れない白い天井。でも、目を閉じるとまた出てくる。
白が子供の頃に見ていたもの。聞いていたもの。感じていたもの。
誰かが名前を呼ぶ。白。そう呼ばれるたび、胸の奥が安心する。
帰れば、誰かがいる。失敗すれば叱られる。怪我をすれば心配される。帰ってこなければ探される。
死にかければ、泣く奴がいる。
「……あ」
少しずつ分かってきた。
百階で入れ替わった時から、たぶん、ずっとあった。戦っている間は、そんなことを考える余裕がなかっただけだ。自分の記憶みたいに、頭の奥へ混ざっていた。
白の記憶。俺のじゃない。なのに、思い出せる。一つ、また一つ、家族の顔が浮かぶ。
その中に、ハイネもいた。
俺の知っているハイネじゃない。白が見てきたハイネだ。画面に名前が出るだけで、何をしていても手が止まる。ウサギの耳が揺れるのを見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
あいつ、こんなにか。
白には、生まれた時から、帰る場所がある。帰ってくることを、当たり前みたいに待っている奴らがいる。白が一人いなくなっただけで、あれだけの人間が、あんな顔をする。
昼間、アロージアを見た瞬間に胸が痛くなった理由が、ようやく分かった。
あれは、俺が想像した悲しみじゃない。白がずっと知っていた人だった。ずっと見てきた顔だった。ずっと、愛されてきた人たちだった。
「……そっか」
声が震えた。また涙が出た。今度は、理由が分かった。
白は、ずっとこんな中で生きてきたのか。
こんなに、愛されて。
こんなに、愛して。
俺は暗い病室で一人、白の家族の記憶を見ながら、しばらく泣いた。




