white side 12
「嫌です」
即答した。
グローリアの眉がさらに寄った。その顔が、昔と少し重なる。
「あなたには無理よ」
「そうかな」
「九十六階で証明されたでしょう」
「一回失敗しただけだよ」
「死ぬところだったのよ!」
声が部屋へ響いた。
母さんが瞬きをする。父さんも黙った。ヘルメスばあちゃんが静かにグローリアを見て、バロンじいちゃんも何も言わない。
そして一番驚いていたのは、グローリア自身だった。思った以上に大きな声を上げていたことに気づいたのだろう。
「……だからね。別の道を探した方がいいと言っているの」
「別の道?」
「魔法の研究でも、行政でも、起業でもいい。あなたなら他にいくらでも道がある」
「あのさ、グローリア」
「何かしら?」
「もしかして、心配してくれてるの?」
赤い瞳が大きくなった。
「私は、ただ……」
僕は、彼女に対して警戒しすぎていたのかもしれない。
「貴方は死ぬところだったって、事実を言っただけよ」
「そうなんですね」
「そうよ」
「ふーん」
「何よ」
少し笑ってしまった。
「笑わないで」
「ごめん」
グローリアが苛立ったように金色の髪を耳へかけた。僕より少し長い耳で、ターコイズの耳飾りが光る。
「私は、あなたが探索者に向いていないと言っているの」
「僕は行くよ。それは向いてると思うからじゃない」
「だったら、なぜ?」
「行きたいから」
「子どもね」
「まあね」
「本当に死ぬかもしれないのよ」
「分かってるよ」
「分かっていない!」
目が合った。
昔なら、たぶん僕の方から逸らしていた。
今だって、何者をも許さないようなグローリアの赤い瞳に撃ち抜かれている。それでも目は逸らさない。
「この前、僕は本当に死ぬと思った」
グローリアの瞳がわずかに揺れる。
「なら――」
「それでも行きたい」
最後まで言わせずに答えた。
グローリアは黙った。部屋の奥で、時計の針が動いている。
やがて彼女が言った。
「……あなたは、何かを証明したいの?」
「証明?」
「自分がエルフに劣っていないと。人間にも、エルフにも負けない。ハーフエルフでも百階へ行ける。そうやって、誰かに認めさせたいのではなくて?」
「違うよ。どうしてそんなことを?」
すぐに答えた。
どうして彼女はそんなことを言うのだろう。彼女にとっては、大切な問題なのかもしれない。
グローリアはため息をついた。
「……それなら、どうして百階に行きたいの?」
今度は言葉が出なかった。
行きたい。それ以外は、まだ自分の中で言葉にしていなかった。
彼女の膝の上に置かれた指が、わずかに縮む。それを見ているうちに、前にバロンじいちゃんと釣りをした時のことを思い出した。
『命を使わんまま、終わるなよ』
僕は、どうして自分が『今』登ろうとしているのか、無意識に考えていたことを言葉にしてみる。
「百階に行かなくたってさ、明日生きているかは分からないでしょ? 未来のことを考えすぎて、今、諦めるのは、本当に正しいことなのかな」
グローリアが困惑した顔をする。ばあちゃんの視線が遠くから飛んできたのも感じた。
ただ、これが自分の思いだった。
「百階に行かなければ、貴方は死なないわ」
「そんなことは、誰にも分からないよ。今だって僕は、僕でありたいんだ。たとえ、そのために命を賭けることになっても」
「貴方は!」
グローリアが声を上げようとした時、母さんが口を開いた。
「グローリア」
ゆっくりとした語り口だった。
「あんまり白をいじめないでね」
「私は、いじめてなんか……。その、子どもの頃は、ごめんなさい」
母さんは笑っていた。
「私も、白は間違っていると思うの。でもね、この子もう必死でしょ? 応援したくなるじゃない」
「はぁ。しかし、実際に危険ですし……」
「間違っている白の行動が、この世界の未来を変えるのかもしれないわよ?」
グローリアは呆れた顔をする。父さんとバロンじいちゃんは明らかに笑っていた。
「そんなこと、誰にも分からないです」
さっきの僕の台詞だった。
母さんは久しぶりに姉さんに会えて嬉しいのか、やけに舌が回る。
「ふふ。私はね、アポロ十一号があのお月さまに立ってる姿を見て思ったの。ああ、私たちはまだ途中なんだって」
ニコニコと笑う母さんとは対照的に、グローリアは急なスケール変更に戸惑っている。
「それにね。白は、自分がハーフエルフであることを恥じてもいないし、気にもしてないのよ」
「だからって、この血を守らなければ、ご先祖様から続いてるものが薄れていってしまうでしょう?」
「宇宙から見たらね、数千年の伝統なんて、昨日はじまった西友のセールと大差ないのよ?」
「アロージア」
今度はゴールド伯母さんが母さんを呼んだ。
母さんが対面に座る姉を見る。二人の間に、僕には分からない何かが流れた。
「……何かしら?」
「それでも、誰かが守らなければならないでしょう?」
「うーん。それは守りたい人に任せるわ」
母さんはちらりとグローリアへ視線を向ける。
その時、伯母さんのよく通る声が響いた。
「エルフであることを誇りなさい。血統を守りなさい。私たちが何者なのか、決して忘れてはいけません。その考えが間違っているとは思っていない。多くのエルフもね」
母さんの表情が少しだけ硬くなる。
「でも、変化が必要なのは確かよ。母さんがそうしたようにね」
そう言って、ヘルメスばあちゃんを見る。
ばあちゃんはお茶を両手で持ったまま、静かに言った。
「時間が動くというのは、『変わる』ということなのです」
「……お婆様」
しばらくして、バロンじいちゃんが鼻から大きく息を吐いた。
「難しい話は、わしにはよう分からん。じゃが、アロージアはわしの娘じゃ」
母さんが目を見開く。
「もちろん、ゴールドもじゃ……」
そこは少し声が小さかった。
「白はわしの孫じゃ。グローリアもな。それで困ったことは、今まで一度もない」
「じいちゃん……」
「なんじゃ」
「いや」
「なら呼ぶな」
そっぽを向いた。
母さんが笑った。ほんの少しだけ、張り詰めていたものが緩んだ。
それでも、何かが解決したわけではない。
グローリアも、ゴールド伯母さんも、たぶん何一つ考えを変えてはいない。
でも、それでいいような気がした。
◇
少しして、ゴールド伯母さんが母さんへ言った。
「急に押しかける形になって、ごめんなさいね」
「そんな。姉さんが来るなら、いつでも」
「白も。何か予定があったのではなくて?」
「あ」
グローリアが僕を見る。
少し迷った。でも、隠すようなことでもない。
「ありました。今日、会う予定だった人がいて」
「友人?」
「友人……になるのかな。まだ会ったことすらないけど。黒という人です」
「黒? あなたのライバルね」
「ライバルなんて周りが言ってるだけだよ。僕らは会ったこともないしね」
「今日、会う予定だったの?」
「うん」
「……私たちが来るから、やめたの?」
「まあ」
グローリアの視線が落ちた。
「別に。黒とはまた会えると思うし」
返事はなかった。
◇
それからしばらくして、大人たちの会話が別の話へ移った。
僕とグローリアの間だけ、少し別の空気が残っていた。
「……白」
「何?」
「さっき、あなたが何かを証明するために登っているのではないかと言ったこと」
グローリアは自分の手を見ていた。
「九十六階で死にかけたと聞いた時、昔、私があんなことを言ったからではないかって思ったの」
あの時の、悪役令嬢さながらのグローリアの顔が浮かぶ。
「違うよ」
彼女が少しだけ、ほっとした顔をした。
「僕が登りたいのは、本当にただ、僕が登りたいからなんだ」
「……そう」
あの頃、僕らは子どもだった。
確かに辛辣な言葉ではあったけど、グローリアはずっと気にしていたのかもしれない。
「私は……何をしに来たのかしら」
「それを僕に聞かれても困るよ」
少し迷ってから聞いた。
「グローリアはさ、今もエルフ以外は下に見てるの? バロンじいちゃんや父さん、ハーフエルフの僕のこと、まだ嫌いなのかな?」
「嫌いなんかじゃないわ!」
即答だった。
「あなたが死ぬと思ったら、凄く怖かった。その、バロン……さんも、貴方のお父様も。とても素敵な方だと思うわ」
少し止まる。
「もちろん、白のことだって」
上目遣いでこちらを見る目は、記憶の中とはずいぶん違う。
「……分からないの。それでもエルフは純血であるべきだと思うわ。だけど、決して下には見ていないし、その、何人かは別の種族と混じったっていい。何人かなら」
それ以上、彼女は言わなかった。
僕も聞かなかった。
「グローリア」
「何?」
「今日、僕に会いに来たかったのは本当?」
「……ええ。そうよ。貴方の顔を見たかったの」
「そっか。ありがとう」
グローリアが、ほんの少しだけ息を吐いた。
「止められたのなら、もっと良かったのだけどね」
その顔は笑ったように見えた。
◇
帰り際。
玄関でグローリアが靴を履いている。
少し後ろでは、ゴールド伯母さんと母さんが話し、ヘルメスばあちゃんもそこにいた。バロンじいちゃんと父さんは少し離れたところから見送っている。
「ねぇ、白」
「何?」
「百階から帰ったらね、プルメリアに遊びに来なさいよ」
「ええっ?」
「何よ。嫌なの? 貴方に見せたい場所もあるし、お友達にも会わせたいわ」
「グローリアの友達ってハーフエルフ嫌いだろ?」
そう言って、グローリアより短い自分の耳を触って見せる。
「私の一族を誰にも否定などさせませんわ!」
グローリアは少し食い気味で、ふんすと言い放つ。
彼女はいずれゴールド伯母さんの跡を継いで、プルメリアの大統領、そしてエルフたちのリーダーになる。
世界中の人を前にしても、きっとはっきりと自分の意見を押し通すのだろう。その片鱗が、ずっと彼女を形作ってきたのかもしれない。
「そっか。かっこいいね、グローリア」
「はぁっ!?」
「からかってないよ」
「……からかうのはお止めなさい」
少し離れたところから、母さんと伯母さんが僕らを微笑ましそうに見ている。やめてくれ。
「……絶対に。絶対に帰ってくること」
グローリアも二人の顔に気づき、陶器のように白かった頬を少し赤く染めた。
「約束するよ。プルメリアにも必ず行く」
グローリアは小さく頷き、そのまま外へ出ようとする。
「グローリア」
「何かしら?」
「来てくれて、ありがとう」
彼女の足が止まった。
四年ぶりに会ったぎこちなさは、もうない。何かがほどけた顔をしている。きっと僕も。
「当たり前でしょう。白。貴方は私の大切な従兄弟なのですから」
「ありがとう。終わったら連絡するよ。それにしても……」
「どうしたの?」
「いやぁ、グローリアも成長したんだなって――」
「もう。貴方が成長するように私だってするわよ」
少し照れながら、グローリアは玄関から出ていく。
ゴールド伯母さんも続き、一度だけ振り向いて僕へ人差し指を向けた。
「白。グローリアを泣かせては駄目よ」
「必ず戻ります」
伯母さんはニコリとして扉を閉じた。
僕は、しばらくその場に立っていた。
気づくと、母さんとバロンじいちゃんが後ろにいる。
「グローリアには会えて良かったよ。凄く良い子になったね。だけど、何も今日じゃなくてもいいだろ」
「白。ほれ、釣りと同じじゃよ。魚も海もわしらの事情などお構いなしじゃろ?」
そうだけど。
また、黒と会えなかった。
◇
夜。
ハイネへメッセージを送った。
『今日は本当にごめん』
少しして返事が来る。
『電話する』
すぐに着信。出る。
「ごめん」
『いいよ。だってあのゴールド大統領でしょ? 断るなんて無理だもん』
「でも、絶対って言ったのに」
『それは今度守って』
「はい」
少し間があった。
『ていうかね』
「うん」
『黒も駄目だったの』
「……え?」
思わず身体を起こした。
「黒も?」
『そうだよー。絶対行くって言ってたのに、黒も来られなくなって』
「何それ」
『私、一人だけ予定が空いたんだけど』
「ごめん」
『ほんとだよ!』
でも、少しだけ変な気分になった。
「じゃあ、僕が今日行ってても、黒には会えなかったの?」
『そうなるね』
「……そっか」
グローリアの顔が浮かんだ。
彼女に会えて、やっぱり良かったんだ。
でも、単純にそう考えていいのかな。
ハイネのあの感じなら、黒だって本気で会う気だったはずだ。僕と同じように、何か避けられない出来事があったのだろうか。
そんなわけないか。
『白?』
「ごめん。何でもない」
『そう?』
「うん」
少し間を置いて。
「それにしても、ここまで会えないことってある?」
電話の向こうで、ハイネが吹き出した。
『ほんとだよね』
「呪われてるんじゃない?」
『縁起でもないこと言わないでよ』
「まあ、百階から帰ったらさ。会おうよ。三人で」
『うん! 今度は絶対の絶対!』
「明日、百階で僕は僕の全部を出すつもりだよ」
『全部は駄目。持って帰って』
笑ってしまう。
もちろん僕だって必ず帰る。こんなにも沢山の約束をしたから、帰らないなんてもうできない。
『そうだ! 黒もね、明日なんだよ。百階。会えるね!』
「やっぱり、そうか……」
黒たちの動向は追わないようにしている。集中を妨げるし、なぜだか彼のニュースもSNSも見る気がしなかった。トウヤが勝手に教えてくるのを聞く程度だ。
それでも、黒がまだ百階へ挑んでいないことは知っていた。
まだ行くな、とも思っていた。
だって僕がみんなにした『必ず帰る』という約束の前に、僕が僕にした約束があるから。
黒たちはいつも夜から登る。
朝から登る僕たちにも、先に着くチャンスはあるはずだ。
『ちょっと白。また、考え込んでるでしょ』
「ごめん、ごめん。ハイネにだけは言っておくね」
『おっ、なになに〜?』
「僕たちが先に百階を制覇すふ!」
『白? 今、かっこいい感じに言おうとした? 惜しかったよ』
気恥ずかしさに足を引っ張られて「すふ」になってしまったが、僕は気にしない。
ハイネにもグローリアにも、思い切り子どもの顔をして言ってやるつもりだ。
僕が勝ったよ。先に百階を攻略したって。
そんな野心を秘めているのに、その後もハイネはずっと笑い続けた。
◇
翌朝。
十一月十七日。
ランドマークタワー、八十階。
僕らは、一枚の壁の前に立っていた。
ただの壁。少なくとも、そう見える。
僕だって聞いていなければ通り過ぎただろう。
「左向きのガーゴイル像から、右に四十五歩。ここだよね」
トウヤとシエナが壁を調べながら話す。
「確かに、何か空洞のようなものがあるわ」
灰色の石材が、左右の壁と何の違いもなく続いている。ここに道があるなんて、知らなければ絶対に思わない。
百階へ行く。
この先に進めば、命を落とすかもしれない。仲間を失うかもしれない。
百階より上へ向かい続けるかは、まだ分からない。それでも自分で決めたことを、まずはやり通す。
帰ってくる。
それも、黒より先に。
僕たちは壁へ手を置いた。
「行こう!」




