black side 9
十一月十六日、午前二時過ぎ。
伊勢佐木の店はもう閉めていた。営業中の音が消えた2階には、冷蔵庫の低い唸りと、外を走る車の音だけが薄く届いている。
明日の夜、ついに百階へ行く。その前日である今日は、柴田が勝手に決めた完全休養日だ。だから俺はソファに座って、何もしていない。
何もしなくていいはずなのに、どうにも落ち着かなかった。
昨日の夜、ハイネから白も来ると連絡があった。摩耶には、あれからしつこく聞かれたから、相手は白だとだけ言った。
「黒ちゃん」
「何」
「さっきから何回鏡見てるの?」
「見てねえ」
「見てるよ」
カウンターに頬杖をついた摩耶が、面白そうに俺を見ている。
「髪触って、鏡見て、また髪触ってる」
「うるせえ」
「今日、白くんに会うんだもんね」
「関係ねえよ」
反射で答えると、摩耶の口元がすぐに上がった。
「じゃあ、そのジャケット何で替えたの?」
「替えてねえ」
「替えたよ」
「これは違う」
「何が?」
自分の袖を見ると、黒い生地に照明の光が薄く乗っていた。さっきまで着ていたのも黒だったが、こっちの方が少し光沢があって、生地も重く見える。
「……こっちの方がもうちょっと黒いだろ」
摩耶が吹き出した。
「全部黒だよ!」
「違うだろ、全然違う」
「何が違うの!?」
服なんかどうでもいい。白に格好いいと思われたいわけじゃないし、そもそも男だ。会ったことすらない。
ただ、ハイネもいる。
袖の皺を指で伸ばしてから、その手を膝へ戻した。だから、まあ、いつも通りでいい。
「そんな楽しみなんだ?」
「楽しみじゃねえ」
「ふーん」
俺はソファへ深く座り直した。革が小さく鳴る。
少しして、摩耶がグラスの縁を指でなぞりながら言った。
「白って、どんな子かな。エリート学校のお坊ちゃんなんでしょ〜?」
「知らねえよ。会ったこともねえし」
「だから今日会うんでしょ?」
「……そうだけど」
言った瞬間、しまったと思った。
案の定、摩耶が笑う。
「やっぱ楽しみじゃん」
「違う」
摩耶が、にやっと笑った。
「そういえばさ」
「何」
「『待ってたぜ』。白くん、喜んでたよ?」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「元気出たって」
「なんでお前が知ってんだ?」
「さあ?」
「お前、白のこと知らねえんじゃねえの?」
摩耶が肩を揺らして笑う。
「最初はね。ハイネちゃんから聞いててさ、昨日ね、本人にも会ったの」
「……会った?」
「うん。山下公園で偶然」
「なんで俺より先に会ってんだよ」
「知らないよ」
くそ。何なんだそれ。こっちは何度も会い損ねてるのに、こいつは公園で偶然、かよ。
「ちゃんと伝えるね。白くんから伝言」
「何」
「『待ってたぜって言ってくれて、元気が出た。ありがとう』だって」
「……」
あれ、ハイネが勝手に送ったやつじゃねえか。それに礼を言われても、どうすりゃいいんだよ。
俺が黙っていると、摩耶はこっちを見て、また笑い始めた。
「お前、絶対ハイネから何か聞いてるだろ」
「さあねー」
「うぜえ」
「じゃあ何話すの?」
「知らねえ」
「ハイネちゃんの話?」
「それはしねえ」
絶対しない。
「じゃあランドマークタワーのことぉ?」
「……まあ、それなら」
それなら話せる。同じ探索者で、同じ百階を目指しているんだ。それに、九十六階で死にかけた話は、少しだけ聞いてみたいとは思っていた。
「黒ちゃんと似てるよね」
「どこがだよ。似てねえ」
「早いなあ」
「俺は一回もやめてねえだろ」
「そういうところじゃないよ」
「じゃあどこだよ」
「さあ?」
何だそれ。
俺はテーブルの上のスマートフォンへ目を落とした。
白の顔も声も、まだ知らない。ハイネが何度も名前を出してきたせいで、何となく知っている気にはなっているが、今日は摩耶までそいつの話をしている。俺の知らない顔で、俺の言葉に礼を言っていたらしい。
数時間後には、その空白に顔と声が入る。
そう考えると、百階へ行く前より妙に落ち着かなかった。
その時、スマートフォンが震えた。テーブルを伝わる振動音が、静かな店内にやけに大きく響いた。
◇
系列の店からだった。
こんな時間に電話してくる理由なんて、ろくなもんじゃない。
「何」
『黒さん!』
向こうでは怒鳴り声と、何かが割れる音が重なっていた。
「落ち着け。何があった」
『店が襲われてます!』
俺は立ち上がった。
「誰がやられた」
『え?』
「店はいい。人は?」
『何人か殴られてます。まだ中にも――』
電話の向こうで悲鳴が上がり、続いて火がどうとか叫ぶ声が聞こえた。
「分かった。今行く」
電話を切って顔を上げると、摩耶はもう立っていた。さっきまでの笑いが、口元から消えている。
「わたしも行くよ」
「おう」
摩耶と店を出る時には、さっきまで何を話していたのか、考えている暇はなかった。
今日は休みだった。たぶん、それももう終わった。
◇
店の近くまで来ると、夜の空に煙が伸びているのが見えた。
消防車はまだ来ていない。割れた窓から火が漏れ、道路には店のスタッフと客が散らばっている。そのすぐ横で、十人近い男たちがまだ暴れていた。
倒れた人間を蹴っている奴の横で、別の男が、店から出てきたスタッフへ棒を振り上げていた。俺が道路へ出ると、そのうちの一人がこっちを見た。
「黒だ!」
知ってんのか。なら話は早い。
棒を振り上げた男の腕へ影を巻きつけ、そのまま道路へ叩きつける。横から来た奴の足を影ですくい、倒れたところへ蹴りを入れた。
三人目が魔力を集める。デカいのを撃つつもりなのだろう。
だが、遅い。
影が地面を走り、足元から身体へ這い上がる。そのまま電柱へぶつけると、男は動かなくなった。
「黒ちゃん、右」
摩耶の声と同時に影を伸ばし、振り向く前に、背後から飛んできた刃を弾いた。
「分かってる」
割れた窓の向こうでは、まだ火が回っていた。入り口近くに二人倒れているのが見え、俺はそっちへ顎を向けた。
「摩耶、中見てくれ」
「分かった」
俺は外に残った。摩耶が中へ入っている間に、こいつらがまた誰かを殴れば怪我人が増える。逃げようとした一人の足へ影を絡ませ、引き倒した。
「誰だ、お前ら」
返事の代わりに殴りかかってきた。
そいつの右手を影で絡め取り、そのまま手首をへし折る。男が握りしめていた紫色に光る小刀が、地面に落ちた。
アスファルトにぶつかった金属音に、ばちばちと電撃の弾ける音が重なった。
普段タワーでやり合ってる魔物と比べると見劣りするが、コイツらは違法な魔道具で武装している。
「気をつけろよ、摩耶」
見ると摩耶の前では、二メートルほどに巨大化した人形のミミちゃんが、意識のない男の足首を掴んでぶら下げていた。
「……大丈夫そうだな」
俺は最後まで立っていた男を壁へ押しつけて、その耳に近づいて最後のチャンスを与える。
「てめー、誰だ。誰の命令で来た? 慎重に答えろよ?」
俺の後ろでは、ミミちゃんが男の足首をつかんだまま壁に打ちつけ続けている。男は血まみれで、意識はない。
「全部話す!……公蔵会だ。俺も杯を貰ってる。あの時の返しだって」
俺は男の襟首を離し、脳裏に残った言葉を反芻する。
公蔵会。その名前を聞いた瞬間、腹の底に古い感覚が戻った。
昔やり合った、胸糞悪い連中だ。あの時奪った金で手打ちにしてやったことを、忘れたらしい。
「まだいたのかよ」
男が血の混じった唾を吐く。
「こっちの台詞だ」
俺は男の顔面に蹴りを入れて黙らせた。
「中の人は全員出したよ。死んでる人はいなそう」
「そうか、ならいい」
燃えている店へ目を戻した。壁も、酒も、家具も、また買えばいい。問題は、公蔵会がまだ動いていることだった。
明日の夜から百階へ入れば、何日地上へ戻れないか分からない。その間にまた来られるのが一番面倒だ。
スマートフォンを出して柴田へ電話すると、二回目の呼び出し音で繋がった。
『……黒さん?』
「起きろ」
『はい』
一瞬で声が変わった。
「公蔵会が俺の店を燃やしやがった。今からぶっ潰すから、アイツらの本部も店も、分かるだけ全部調べろ」
『全部ですか?』
「できるだけでいいからよぉ」
続けて澪へ電話すると、今度は眠そうな声が返ってきた。
「寝てるとこ悪い。公蔵会って連中と喧嘩するからよ。ちょっと手伝ってくれないか」
『分かったにゃ』
「牙狼にも連絡しといてくれ」
電話を切ると、横にいた摩耶が俺を見ていた。
「今日、白に会うんじゃなかった?」
「あー、まあな、しょうがねえよ」
画面の時刻を見る。まだ間に合う。今は、まだそう思いたかった。
◇
朝が近づくにつれて、消防や警察、系列店との電話が増えた。怪我した奴の確認をしている合間にも、柴田と澪から公蔵会の情報が入ってくる。
拠点は一ヶ所じゃなかった。マッサージ店、キャバクラ、バカラ屋。直営でやっている店を絞り込むうちに、本部の場所も分かった。
時計を見るたび、ハイネとの約束が頭に浮かぶ。
だが、公蔵会を半端に残したまま百階へ行く方が嫌だった。
音声入力を開き、スマートフォンへ顔を寄せた。
『今日、行けねえ』
そこで一度止める。そのまま送る気になれず、入力を消して、もう一度口を開いた。
『今日、行けねえ。悪い』
送信。




