white side 13
群馬県ほどではないが、かなり広い八十階。
僕たちは、その一角にある闇狼洞窟へ来ていた。
探索者組合の情報では、奥には闇狼というボスがいるらしい。上階へ登るには関係なかったので、八十階を攻略した時には立ち寄らなかった場所だ。
「肩慣らしに倒していってもいいんじゃないか。それなりの値段で売れるものも落とすんだろ?」
「何言ってるのよ。これから百階を目指すのよ。無駄な体力は使わない」
ドランの提案をシエナが即座に却下する。
僕も同意見だ。
バロンじいちゃんに教わった壁へ魔力を流すと、灰色だった一区画が様々な色に光った。最後に強く瞬き、奥で何かが噛み合う。
壁に隙間が開いた。
冷たい風が、頬を撫でる。
「……本当にあった」
「なかったら困るんだけど」
シエナが僕の肩越しに覗き込む。
短い通路の先を調べようとしたところで、開いた隙間が少しずつ閉じ始めた。
「おいっ、もう閉まりかけてるぞ」
ドランが慌てて先に入り、僕たちも続く。
十歩ほど進んだところで、天井がなくなった。
「え」
外。
そう思ったけれど、空はなかった。
頭上にも足元にも紫がかった暗闇が広がり、遠くでは赤黒い光が明滅している。どこまで見ても地面はない。
その空間へ。
階段だけが伸びていた。
黒ずんだ石でできた細い階段。
途中で大きく折れ曲がり、暗闇へ消え、また遠くに現れる。支える柱も、下の階も見当たらない。
「ね。これを登るの?」
ユイの声がした。トウヤは頭を抱えている。
階段の縁は欠け、深い亀裂が走っていた。手すりもほとんど途中で折れている。
ドランが最初の一段へ足を乗せた。
小さな石が剥がれ、暗闇へ落ちていく。
音は返ってこなかった。
「……登るんだよね?」
僕は上を見る。
遥か向こうの暗闇に、何か大きなものが浮かんでいる。
「たぶん、あれが百階」
「たぶんばっかりだね」
「僕も初めてだから」
「もっと明るい抜け道がよかったな」
「僕もだよ」
シエナが僕たちを振り返る。
「喋ってないで、足元見て」
僕はラディッシュの柄へ触れ、最初の一段へ足を乗せた。
◇
登り始めてすぐに分かった。
見た目だけが怖いわけじゃない。
一段ごとの高さが違い、足を乗せると傾く石もある。壁がないから身体を寄せる場所もない。
右も左も、底のない暗闇。
ドランが先頭。その後ろに僕とシエナ。ユイを挟んで、最後尾がトウヤ。
「止まって」
全員が足を止める。
「何かいる」
階段が折れ曲がった先に、赤い点が二つ浮かんでいた。
一匹の魔物が這い出してくる。
犬に似ている。
肩の高さは僕の胸ほど。毛はなく、黒い甲殻が背中から頭を覆い、前脚だけが妙に太い。
頭を下げた。
「来る! 突っ込んで来るぞっ!」
ドランが盾を構える。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
衝突音。
ドランの身体が一段下へ押し戻される。
「っ!」
僕も肩へ手を添えた。
二人分の体重をかけても押される。踵の下で石が割れた。
このまま受けたら、落ちる。
「右へ流して!」
盾の脇へラディッシュを差し込み、光を走らせる。
振り上げた刃が顎の下を裂いた。
魔物が頭を跳ね上げた隙に、ドランが盾を傾ける。
黒い身体が横へ滑り、階段の縁を掻いた。
そのまま暗闇へ落ちていく。
「……速すぎない?」
ドランが盾を下ろさずに答える。
「次は正面で受けん」
盾には深い傷がついていた。
一回ぶつかっただけで。
「白。まだいる」
階段の先に、赤い目が増えていた。
二つ。
四つ。
その奥にも。
◇
二匹目はドランが軌道を逸らして落とした。
三匹目は僕が横から斬る。
四匹目。
前の魔物が倒れるより早く、後ろから跳び越えてきた。
「上っ!」
剣を上げる。
間に合わない。
黒い前脚が肩へぶつかり、身体が横へ弾かれた。
踏ん張ろうとした足元から階段が崩れる。
「白っ!」
ユイが腕を掴んだ。
膝を石へ打ちつける。
「ユイ、ありがと――」
「伏せて!」
トウヤの光が魔物を斜めへ弾いた。
爪だけで階段の縁にぶら下がる。
僕は膝をついたまま、その爪へラディッシュを突き立てた。
魔物が暗闇へ落ちていく。
「ありがとう」
「お礼はあと!」
ユイは僕の両足が階段へ戻るまで手を離さなかった。
前では、ドランが次の突進を受け流している。
魔物が通るたびに、階段の縁が削られていく。
ここで戦い続けることはできない。
「上へ進む! 一匹ずつ処理して、止まらないで!」
「次、曲がり角の向こう!」
僕たちは登った。
◇
途中の少し平らな場所で、ようやく五人が横へ広がれた。
振り返ると、通ってきた階段は大きく欠けている。
その先にも魔物がいた。
「後ろにぞろぞろついてきてる……」
「前にもいるわよ」
シエナが前後を見比べる。
「……違う。ついてきてるんじゃない」
階段の上に黒い煙のようなものが溜まっていた。
煙が伸びる。
脚。
背中。
低く突き出した頭。
赤い目が開く。
犬型の魔物が現れた。
「こうやって生まれてるの?」
「そう見えるね」
上にも黒い煙がいくつも揺れている。
ここで止まれば挟まれる。
何匹来る。
どこから?
ドランは大丈夫?
ユイの魔力は?
後ろも。
足元も。
全部を見ようとした瞬間、息が浅くなった。
――一個ずつだ。
カツヤさんの声が蘇る。
僕はラディッシュを握り直した。
今、決めること。
残るか。
進むか。
「上へ抜ける」
声に出した。
「後ろは倒しきらなくていい。僕とドランで前を開ける。トウヤは後ろ。シエナは前の数を。ユイは真ん中から離れないで」
「了解」
ユイが僕の膝へ手をかざす。
淡い光で痛みが和らいだ。
「動ける?」
「うん」
「じゃあ行って」
前の階段で一匹目が形になる。
「行くよ!」
◇
登る。
斬る。
また登る。
頭が下がる。
肩が沈む。
突進の前には、その動きだけは必ずあった。
「来る!」
シエナの声。
ドランが盾を傾け、流れた魔物へ僕が剣を入れる。
光が走った。
倒れた身体を越える。
三段上で、黒い煙が集まり始めた。
「まだ形になる前!」
斬撃を飛ばす。
光は煙を抜け、向こうの石へ当たった。
手応えがない。
駄目だ。
出てきてから。
「ドラン、一段下!」
生まれた魔物が跳ぶ。
僕たちがいた場所を、尖った頭が通り抜けた。
振り向きざまに首へ斬り込む。
重い。
刃が抜けない。
『捻るな。引け』
ラディッシュの声。
刃の向きへ腕を引く。
抜けた。
「白、上!」
すぐに前を見る。
次が来ていた。
◇
それからも、階段と魔物は途切れなかった。
ドランが流し、僕が斬る。後ろへ抜けた魔物をトウヤが押し返し、ユイは足を止めず傷を治す。
シエナの声を頼りに、暗い折り返しをいくつも越えた。
魔物が途切れれば水を飲み、食べられるだけ食べる。少し休んでは、また登った。
時計はもう夜を示していた。
踊り場へ辿り着き、僕は膝へ手をつく。
「全員……いる?」
声と顔を確認する。
五人。
欠けていない。
ドランの盾は縁が欠け、腕にも血が滲んでいた。ユイが治療する間、トウヤとシエナが来た道を見張る。
僕は上を見た。
最初は黒い塊だったものが、もう近い。
山ほどもある石の構造物が、何にも支えられず空間に浮かんでいる。
「あれ……百階?」
「そうだと思う」
僕たちの階段は、その側面へ続いていた。
さらに遠くの暗闇から、別の階段も伸びている。
白い。
幅が広く、縁も欠けていない。石そのものが淡く光っていた。
「あれが正規ルートなのかもな」
「……向こうがよかった」
僕もそう思った。
でも、ここまで来た。
「あと少し――」
「また来る」
階段の先に黒い煙が溜まり始める。
僕はラディッシュを構えた。
◇
最後の階段は、それまでより狭かった。
先には門。
その前で、次々と赤い目が開く。
「五匹!」
後ろからも爪の音が近づいていた。
戻れない。
正面で受け続けることもできない。
盾。
階段。
門までの距離。
魔物が走ってくる一本道。
一個ずつ。
「ドラン、少しだけ時間を作って」
「どれくらいだ」
「三分」
「任せろ」
僕は後ろへ下がり、ラディッシュを両手で握る。
身体から光を集め、刀身へ溜める。
大きくしすぎない。
階段を壊せば、僕たちも進めない。
細く。
前へ。
一本だけ。
「トウヤ、ドランをお願い!」
補助の光がドランを包み、ユイが背中へ手を添える。
「一匹目、来る!」
二匹目。
三匹目。
全部、同じ道を通ってくる。
「ドラン!」
「まだだ!」
衝突。
盾が鳴り、ドランの足が一段滑った。
それでも踏みとどまる。
「今だ!」
盾を斜めに倒した。
魔物の頭が外へ流れ、その横に一直線の道が開く。
僕は踏み込んだ。
「行っけぇぇっ!」
光を纏ったラディッシュを真っ直ぐ突き出す。
白い閃光が階段を駆け上がった。
一匹目。
二匹目。
三匹目。
後ろに続く黒い身体まで、光が貫いていく。
反動を抑え、光を上へ逃がす。
魔物たちが崩れ、手すりのない階段から落ちていった。
ドランが残った一匹を盾で押し退ける。
「進め!」
最後の石段を駆け上がった。
背後で爪の音。
「白、後ろラスト一匹!」
振り向く。
シエナが身を引いた場所へ踏み込み、ラディッシュを振り下ろす。
衝撃に脚が滑る。
ドランが背中を支えた。
そのまま押し切る。
魔物が足元で動かなくなった。
「……今は、いないみたい」
シエナの声で、ようやく息を吐いた。
◇
門は、ひどく傷んでいた。
表面は黒く変色し、端が欠け、深い爪痕が何本も走っている。
僕はその前で止まった。
腕が重い。
ラディッシュを鞘へ戻すだけで、指がもつれた。
「着いた? 着いたよね? いったい何時間やってるんだよ」
トウヤが長く息を吐く。
シエナが来た道を確認した。
「今は来てない。煙もないわ」
ここまで来た。
五人で。
大変だった。
それでも、九十六階で感じたような絶望はなかった。
「朝から登って、もう夜だ。敵も来ないみたいだし、休むか? それとも行く?」
ドランが聞いた。
全員の顔を見る。
疲れている。
それでも、誰も戻ろうとは言わなかった。
「行こう」
門へ手を押し当てる。
冷たい。
そして重い。
「重っ」
足を踏ん張り、両手で押した。
◇
あれだけ重かった門が、音もなく開いた。
視界が一気に広がる。
広い。
遥か高い天井に照明は見当たらない。それでも、晴れた朝のように明るかった。
乳白色の床が遠くまで続いている。
その中央。
石でできた巨大な人が、足を組み、両手を膝へ置いていた。
大仏。
そう思った。
でも。
大きすぎる。
頭を見るには、首を思い切り反らさなければならない。
あれが。
百階の階層支配者。
先ほどまでの疲労が、一瞬だけ消えた。
僕は一歩前へ出る。
「行くぞ!」
「おうっ!」
隣から元気な声が返った。
「ちょっとデカすぎだけどねっ」
どこかで聞いた女の子の声。
僕は頷きかけて。
止まった。
「えっ!?」
横を見る。
狼の耳をした男の子。
猫の耳の女の子。
眼鏡をかけた背の高い男。
知らない。
「キミたちは!?」
狼の耳の男の子が怪訝そうな顔をした。
「……キミたち?」
小柄な女の子も僕を見上げる。
彼女は……。
「えっ、摩耶ちゃん!?」
山下公園で会った、黒の仲間。
「いや、急にちゃん付けすんなし」
摩耶ちゃんが少し照れた。
「ど、どうしてここに? いや、今はそれより……」
ドランは?
シエナは?
ユイは?
トウヤは?
門を開ける直前まで、全員いた。
仲間が。
黒の仲間と入れ替わっている?
僕はフロアを見回した。
中央に鎮座する巨大なゴーレム。
その向こう。
円形の空間の反対側にも、黒い門が開いていた。
そこに人影が見える。
大きな盾。
長い耳。
見慣れた装備。
「……いたっ!」
身体が先に動いた。
僕は仲間の方へ駆け出す。
後ろから、摩耶ちゃんの声が聞こえた。
「ちょっと、黒ちゃーん!」




