black side ? 16
目を閉じるたび、白の記憶は増えていった。
順番はばらばらだった。山手の家の朝。誰かの背中。
食卓の匂い。どれも俺の知らない場所で、俺の知らない温度をしている。
その中に一つだけ、白本人が覚えているはずのないものが混ざっていた。
車の中で、男が慌てている。陽介だ。昼間、アロージアの隣に立っていた白の父親。今よりずっと若い。
白が生まれた日のことを。
俺は、思い出してしまった。
◇
スマホを落とした。
「ああっ!!」
シートの隙間に吸い込まれていく。手を突っ込む。届かない。陽介はシートベルトを外そうとして、外し方を一瞬忘れる。
「お客さん、大丈夫ですか」
Uberの運転手が、ミラー越しに彼を見ている。疲れ顔の中年の男だ。まるでキツネのような耳をしている。変わった耳だな。陽介は考えようとして、考えるのをやめる。それどころではない!
「すみません、妻が、その、産まれそうで」
「さっきも聞きましたよ。それで急いでいるんですよね」
「はい」
「でもシートベルトは外さないでくださいね」
「あ、はい」
陽介はシートベルトを外していた手を戻した。スマホをつま先でたぐり寄せようとするがうまくいかない。止まってから拾えばいいか。しばらくは電話は来ない。来ないはずだ。
妻からの電話は既に来ていた。「これから分娩室に入る。頑張る」と。「病院に向かってる」と返した。あとは着くだけだ。
横浜の街が窓の外を流れていく。みなとみらいの観覧車。山下公園の樹々。以前在った東京ディズニーランドで売っていそうな耳をした子どもが、人間の子どもと手を繋いで歩いている。陽介はそれを見て、少し泣きそうになる。あの中に、もうすぐ自分の子どもが混じるのだ。
「お子さん、初めてですか」
「はい」
「男の子? 女の子?」
「男の子です。ただ、嫁が、その、美人でして。もしかしたら女の子に間違えられたりなんて」
「いいですね」
運転手はそれだけ言って、信号で止まった。
陽介はその「いいですね」が、どういう「いいですね」なのか、後で何度も思い出すことになる。社交辞令だったのか、本当にそう思ったのか。でも今は分からない。今はとにかく病院だ。
「あの、急いでもらえますか」
「もう急いでます。信号、見えますよね」
「すみません」
「謝らないでください」
赤信号。陽介は膝の上で手を組んだり離したりしている。組んだり離したり。組んだり離したり……。運転手はミラー越しにそれを見ている。
「お父さん」
「はい」
「深呼吸してください」
「はい」
陽介は深呼吸をした。一回。二回。三回目で少し落ち着いた。落ち着いてから、自分が落ち着いていなかったことに気づく。
信号が青になる。車が動き出す。
もう一度、窓の外を見る。横浜の街。天を突くランドマークタワー。海と樹々。人、人、人。この街に、もうすぐ自分とあの人の子どもが産まれる。
この街が、この国が、この世界が。
すべての人が幸せに満ちている。陽介の目には、そのすべてが輝いて見えていた。ここにあの子が産まれるんだ。
「……いいですね」
さっきの運転手の言葉を、自分の中でもう一度繰り返した。
今度は、自分でも本当にそう思った。
◇
病院に着いた。
陽介は走った。受付で名前を伝えるのに噛んだ。看護師が笑った。陽介も笑った。エレベーターのボタンを二回押した。階数を間違えて、戻った。分娩室の前には、自分の両親と義母夫婦が既に揃っていた。
「遅い」
愛する妻の母である。とても姑とは言えない美貌でじろりと陽介を睨む。すらりと高い身長と鼻。美しいホワイトゴールドの髪を両胸に垂らす。顔立ちは妻に似ているが、冷徹な表情でいることが多いため、よく笑う妻とはあまり重ならない。その隣で、義母の夫であるバロンがいつもの朗らかな笑顔で迎えてくれた。
「おお、陽介くん。よかった間に合ったな」
「てことは、アロージアは今も?」
「陽介、アロージアちゃん逆子でね、ちょっと時間がかかってるみたいなの」
「いいからお前はさっさと中に行け」
陽介の両親も、心配と期待の混じったいつもとは違うテンションで彼に話しかける。妻のアロージアには約束していた、必ず隣にいると。同僚からは女性は出産時に一緒にいてほしい人といてほしくない人がいると、後になって聞いた。だけど、約束したんだ。
「みなさんすいません、俺、行ってきます」
陽介は分娩室に駆け込もうとして看護師に怒られている。
彼の背中を見ながら、もうすぐ祖父母となる四人は、ため息交じりの微笑みを向けていた。
「どうもすいません。馬鹿な息子で!」
「では、私の娘は馬鹿と結婚したと?」
「いやいやヘルメス。陽介くんの馬鹿は一級品だ、アロージアのためにしでかした馬鹿の数々。覚えているだろう。私は彼が大好きだよ」
「私は彼が馬鹿だと思ったことなどありません。そうですよね、フネさん」
「いいえー。うちの息子は馬鹿正直で、釣り馬鹿で、お人好し馬鹿で……」
「あの調子だと、親馬鹿もすぐだぞ」
分娩室前の廊下には、和やかな空気が流れる。
ヘルメスのひそめがちな眉も、この時ばかりは、その眉尻が柔らかく下がっていた。いや、娘が、あの男を連れてきてからずっと、なのかもしれない。
◇
陽介は分娩室のドアを見た。ドアの向こうから、声が聞こえる。アロージアの声だ。痛みを耐えている声。まるで悲鳴だ。ドアに手を当てそうになって、看護師に止められた。
「もうすぐですよ、お父さん」
「はい」
「勝手に入らないでください」
「はい。いえ、いや約束。やくそくぅ……」
看護師に誘導されるまま、しっかりと消毒され、白い服を着用させられる。廊下からこの準備室、そしてきっと分娩室も、一面が白く輝いていた。
「いいですか、絶対に手を出さないでくださいね。あなたにできるのは、落ち着いて声をかける、手を握る、肩を支える、額の汗をぬぐう。それだけですから」
「はい!」
中に入る。白い部屋に、世界で一番好きな人が、苦しみの表情を浮かべている。痛みにまみれた吐息が耳をつく。
「アロージア!!」
陽介の大きな声に、連れて来た看護師と助産師が振り返る。だが彼には彼らの顔が見えなかった。アロージアの緑色の大きな丸い瞳が、驚きと安堵で、陽介の瞳を貫いたからだ。この瞳で彼は何度も恋に落ちている。今、この時でもだ。
「……よう、すけ……はぁ……」
アロージアはベッド横の手すりを掴んでいた手を離し、陽介に向ける。彼は飛びつくように近づき、その手を握る。
「俺が来るまで待っててくれたのか? もう安心だぞ」
「そ、……なわけ、ない、でしょ」
額に汗を浮かべたアロージアは、それでも安心した表情へと変わったことを自覚していた。自国では、無痛分娩が一般的だった。この国でも最近では主流だという。以前までの薬物をつかったものとは違う、痛覚自体に作用する魔法がもう何年も前に開発されたのだ。
しかし、アロージアはそれを拒んだ。母であるヘルメスがそうしたように。もともと、子が出来にくい種族だった。この世界へ来て、人間の医学と交わってから、生まれる子の数は大きく増えたという。それでも彼女たちにとって、産むことが奇跡であることに変わりはない。この痛みは、「生」と同様に「与えられた」ものだった。祝福なのだ。
痛みで涙が目に溜まって、陽介の顔がよく見えない。見えるのは白。白い光ばかりが見えた。そこに彼の声が響く。お腹には、小さな命を感じる。まだ私の中に居たいんだと、なかなか出てきてくれない。それでも私は押し出すように力を入れる。
「だって、はやく会いたいん……だから!」
「そうだぞ、白! はやく出てこーい。父さんも母さんもじいちゃんもばあちゃんもいるぞー」
助産師の動作が変わる。動きがあったようだ。頭ではなくお尻から先に出てくるようなことを言っている。そんなことあるのか?
苦痛でアロージアの呼吸が荒くなる。陽介の手がちぎれそうなくらい握りしめた。どれくらいの時間がたったのだろう。この痛みをどうか自分に移してほしいと、陽介は両手でその手を覆った。
「がんばれ!」
「はい、腕もでてきたよー」
アロージアは息も絶え絶えとなっている。唇は乾き、額から大量の汗が流れ落ちていた。
「アロージア、もうちょっとだアロージア」
「よう、すけ、し、ろ」
助産師たちの声色が少し変わった。
「最後、頭だします。いきみすぎないで」
「ああああーー」
「順調ですよー、もう少しです」
「もう一回いきみましょう」
アロージアが力尽きたように、陽介の手を離す。
「んあーあーん」
彼女の足元から、元気な声が聞こえてきた。
アロージアの顔横にいた陽介には分からなかったが、どうやら自分の子どもが生まれたらしい。アロージアは目を閉じたまま、まだ呼吸は荒いままだ。
「アロージア!!」
「だ、いじょうぶ。抱いてあげて」
どうやら彼女は極度の疲労の中にいるようだ。死んでしまったのではないか、そう思って自分の心臓が止まったのはいつか話そう。今は聴こえてくる、泣き声、元気いっぱいで、俺たちを探している。あの声の主を早く、早く!
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
「臍帯切りますね」
白く清潔な布で、くるんと巻かれた、小さな天使が陽介に手渡される。その宝物をアロージアの顔のすぐ横に近づける。
「ようこそ。この世界へ。ありがとう。私たちの元へ来てくれて」
アロージアの瞳から先ほどまでの痛みとは違う涙が零れ落ちる。陽介は号泣していた。
廊下では祖父母四人が手を繋ぎ合っていた。ヘルメスは陽介の父カンタの手を握った。バロンはフネの肩を叩いた。全員が安堵の笑顔だ。分娩室から響く、陽介の大きな声は、防音を突き抜け、まるで実況中継のように廊下に聞こえていた。彼の声に、彼らもまた一喜一憂していたのだった。
「どうやら、無事に生まれたみたいですね」
陽介の母フネは、こんな彼らを見て自分の息子や孫が、大切に育てられていくことを確信し、安心した。ヘルメスは政界を引退したものの、自国では王族に連なる家系だと陽介に聞かされていた。
事実、結婚式はテーマパークのお城のような場所で大々的に行われたし、彼らの結婚はニュースにもなった。それにヘルメスの態度は、まさに王族といった立ち居振る舞いだった。それが今、涙を浮かべて手を取り合っている。きっと大丈夫だ。
ドアが開いた。
「ご家族の方、お入りください」
◇
産まれた瞬間のことを、陽介は後になっても上手く話せない。
白い光のことを覚えている。分娩室の天井の白い光。妻の汗ばんだ額。看護師の手に抱かれた、何か小さくて赤いもの。それが泣いた。声を上げた。
陽介はその声を聞いて、自分が何かを失い、何かを得たことを同時に理解した。何を失ったのかは分からない。
でも何を得たのかは、はっきりしていた。
「おめでとうございます。男の子です」
看護師が言った。
「エルフのお耳ですね」
カンタが後ろから覗き込んで、わあわあ言う。フネが「静かに」と言った。ヘルメスがアロージアの髪を撫でながら褒めている。涙が止まらないようだ。その後ろでバロンはがははと笑っている。
陽介は妻の手を握った。アロージアは疲れた目で陽介を見つめた。
「名前」
「うん」
「決めたよね」
「決めた」
ふたりで決めていた。男の子だったら――。
「「白」」
陽介が、その小さな顔を覗き込んで告げる。
「白。山西 白。それがお前の名前だ。どうだ、かっこいいだろ?」
赤い小さなものが、泣いていた。
ここに来たんだって教えてくれている。
◇
光だった。
最初は光だった。
それから温度。それから音。それから匂い。
順番に世界が現れる。順番ではなかったかもしれない。でも、後になって思い出すと、そういう順番だった気がする。
こうやって、ぼくの世界が始まったんだ。
RN0081年6月7日 山西 白




