white side 11
十一月十六日。
朝から、なんとなく落ち着かなかった。
理由は分かっている。
今日、黒に会う。
ハイネの口から何度も名前を聞いてきた。同じ街にいて、同じタワーに登っているのに、なぜか一度も会ったことがない。その黒と、今日初めて会う。
だからといって、服を三着も用意する必要はないと思う。
僕は黒いジャケットを手に取り、袖を通しかけて止まった。
絶対にあいつも黒い服を着てくるだろう。そうしたら黒が二人になるし、どう考えても僕の方が偽物だ。
でも、白い服なら白い服で、「やっぱり白い服を着ているのか」と思われる気がする。
「……これ、変かな」
鏡へ向き直り、襟を直したところで手が止まった。
別に、黒に格好いいと思われたいわけじゃない。そこは違う。絶対に違う。
ただ、ハイネもいる。
そう思ってもう一度襟に触れ、自分で自分が嫌になった。
「何をしているんだ、僕は……」
ベッドの上には、さっき脱いだ服と、その前に試した服が転がっている。しばらく見比べた末に、一番最初に出した服へ戻した。
最初からそうすればよかった。
階下から父さんが僕を呼んだ。
「白ー。朝ごはん」
「はーい」
返事をして部屋を出る。
階段を降りかけたところで、リビングから聞こえた名前に足が止まった。
「……ええ。グローリアには、そう伝えておいて」
母さんが誰かと電話をしていた。
通話を終えるのを待って階段を降りると、父さんがこちらへ顔を向ける。
「グローリアが、お前に会いたいと言っているらしい」
「本当に? あのグローリアが僕に?」
「そう聞いている」
「でも、日本へ立ち寄る予定なんてあったかな?」
「ゴールドさんの付き添いで彼女も来日してたんだが、外交の日程が急に空いたみたいでな」
ゴールド・Y・バイツリン。
ヘルメスばあちゃんの娘で、母さんの姉さん。グローリアの母親であり、現プルメリア国大統領でもある。
外交で日本を訪れることも多い。その折に母親や妹へ会いに来るのは、何もおかしくない。
でも、グローリアが僕に会いたいというのは、どういうことだろう。
父さんの顔を見たまま返事を探していると、ずっと奥へ沈んでいた記憶が浮かんできた。
◇
ゆるく波打つ金色の髪と、その下にある冷たい目を覚えている。
中学生になる少し前だったと思う。
同い年のグローリアは眉間に皺を寄せ、僕を見下ろしていた。
子どもでも、こんな目ができるのか。自分も子どもだったくせに、そんなことを思った。
ひどく汚れたものを見る目だった。
それなのに、口元には笑みが浮かんでいた。
『いいこと? あなたには汚い血が入っているの。エルフじゃないのよ』
幼い声で、『ママだって、そう言ってるのよ』と笑った。
僕は倒れていたのか、座り込んでいたのか。
ずいぶん下から、彼女の顔を見上げていた気がする。
『あんたなんか、私のいとこじゃないわ』
胸が痛かった。
それだけは、覚えている。
でも、僕が何と答えたのかは思い出せない。泣いたのか、怒ったのか。それとも、何も言えずに黙っていたのだろうか。
そこだけが抜け落ちて、グローリアの顔ばかりが妙にはっきり残っていた。
あの彼女が、僕に会いたいと言っている。
◇
「白?」
母さんに顔を覗き込まれ、僕は瞬きをした。
「……あ、ごめん」
「今日、予定があったでしょう?」
「うん」
ようやく黒に会えると思っていた。
ハイネにも絶対に行くと言ったし、朝から服を選んでいたくらいには、僕だって楽しみにしていた。
それでも、グローリアが自分から会いたいと言ったことが引っかかった。
黒とは同じ街にいる。
百階から帰ってきたら、また日を決めればいい。
海外に住む彼女とは、次にいつ会えるか分からない。今回だって、四年ぶりだ。
そう考えれば、今日どちらに会うべきかは決まる。
「大丈夫。僕、グローリアと会うよ」
「白、本当にいいの?」
「うん。ちょっと連絡してくる」
部屋へ戻ってスマートフォンを手に取った。
ハイネとの画面を開き、少し迷ってから文字を打つ。
『ごめん。今日行けなくなった』
送ると、ほとんど間を置かずに既読がついた。
『えええええ!?』
声まで聞こえてきそうで、思わず少し笑った。
『親戚が急に来ることになってさ』
今度は、返事まで少し間があった。
『……そっか。白の親戚って、なんか凄いもんね』
『しょうがないのは分かった』
『でも、あとでちゃんと電話して』
『黒には私から言っておく』
次々に届く文字を見ながら、親指が止まった。
黒へ何と伝えるのだろう。
僕が会うのを嫌がったとは思われたくなかった。
『楽しみにしてたんだよ?』
胸の奥が少し痛んだ。
『本当にごめん』
それだけでは足りない気がして、もう一つ送った。
『また今度、絶対』
既読はついたけれど、今度はスタンプも来なかった。
「……ごめん。百階が終わったら、必ず会うよ」
画面へ呟いて、スマートフォンを置いた。
ベッドの上には、選ばなかった二着が広がったままだった。
◇
午後になると、家の中の空気まで、いつもより硬くなった気がした。
黒いスーツのシークレットサービスたちが庭や廊下を行き来している。
母さんは朝から何度も時計を確かめ、父さんは表面上いつもどおりに振る舞っていた。
ヘルメスばあちゃんだけは、普段と変わらず優雅に座っている。
その近くで、バロンじいちゃんが大きな身体を小さくしていた。
いつもなら何かしら大声で話しているのに、今日は自分から口を開こうとしない。
「バロンじいちゃん、緊張してる?」
「しとらん」
「してるでしょ」
「しとらん。緊張? わしがするわけなかろう」
言い終わる頃には、声がすっかり小さくなっていた。
絶対にしている。
母さんとバロンじいちゃんには、血のつながりがない。もちろん、ゴールド伯母さんともだ。
じいちゃんはヘルメスばあちゃんの再婚相手で、母さんたちは前の夫との間に生まれた娘だった。
ドワーフとエルフの結婚には、反対する人が大勢いたらしい。
けれど、ばあちゃんは引かなかった。
母さんが人間である父さんと結婚した時も、反対の声を黙らせたのは、ばあちゃんだったらしい。
ただ、黙らせることと、納得してもらうことは違う。
ゴールド伯母さんは、バロンじいちゃんとの再婚にも、母さんと父さんの結婚にも反対している。
だから僕は、伯母さんもグローリアも、エルフ以外を見下しているのだと思っていた。実際にそんな考えを持つエルフたちがいる。
『エルフが他の種族と交わるべきではない』
これは純血主義と呼ばれる、エルフで主流の考え方だ。彼らにとってハーフエルフの僕は、種族の恥であって禁忌らしい。
僕は、この家にいるから分かりづらいだけで、多くのエルフは同じ考え方のようだ。特にこの世界の生まれではなく、元の世界から来た古い世代は。
家にいる時は、血のつながりなんてほとんど考えない。
母さんは母さんだし、父さんは父さん。
バロンじいちゃんだって、僕のじいちゃんだ。
それが彼女たちの目を通して見ると、わざわざ一人ずつ違いを確かめさせられるような気がした。本当は僕たちはバラバラなんだって、見せつけてくるように。
僕は、もっと単純でいいと思うのだけれど。
「陽介さん」
母さんが小さな声で父さんを呼んだ。
「その……今日は、余計なことを言わないでね」
「俺、そんなに余計なことを言う?」
母さんとバロンじいちゃんが、同時に父さんを見た。
「……言わないよ」
父さんまで少し小さくなったところで、チャイムが鳴った。
誰も、すぐには動かなかった。
◇
玄関から先に入ってきたのは、品のいい濃紺の服を着たエルフの女性だった。
ゴールド伯母さんだ。
母さんと同じ金色の髪に、少し鋭い印象の赤い瞳。
力強い笑顔は、家の中へ入ってからも崩れなかった。
「久しぶりね、アロージア」
「姉さん。また、疲れた顔してる」
抱き合う二人を見ていると、大統領の訪問というより、普通の家族の再会に思えた。
伯母さんは母さんから離れると、ヘルメスばあちゃんへ挨拶をした。ばあちゃんはいつもの顔だけど、なんだか嬉しそうだ。
それから。
「……お久しぶりです、バロンさん」
バロンじいちゃんの肩が、ほんの少しだけ動いた。
「お、おう。ゴールド」
それだけだった。
けれど、二人が昔どんな関係だったのかを知っているせいか、僕にはその短いやり取りが妙に長く感じられた。
その一歩後ろに、グローリアがいた。
金色の髪を背へ流し、まっすぐに立っている。
同い年なのに、僕よりずっと大人びて見えた。
目が合うと、彼女の足がほんの一瞬だけ止まった。
「……白」
「やあ。その……久しぶり」
「ええ」
そこで会話が途切れた。
僕も彼女も、続ける言葉を探さないまま、大人たちの挨拶へ目を向けた。
誰も喧嘩などしていない。
笑顔もある。
それでも、みんなが普段より慎重に言葉を選んでいることは分かった。
隣に立つグローリアも、居心地が良さそうには見えなかった。
◇
最初は、当たり障りのない話が続いた。
日本や横浜のこと。
今回の外交日程。
学校のこと。
十一月なのに今年は暖かいという話には、僕もグローリアも頷いた。
昔のことには触れなかった。
彼女が僕に会いたいと言った理由も、聞き出せないままだった。
そのうち、話題がタワーへ移った。
ゴールド伯母さんに尋ねられ、僕が今の装備や九十階台の様子を説明していると、それまで黙っていたグローリアが口を挟んだ。
「あなた。九十六階で、死にかけたそうね」
真正面から来た。
「まあ……」
「まあ、ではないでしょう」
少し顎を上げ、こちらを見る。
昔から、この言い方だった。
正しいことを言っているのは自分だと、疑っていないような顔も覚えている。
「五人全員が重傷。緊急帰還用の石まで使用したと聞きました」
「よく知ってるね」
「ニュースになっていますから」
「SNSも見た?」
返事が一瞬遅れた。
たぶん、見たのだ。
「あー。結構ひどかったでしょ」
「……くだらないものが多かったわ」
少し意外だった。
僕が無茶をしたことを責めるのかと思ったのに、彼女の口調は、それを書いた人たちへ向いているように聞こえた。
「高校生のくせにルールを無視した、とか」
「うん」
「エルフの血があるから特別扱いされた、とか」
「うん」
「プルメリアが日本へ圧力をかけたせいで、あなたが好き放題できる、とか」
話すほどに言葉が速くなり、眉間の皺が深くなっていく。
「まあ、いいよ」
「よくないでしょ!」
「え?」
「あ……」
グローリアが口を閉じた。
自分の声の強さに気づいたのか、一度唇を結んでから言い直す。
「……あのような言葉に惑わされてはなりません」
僕は、そこまで気にしていなかった。
けれど、それよりも、グローリアが腹を立てていることの方が気になった。
昔の彼女なら、むしろ同じような言葉を僕へ向けたのではないだろうか。
僕のために怒っているのか。
そう聞いていいものか迷っていると、彼女が改めて僕を呼んだ。
「白」
「はい?」
「探索者をやめなさい」




