幕間:十分後
この滅びる世界からの脱出のため、今日ここに三つの門が開かれる。
第一の門は既に開かれていて、進軍が始まっている。
そして今。
眼の前の第二の門が、唸りを上げて開いた。
アメージアの門が開いてから、きっかり十分後。
取り決めどおりの刻だった。
「ダナン様。第二陣、整いました」
「うむ。しからば、いくかの」
ダナンは三つ編みにした緑色の髭を握った。握ってから、自分の手が強張っていたことに気づく。
広場の向こうでは、第一の門へ続く列がまだ長く伸びていた。数千の兵が、二人並ぶのがやっとの階段へ順に吸い込まれていく。先頭に立った姫様は、とうに光の向こうだ。あの世界へ到着している可能性すらある。
言いそびれたことがある。姫様は昔からそうだ。こちらが口を開く頃には、もう背中しか見えない。そういう所は、あの御方によく似ておる。
ダナンは笑みを浮かべ、第一の門へ頭を下げた。
「姫様。どうかご武運を」
一番危険な先発にお供できんとは、情けない。
背後には数千人が並んでいる。工作技師、魔導具技師、建築家、農の者、学者。剣や杖を持つ者は少ない。第一陣が土地を押さえる者たちなら、自分たちはそこに国を建てる者たちだった。
どこへ出るのかは分からない。いつへ出るのかも選べない。分かっているのは、第一陣より後になるということだけだ。これまでの実験では、十分の差は数日。運が悪くても数か月。
だが案ずることはない。門は、強い魔力を帯びた高い建物に繋がる。先に着いた姫様の部隊が、そういう建物を見張っていればよい。迎えは向こうから来る手はずだ。
「姫様に笑われぬようにな。参るぞ」
第一の門の列は、まだ途切れていない。それを横目に、ダナンは第二の門をくぐった。
◇
階段は暗く、狭かった。ところどころで踊り場のような広間に出て、また下りになる。
いくつ目かの広間で、先頭の灯りが揺れた。
床が盛り上がっていた。石とも肉ともつかないものが、いくつも這い出してくる。実験で見たどれとも、形が違う。
「下がっておれ」
詠唱は一節で足りた。緑の光が広間を端から端まで薙ぎ、動くものは残らなかった。焦げた匂いだけが階段の上へ流れていく。
技師たちは声も出せずにいた。ダナンは杖を下ろし、いま降りてきた暗がりを振り仰いだ。
門は開けておくほど長くなる。長くなれば、こういうものが湧く。では、後ろを歩く者たちの前には、これがいくつ出るのか。護衛の大半は第一陣に付けてしまった。
「伝令を出せ。後ろへ、足を速めよと」
伝令は戻らなかった。
振り返るたび、後続の灯りは遠くなっていた。歩みが遅れているのではない。間の段が増えているのだ。やがて灯りは点になり、見えなくなった。
待てば、前の道も伸びる。
「……進むぞ」
誰も返事をしなかった。足音だけが続いた。
◇
最後の段を降りると、白い石の柱が並ぶ巨大な広間だった。
怒鳴り声がした。知らない言葉だ。黒い鉄の筒を構えた人間たちが、半円を描いてこちらを囲んでいる。
姫様が攻め入った世界の兵。あの筒が武器だということは、向けられ方で分かった。
「まだ抜くな」
「しかし、ダナン様」
「我らは戦をしに来たのではない」
後ろで魔導士たちが防壁を編み始める。人間の指が筒の上で動く。どちらか一人が間違えれば、ここで始まる。
迎えは、どこにもいなかった。
――もしや姫様たちは、既にこやつらの手にかかって……。
杖を握る手に、力が入った。
その時、兵が一人、広間へ駆け込んできた。
上官らしい男の耳元で何かを囁く。男の顔色が変わった。聞き返し、もう一度囁かれ、それから怒鳴った。
こちらへ向いていた筒が、一斉に床を向いた。
ダナンには、その命令がどこから来たのか分からなかった。上官の男にも、分かっていないように見えた。
兵たちが壁際まで下がる。空いた広間の奥から、女が一人歩いてきた。供は二人だけ。人間の仕立ての黒い外套を着て、髪で耳を隠している。
女は足を止め、髪を耳にかけた。エルフの耳だ。見間違えようのない顔。それから裾を整えて礼をした。テラスに立つ時の、姫様の礼だった。
「お変わりありませんね、ダナン」
「……ヘルメス様」
十分前、母親の後ろで門を見上げていた顔だ。何も変わっていない。変わっていないのに、ダナンは一歩下がりそうになった。その表情も、風格も、重みが違うのだ。
「これは、どういうことですかな。姫様は? 第一陣はどこに?」
「一つだけ、先に教えてください。母の門が開いてから、あなたの門が開くまで、どれほどでしたか」
「十分ほどですぞ」
「そうですか」
ヘルメスは静かに頷いた。
「こちらでは、二十二年です」
ダナンは笑おうとした。笑えなかった。
「なんということじゃ……。大遅刻ではありませんか」
ヘルメスの口元が、少しだけ上がった。
「母の門は、ある塔の落成の日に繋がりました。ですから新しい塔が建つたび、落成の日に人を置き、しばらく見張って、何も起きなければ引き上げる。それを二十二年、続けてきました」
彼女は柱の並ぶ天井を見上げた。
「ここはロモノーソフ記念モスクワ国立大学の本館。今日が、その落成の日です。これほどの塔は久しぶりでしたから、今度こそと思って、私が来ました」
「さぞ難儀なさったでしょう。して、アメージア様はご息災で」
「……母は」
口元の笑みが消えた。ヘルメスは統率者の顔に戻って、答えた。
「母は、八年前に亡くなりました」
「なんですと!……誰に」
杖を握る手に魔力が集まった。姫様を討てる者がいるのなら、その名を聞かねばならない。
「病です」
集めた魔力の、向ける先がなかった。
「……は?」
「この世界の病を、私たちの身体が知りません。私たちも、それを知らなかった。ですから皆さんを、まだここから出すわけにはいきません。全員、先に検査します」
ダナンは、しばらく何も言えなかった。
「十分で追いつくと、申し上げるつもりでした」
ヘルメスの息が、止まった。
ほんの一呼吸だった。それから彼女は、何事もなかったように顔を上げた。
「ダナン。母は、あなたが降りてくるのを待っていましたよ。最後まで」
ダナンは階段を振り返った。暗い口が開いているだけだった。
「後ろに、まだ大勢おります」
「待ちます。こちらからも迎えを出しましょう」
「登るのですかな」
「ええ。二十二年、あの中で戦う方法も研究してきましたから」
いつの間にか、供の後ろに十人ほどが並んでいた。どの顔にも見覚えがある。十分前、第一の門の列の先頭に立っていた者たちだ。手にしているのは、見たこともない魔導具だった。
彼らはダナンに目礼だけを残し、入れ替わりに階段を登っていった。
「では、あなたからです。検査の後に、予防接種を」
「よ、予防接種とは何じゃ」
供の二人が進み出た。一人はエルフ、一人は人間。同じ卓に、それぞれの道具を並べ始める。人間の方が、針のついた細い筒を取り上げた。
「何じゃその針は。嫌じゃ、やめろ」
「ダナン。聞き分けなさい」
おしめすら替えたことのある姫様の娘に、諭されている。ダナンは不思議な心地で袖をまくった。
「ようこそ、プルメリアへ。歓迎しますよ」
ヘルメスは、壁際で床を見ている兵たちへ目をやった。
「この街はまだ、モスクワと呼ばれていますが」
◇
階段の口には、その日から灯りが一つ置かれた。後続は、まだまばらに続いている。
灯りの番が何度も替わり、数年が経つうちに、第二陣の技師と人間の学者は同じ黒板の前に立つようになった。
黒板の上では、電気も原子も、魔力も治癒も通信も、同じ式の中へ書き込まれていく。人間たちの世界では、別々の学問だったものだ。意志が物を動かすのなら、見るとは何か。誰かが隅に書いたその問い一つで、物の学も心の学も書き直しを迫られた。
成果は人間たちにも渡された。ただし、そのすべてではない。
「これは?」
ダナンは机の上から、一枚の設計図を持ち上げた。細長い筒に、尾の方だけ火を噴く口がついている。
人間の学者が、まだ覚束ない言葉に身振りを交えて、天井を指した。その上。さらに上。この星を離れて、空の向こうへ。
そういうものらしい。
「……星の外へ」
ダナンは窓の外を見た。滅びる星から逃げてきたのが自分たちだ。魔法も持たずに生きてきた人間たちが、追われてもいないのに、自分の足で出て行こうとしている。
「面白いっ!」
その横へ、第二陣の技師が魔力炉の図面を広げた。人間の学者が息を呑む。二枚の紙の端が重なった。
筒の図面の写しは、三日で仕上がった。元の一枚は人間たちの手に残る。写しは、炉の芯を描いた一枚と共に木箱へ納められ、その夜のうちに海の向こうへ発った。ヘルメス様の許へ。芯の図面に、写しはない。
姫様は、人を動かして世界を変えた。
ヘルメス様は、知識そのものを握ろうとしている。
支配するだけでは足りない。そう言って人間に学び、教え、混ざることを選んだ娘の手に、母の頃よりも多くのものが集まっていく。
木箱を見送ると、ダナンは窓辺へ歩いた。眼下に、人間たちの街の灯が広がっている。その向こうの夜空を見上げた。
人間たちは、あれを宇宙と呼ぶ。
ダナンは、そこに向かって語り掛ける。
「姫様」
我らの新天地への進撃は、大成功でしたぞ。大任を見事果たされたこと、このダナン、決して忘れはしませんぞ。
あの広間では、今夜も階段の口に灯りが点いている。後続は、まだ降りてくるはずだ。そして第三陣も、自分たちの十分後に門をくぐったはずだった。
こちらでは、いつになる。
「なら、あやつらが来る前に、行ってみるかの」
◇
エルフ移民の第二陣の到着から、八年後。
人類は、初めて有人宇宙飛行に成功した。




