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white side 10

訓練が始まって、三週間目。


横から迫るアイさんの蹴りに、僕は身をかがめた。訓練開始の合図はなかった。頭の上を風が抜けた時には、正面のカツヤさんも木剣を構えている。


後ろには壁、左にはアイさん。右にだけ、身体を通せるスペースが空いていた。


なら、右だ。


一歩、二歩と踏み込み、カツヤさんの剣を避ける。アイさんが回り込むのが視界の端に入ったけれど、そちらばかりを追わない。まず目の前の木剣をかわして、それからアイさんの位置を確かめる。


出口までの距離と、使う魔力。全部をいっぺんに考えようとする癖を押しとどめた。


一つずつ。


ラディッシュを振り抜くと、白い斬光が床すれすれを走った。二人を倒すための一撃じゃない。一瞬だけ、視線を奪えればいい。


カツヤさんの目が光を追った隙に走り、アイさんの横を抜ける。訓練エリアの端に引かれた赤いラインを踏んでも、足はもう一歩先まで出た。


追ってくる足音が止まった。僕は肩で息をしながら振り返る。


「これ、勝ちですか?」


カツヤさんは何も言わなかったが、その横でアイさんが笑った。


「今回はね」

「やった!」


思わず声が出た。カツヤさんがようやく頷くのを見て、握りしめていた剣から少し力を抜く。


「最初なら、途中で止まってた」

「……」


「敵を倒そうとして、仲間も出口も全部一度に見ようとして、頭が止まってた」

「はい」


九十六階では、本当にその通りだった。助けたい仲間も、迫ってくる敵も見えていたのに、何から手をつければいいのか分からなくなった。


「今は」


カツヤさんが僕を見る。


「逃げるために戦えるようになった」


その言葉が、一番嬉しかった。まだ息は苦しいのに、頬が緩むのを止められない。


強くなったとは言われなかったけれど、それでよかった。ただ九十六階へ戻れるだけじゃ足りない。同じことが起きても、今度は立ち止まらずに動ける自分になりたかった。


◇


三週間は、本当にあっという間だった。


最初の日には、カツヤさんの動きを目で追うことすらできなかった。最後まで正面から倒すことはできなかったけれど、六百九十階まで登る探索者に、三週間で追いつけるはずもない。


それでも、前より見えるものが増えた。倒れても次の動きを考えて立ち上がれるし、怖くなった時にも、何をすればいいのか一つずつ考えられる。


変わったのは、僕だけじゃなかった。


ドランは、味方の前へ立つだけじゃなく、味方が逃げるために盾を使うようになった。


ユイは、自分を守りながら動き続けることを覚えた。

シエナは、情報が増えるほど冷静になった。


トウヤも、誰へ何を使うべきか迷う時間が明らかに短くなった。


三週間前と同じ五人で立っていても、隣にいる仲間が次にどう動くか、前より思い浮かぶ。それは、自分の剣が速くなるのとは違う心強さだった。


訓練最終日、僕たちは二人の前に並んだ。


「ありがとうございました」


五人で頭を下げる。顔を上げると、カツヤさんは腕を組んだまま僕たちを見ていた。


「礼なら百階から帰ってからにしろ」


どこかで聞いたようなことを言う。


「似たこと、じいちゃんたちにも言われました」

「そうか? まあよく言う言葉かもな」


「流行ってるんですか?」

「知らん」


横でアイさんが笑った。


「白」

「はい?」


「九十六階のやつ」「あ」

「もしまた会っても」


少しだけ考えてから、アイさんは言った。


「倒そうとしなくていいからね」


「え?」


「分からないものに、正面から付き合う必要はない」


「……」


「逃げるのも攻略ってこと」


帰還石を使って逃げたことを、ずっと失敗だと思っていた。思い出すたび、何もできなかった自分ばかりが浮かんでいた。


でも、逃げたから今、五人でここに立っている。


隣の仲間へ目を向けてから、僕はアイさんに頷いた。


「はい。覚えておきます」


◇


家へ帰ると、ヘルメスばあちゃんがリビングにいた。その隣には大きな黒いケースが置かれていて、僕が入ってくるのを待っていたように見える。


何だか嫌な予感がする。いや、たぶん良い意味で。ケースを見てからばあちゃんの顔を窺うと、こちらを見る目が少し細くなった。


「白」

「うん」


「開けなさい」

「僕の?」


「あなた以外に誰がいるのです?」


留め具を外して蓋を持ち上げると、銀色が目に入った。胸当てから肩の部分へ、照明の光が淡く滑っていく。


鎧だった。身構えて手を差し入れたけれど、持ち上げると、思っていたほどの重さが腕にかからなかった。厚みも見た目ほどはない。


「軽っ」


思わず声が出た。


「最新の魔導工学素材です」


ばあちゃんはしれっと言うけれど、僕の知らない言葉だった。


「ま、魔導工学……?」

「軽量化しながら、高い耐衝撃性と耐魔力性能を持たせています」


「これ……絶対、高いよね?」

「値段を気にする必要はありません」


やっぱり聞かない方がいい。僕は鎧をもう一度見てから、ケースの中へそっと戻した。


「この三週間の費用も……」

「何です?」

「……いや、なんでもない」


途中で聞くのをやめた。答えてもらったら、もっと怖い数字が出てきそうだった。


それでも、この三週間の訓練も、目の前の鎧も、全部ばあちゃんが用意してくれたのは分かっている。


僕が探索者を続けることに、最後まで反対していた人だ。今も、行かずに済むならそうしてほしいんだろう。それでも僕が行くから、少しでも生きて帰れるように準備してくれた。


ありがたいな。


胸当ての縁に触れながら、何と言えば伝わるだろうと考えた。結局、出てきたのは短い言葉だった。


「ばあちゃん」

「はい」


「いつも。本当にありがとう」


ヘルメスばあちゃんは、少しだけ僕から目を逸らした。


「礼は、帰ってきてからにしなさい」


やっぱり、みんな同じことを言う。さっきのカツヤさんの顔を思い出して、少し笑ってしまった。


「うん」


「傷を付けるなとは言いません」

「それは無理だと思う」


「でしょうね」

「大事にするけどね」


「ですが」


ばあちゃんが僕を見る。


「必ず、それを着て帰ってきなさい」


胸当ての銀色へ手を置いた。持ち上げた時はあんなに軽かったのに、今は、とても重いものを受け取った気がする。


「……はい」


今度は笑わずに、ばあちゃんを見て頷いた。

また、約束をした。もう二度と破れない。


「絶対に帰ってきます!」


◇


その日の夜、部屋で鎧の調整をしているとスマートフォンが震えた。僕は留め具を直していた手を止めた。画面には見慣れたアイコン。


ハイネだ!


『白、11月16日って空いてる?』


十六日、と呟いてカレンダーを見る。八十階へ向かう前日で、僕たちは大事をとって休むことになっていた。


『空いてるよ』


すぐに返事が来た。


『よかった!』


そのあと、少し間があった。


『それでね。黒と会ってほしいんだ』


指が止まった。


えっ、黒?


何度も聞いた名前なのに、画面の文字をもう一度読んだ。ハイネが大好きな人で、僕が何となく負けたくないと思っている人。その黒と、今度こそ会えるらしい。


『黒も来るの?』

『来るよ!』


一瞬、胸が高鳴った。


『行く』


送る。


『早い!』

『会ってみたいし』


また、すぐに返ってくる。


『絶対来てね』


僕は少し笑った。


『必ず行くよ』


送信するとすぐに既読がつき、ウサギが万歳しているスタンプが飛んできた。僕も一つ返してから、スマートフォンを置く。


机の横には銀色の鎧があり、壁にはラディッシュが掛かっている。さっきまで十七日の準備ばかりしていたのに、今はその前日のことが気になっていた。


カレンダーの十一月十六日に、「黒に会う」と書き込んだ。


◇


十一月十五日。


ジョギングを終えて山下公園を歩いていると、前から来た小さな人影とぶつかった。


「わっ」

「きゃっ!」


軽い衝撃のあと、相手が抱えていた紙袋が地面へ落ちた。


「あ、ごめん!」

「こっちこそ、ごめんなさい!」


ほとんど同時にしゃがみ込み、紙袋から飛び出したものへ手を伸ばしかけて止まった。地面に横たわっていたのは、黒いドレスを着た女の子の人形だった。


白い顔に大きな目があり、細い指先まで丁寧に作られている。壊れていないか気になって、手を添えながらそっと起こした。


可愛い。


……可愛い、のかな。


少なくとも、僕が今まで見てきた人形とはかなり違う。


「……独特、だね」

「でしょ!」


顔を上げると、僕とぶつかった女の子も、人形に負けないくらい目立つ格好をしていた。小柄な身体に黒を基調としたゴシックロリータの服をまとい、いくつもの荷物を抱えながら、落ちたものを慌てて拾い集めている。


「これも?」

「あ、それも! ありがと!」


僕は落ちていた小物を拾い、紙袋へ戻した。


「人形、好きなの?」

「好きっていうか、作ってるの」


「えっ。これ、作ったの?」

「うん。衣装も中身も全部」


紙袋の中の人形も、もう一度見る。どれも美しい……のだろうけれど、怪我をした姿のものが多く、表情も陰鬱だった。中身ってこの人形のことだよな。


好みかと聞かれたら、答えに困る。それでも、細い指先やドレスのひだまでこの子が作ったのだと思うと、さっきより少しだけ見る目が変わった。


僕は昔から、この世界に何かを生み出す人を尊敬しているから。


「すごいね」

「でしょー?」


すごく嬉しそうだ。


「今日まで人形の家で展示してたんだよ。現代独創人形展」

「人形の家?」


少女が指さした先へ目を向けると、少し先に横浜人形の家と書かれた看板が見えた。


「ああ、あそこ」

「そ。今日は撤収の日」


なるほど。それでこの荷物らしい。


紙袋を持ち直そうとしているけれど、どう見ても一人で持つ量じゃない。


「一つ持とうか? 駅までだけど」

「え、いいの?」


「ぶつかったの僕だし」

「私もぶつかったけど」


「じゃあ半分ずつってことで」


少し考えてから、少女は一番大きな紙袋を僕へ差し出した。


「じゃ、お願い」

「うん」


そのまま二人で山下公園を歩くことになった。海から吹いてくる風が、ジョギングのあとで火照った身体には少し冷たい。隣では黒いスカートの裾が揺れ、僕の持つ紙袋も風を受けてかすかに鳴った。


「そういえば、名前聞いてなかったね。僕は――」

「ねぇ。もしかして、白くん?」


「え?」


少女が立ち止まり、確かめるように僕の顔をじっと見た。


「やっぱり!」


「僕のこと知ってるの?」

「もちろん知ってるよ!」


にっと笑った。


「わたしも、黒ちゃんと一緒にダンジョン登ってるから」


足が止まった。


「えっ、黒? あの黒?」

「そそ、黒ちゃん」


「ええっ!?」


思わず大きな声が出た。


少女が楽しそうに笑う。


「そんな驚く?」

「いや、だって……」


こんなところで黒の仲間に会うなんて。本人には一度も会えないのに、その仲間とは偶然ぶつかるらしい。抱えている紙袋と目の前の少女を、思わず見比べた。


「私、摩耶。よろしくね、白くん」

「う、うん。よろしく。摩耶ちゃん」


また歩き出してからも、聞きたいことはいくらでも浮かんできた。せっかく黒をよく知る人が隣にいるのだから、まずは――。


「黒って、普段どんな――」

「それよりさ」


質問を遮って、摩耶が僕の顔を覗き込んできた。


「白くんって、ハイネちゃんのこと好きなの?」

「えっ」


足が止まりそうになった。


「なんで急にハイネ?」

「いいから。好き?」


「いや、その……」

「好きなんだ」


「まだ何も言ってないよね?」

「顔に書いてある」


思わず頬を触る。


「書いてないよ」

「あはは。白くん、面白いね」


何がそんなに面白いんだろう。


「ハイネとは、その……昔から仲がいいだけで」

「ふーん」


「本当に、何もなくて……」

「へえー」


全然信じていない顔だった。


摩耶は僕の横を歩きながら、何度か一人で頷いている。


「なるほどねえ」


「何が?」

「ううん。なんでもない」


絶対、なんでもなくない。


それからも摩耶は、ハイネとはいつから知り合いなのか、二人でどこへ行くのか、普段どんな話をするのかと、やたら細かく聞いてきた。


僕も黒のことを聞こうとしたけれど、気づけば僕の方がずっと答えていた。


やがて、摩耶と別れる場所まで来た。


「ありがと、白くん。助かった」

「ううん。僕も黒の仲間と会えるとは思わなかったし」


紙袋を返したところで、一つ思い出した。聞きたいことばかり考えていたけれど、伝えてもらいたいこともあった。


「あ、そうだ。摩耶ちゃん」

「ん? どうしたの?」


「黒に会ったら、伝えておいてくれる?」

「いいよ。なに?」


「『待ってたぜ』って言ってくれて、元気が出たよ。ありがとう、って」


摩耶の動きが止まった。


「……え?」


「前に、黒からメッセージが来たんだ。ハイネ経由だけど。ちょうど色々あった時だったからさ、嬉しかったんだよね」

「…………」


「だから、ありがとうって伝えておいて」


摩耶は僕を見たまま黙っていた。返事を待っていると、なぜかその肩が震え始める。


「どうしたの?」

「……っ」


突然、摩耶が吹き出した。


「あはっ……あははははは!」

「え?」


「あははははは! だ、駄目……!」


お腹を押さえて笑い始める。


「そんなに変なこと言った?」

「違う、違うの! 白くんは何も悪くない!」


「じゃあ、なんで笑ってるの?」

「ごめん、これは……あはははっ!」


全然分からない。


目に涙まで浮かべながら、摩耶はしばらく笑い続けた。


ようやく落ち着くと、人形の入った紙袋を抱き直す。


「分かった。ちゃんと伝えとく」

「お願い」


「うん。絶対伝える」


なぜか、その言い方が妙に楽しそうだった。


「じゃあね、白くん」

「うん。またね、摩耶ちゃん」


手を振って離れていく摩耶を見送った。数歩進んだところで、また肩が震えている。


……まだ笑ってる。


黒の仲間って、変な子だな。


そう思いながら、僕も歩き出した。

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