black side 14
石の擦れる音が、止まった。
ついさっきまで百階を埋め尽くしていた轟音が、嘘みたいに消えている。
巨大なゴーレムはもう人の形をしていなかった。砕けた岩が広場の中央へ山のように積み上がり、その奥で最後まで残っていた赤い光も消えている。
終わった。
たぶん、本当に。
けれど摩耶は、そんなものを見ていなかった。
「黒ちゃん!」
声を上げながら走る。
少し離れた床に、銀色の鎧を着た男が倒れていた。金色の髪が崩れた石の床へ広がっている。
どう見ても白だった。
ついこの前、山下公園で会ったばかりの男。ハイネがずっと会わせたがっていた、黒と同じ歳の探索者。
なのに、ほんの少し前まで、この身体で喋っていたのは黒だった。
「黒ちゃん!」
返事はない。
摩耶は滑り込むように膝をつき、その身体を抱き起こした。胸は動いている。呼吸もある。それでも瞼は閉じたままで、肩を揺らしても反応しなかった。
「ねえ。黒ちゃん、聞こえる?」
自分でも、おかしなことを言っていると思う。
白の顔を見ながら、黒の名前を呼んでいる。
それでも他に、どう呼べばいいのか分からなかった。
「生きてんのか!?」
牙狼が駆け寄ってくる。
「息はしてる。でも起きない」
牙狼もその顔を覗き込み、困ったように眉を寄せた。
「……こいつ、本当に黒なのか?」
摩耶は答えられなかった。
横に長い耳。銀色の鎧。金色の髪。どこからどう見ても黒ではない。
それなのに、さっきまでこの身体は黒のように戦い、黒のように指示を出し、黒の言葉で自分たちに話しかけていた。
「分かんない。でも……さっきまで黒ちゃんだったでしょ?」
それしか言えなかった。
澪と柴田も追いついてくる。柴田は摩耶の横へ膝をつき、白の身体を確かめたあと、何かに気づいたように広場の反対側へ顔を向けた。
「黒さんの身体は……」
向こうでも、四人が誰かを囲んでいる。
黒い服に、黒い髪。
床に倒れている男は、どう見ても黒だった。
その男の横で、人間の女が必死に呼びかけている。
「白! 白、聞こえる!?」
摩耶は顔を上げた。
「……は?」
牙狼も振り向き、しばらく向こうを見つめてから言った。
「あれ、黒だろ」
「……外見は、そうですね」
柴田の声も、いつもほど、はっきりしていなかった。
「でも、向こうの人たちは白さんと呼んでいます」
誰も何も言わなくなった。
こちらには、白の身体を囲んで黒の名を呼ぶ四人。
向こうには、黒の身体を囲んで白の名を呼ぶ四人。
その光景を見比べているうちに、戦いが終わった安堵よりも先に、別の気味の悪さが摩耶の胸へ広がっていった。
白の身体へ視線を戻す。
「……何、これ?」
誰も答えられなかった。
◇
結局、八人は広場の中央へ集まった。
意識を失った二人は少し離して寝かせている。黒の身体の横には、さっきから人間の女が離れずについていた。
その黒の身体の手元に、ラディッシュが転がっていた。黒が最後に投げた剣だ。摩耶はそれを拾い、白の身体のそばへ置いた。
互いに知らない顔ばかりだった。
少なくとも摩耶にはそうだったし、向こうの四人も同じらしい。戦いの最中には考える暇もなかったが、こうして向かい合ってみると、同じ階層支配者と戦っていたというだけで、素性も名前も知らない相手だ。
最初に口を開いたのは柴田だった。
「……とりあえず、名前を確認していいですか」
長い耳の女が警戒したまま答える。
「シエナ」
「ドランだ」
竜人の男が続き、その隣にいた長い耳の男も名乗った。
「トウヤ」
最後に、黒の身体の横にいた人間の女が顔を上げる。
「ユイです」
柴田も自分たちを順番に示した。
「柴田です。こちらが摩耶さん、牙狼さん、澪さん」
「さん要らないよ」
摩耶が言ったが、柴田は当然のように無視した。
「確認したいことがあります」
シエナが腕を組む。
「こっちも」
八人の視線が、自然と二つの身体へ集まった。
柴田は白の身体を指す。
「この人は戦闘中、自分を黒だと言いました。僕の名前も知っていたし、みんなのことも知っていました。それだけじゃない。黒さんの能力を使い、黒さんと同じように僕たちへ指示を出していた」
牙狼が腕を組んだまま頷く。
「どう見ても白だったけどな」
今度はユイが、横たわる黒の身体へそっと手を置いた。
「こっちは、自分を白だと言ってました」
「何で信じれたんだ?」
牙狼が聞く。
「私たちしか知らないことを話したから」
ユイは黒の顔を見たまま答えた。
「声も顔も白じゃなかったけど……」
シエナが続ける。
「でも、白だった。少なくとも私たちは、そう判断した」
摩耶はもう一度、二人を見比べた。
少し前に会ったばかりの白の身体。
ずっと見慣れてきた黒の身体。
なのに、その中身だけが逆だったとしたら。
「じゃあ……入れ替わってたってこと?」
口にした途端、それまで曖昧だったものが急に形を持った気がして、妙に怖くなった。
トウヤが信じられないという顔で首を振る。
「そんなこと、あるのか?」
「普通はありません」
柴田が即答する。
「でも、普通じゃないことが目の前で起きたのも事実です。仮に白さんの身体に黒さん、黒さんの身体に白さんが入っていたと考えれば、少なくとも戦闘中に起きたことの大部分は説明できます」
「仮に?」
摩耶が睨む。
「断定できません」
「さっき黒ちゃんだったじゃん」
「僕もそう思っています。でも、今は本人に確認できないでしょう」
言われて、摩耶は黙った。
白の身体は目を閉じたまま動かない。
黒の身体も同じだった。
聞きたいことはいくらでもあるのに、どちらにも聞けない。
もし本当に入れ替わっていたのなら、目の前に横たわっている白い身体の中には、今も黒がいるのかもしれない。
そう思うと、知らないはずの顔から目を離せなくなった。
「……起きたら戻る、とか?」
澪がおそるおそる聞いた。
「分かりません」
「ずっとこのままとか?」
「分かりません」
澪の尻尾が力なく垂れる。
「柴田くん、何にも分かんないにゃ」
「こんなの分かるわけないでしょ!」
いつもの柴田の声が返ってきて、摩耶は思わず小さく息を吐いた。
何も分からない。
でも、いつもの声がする。
それだけで、ほんの少しだけ現実へ戻ってこられた気がした。
その時だった。
広場の中央から、重い石がぶつかる音が響いた。
全員が一斉に振り向く。
ゴーレムだった瓦礫が、動いている。
「また来るぞ!」
ドランが即座に盾を持ち上げ、シエナとトウヤも構える。牙狼の前には巨大な狼の顎が現れ、摩耶も反射的にミミを抱き直した。
「もう、無理だよ」
「黒もいないんだよ〜?」
トウヤと澪がうんざりした声を漏らす。
だが、岩はゴーレムへ戻らなかった。
砕けた岩が一つ、また一つと広場の端へ転がり、まるで決められた場所を知っているように積み重なっていく。
「……これは」
柴田が呟いた。
石は規則正しく重なり、段差を作っていく。
一段、二段と増えていったそれは、やがてはっきりと階段の形になった。百階の壁へ向かって石段が伸び、これまで何もなかった壁が、低い地鳴りとともにゆっくり左右へ開いていく。
「上……?」
ユイが見上げる。
階段の先には、さらに上へ続く暗い通路が現れていた。
その横でも、別の岩が集まり始めている。
四角い枠を作り、その内側を灰色の壁が埋め、最後に中央で二枚の扉が閉じる。
摩耶にも、その形には見覚えがあった。
柴田が目を見開く。
「下りエレベーター……」
「百階にもあるの?」
「十階刻みですから、あるはずです。ただ、僕たちが入った時にはありませんでした」
柴田は出来上がった階段とエレベーターを交互に見る。
「階層支配者を倒すことが、出現条件だったのでしょう」
誰も歓声を上げなかった。
そんな元気は、もう残っていない。
それでも八人の間に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
帰れる。
そう思って、摩耶はようやく自分の手が震えていることに気づいた。
◇
二人を交代で支えながら階段を上り、百一階入口のチェックポイントまで移動した。
そこにあったのは、これまでの階で見てきた登録装置を、何倍も立派にしたようなものだった。
「ここに手のひらを載せれば、討伐者として登録されます」
柴田が装置を見上げて言う。
「登録した人は、次からエレベーターでここまで来られます。誰かを連れて来ることもできる。一度登録すれば、ずっとです」
「じゃあ全員やればいいじゃん」
牙狼が言った。
「枠は五人までです。六人目からは、もう一度あれを倒すしかありません」
八人で、五つ。
「白は絶対入れて」
ユイが言う。
「黒ちゃんもだよ!」
摩耶も、そこだけは譲るつもりがなかった。
反対する者はいなかった。
誰の攻撃が最後だったのか。誰がどれだけ削ったのか。そんな話ではない。
黒が開けた。
白が終わらせた。
どちらか一人でも欠けていたら、あのゴーレムは今も立っていた。
だから二人の名を、百階階層支配者の討伐者として残す。そこだけは、八人全員が同じ意見だった。
摩耶は白の身体の手を取り、装置へ載せた。知らない手だった。向かいでは、ユイが黒の手を同じように載せている。
揉めたのは残りの三枠だ。少し言い合ってから、柴田、ドラン、シエナに決まった。
登録を終えると、残った問題は二人をどうやって地上まで運ぶかだった。
ユイと摩耶がそれぞれ身体を確認したが、どちらも目を覚まさない。目立つ傷はあったものの、すでに治癒魔法で修復されている。
それよりも、魔力も体力もほとんど使い切っている。
「背負って降りるのは危ないね。階段だし」
ユイの言葉に、摩耶はすぐ頷いた。
「じゃ、担架作ろう」
ドランのショートスピア、澪とトウヤの小剣、柴田の忍者刀。使えそうなものを集め、短いものは鞘ごと縛って継ぎ、棒の長さにする。それを二本ずつ並べ、上着や予備の服の袖を渡し、ずれないようベルトで何重にも締める。
一度作って終わりにはしない。
牙狼とドランが実際に体重をかけ、軋んだ場所を締め直す。途中で外れそうな箇所は別の布を足し、意識のない人間を載せても身体がずり落ちないよう固定できることまで確かめた。
見た目は簡単なものだったが、背負って運ぶよりはずっと安全だった。
二つ目の担架が完成したところで、また別の問題が出てきた。
摩耶は当然のように、白の身体の横へ立つ。
「こっちは私たちが運ぶ」
シエナが眉を寄せた。
「白は私たちが運ぶ」
「今、中に黒ちゃんいるかもしれないんだけど」
「黒の身体には白がいるかもしれない」
シエナも一歩も引かなかった。
二人の間で視線がぶつかる。
「ややこしいな!」
牙狼が頭を掻き、柴田も深いため息をついた。
「そうですね。だから、身体で分けましょう」
摩耶が振り向く。
「は?」
「中に誰がいるのか、今は誰にも確認できません。この状態で『こっちは黒さんだから』『こっちは白さんだから』と言い続けたら、搬送中に混乱します」
柴田はまず、白の身体を示した。
「白さんの身体は、白さんのチームに任せます」
次に黒を見る。
「黒さんの身体は、僕たちが運びます。それが一番分かりやすい」
「でも――」
「摩耶さん」
柴田の声が少し低くなった。
「今は、二人とも無事に帰すことを優先しましょう」
摩耶は何も言えなくなった。
もう一度、白の顔を見る。
金色の髪。少し前まで、会ったこともなかった男の顔。
山下公園で話した時には、ハイネから聞いていたより普通の奴だと思った。少しお人好しで、黒の「待ってたぜ」を本気で喜んで、わざわざ礼まで伝えてきた変な奴。
その身体が、さっきまで黒の声で喋っていた。
黒のやり方で戦っていた。
知らない顔なのに、そこに黒がいると分かった。
だから今、この身体から離れることが妙に怖かった。
それでも摩耶は、しばらく白の顔を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……分かった。でも落としたら許さないからっ」
ユイが静かに頭を下げる。
「大丈夫。ちゃんと運ぶよ。そっちも気をつけて」
「当たり前。この剣も白くんの腰にさしておいてね」
そう答えてから、摩耶は黒の身体の方へ歩いた。
黒い髪に、黒い服。
何度見たか分からない、見慣れた姿だった。
子供の頃から一緒にいて、何度も喧嘩して、何度も助けられてきた身体。
なのに今、その中にいるのは白かもしれない。
そう考えた途端、今度はこっちまで知らない人間に見えてくる。
「……本当に何なの、これ」
摩耶は黒の身体の横へしゃがみ込み、その頬を軽く叩いた。
「黒ちゃんだったら起きて」
反応はない。
もう一度、少しだけ強く叩く。
「白くんだったら……まあ、寝てていいや」
牙狼が吹き出した。
「扱い違いすぎない?」
「うるさい」
ほんの少しだけ笑いが混じった。
戦いが終わってから、初めてだった。
二つの担架を並べる。
白の身体は白チームが。
黒の身体は黒チームが運ぶ。
誰が中にいるのかは分からない。
目を覚ました時に元へ戻っているのか、それともこのままなのかも分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、二人とも生きている。
階層支配者は倒した。
帰るためのエレベーターも出た。
担架も出来た。
あとは。
帰るだけだった。
摩耶は黒の身体を載せた担架に手を置いたまま、隣の担架を見た。
「帰ろ。黒ちゃん。お疲れ様」




