white side 9
訓練初日。
横浜から離れた海老名郊外にある、高階層探索者向けの民間訓練施設。
外から見れば大きな倉庫のような建物だったけれど、中にはいくつもの訓練区画があり、床も壁も魔法や高威力の攻撃を想定した造りになっていた。
入口には、見慣れた四人が立っている。
「遅いよ、白」
シエナが腕を組んでいる。
「五分前だけど」
トウヤが笑う。
その横でユイが小さく手を振り、ドランも静かに頷いた。
「……みんなも?」
「白だけ行かせると思った?」
ユイが呆れたように言う。
「九十六階で死にかけたの、白だけじゃないでしょ」
分かっていた。
彼らが揃って来てくれることを。自分の仲間だ。信じられないわけがない。
◇
あれから僕たちは五人で話をした。
登るという結論は出ていた。だけど、何時間もかけて話した。
もはや、学校の活動としてではない。完全に自己責任の無謀な挑戦だ。それに命を懸けるのか?
それぞれの家族と話し合って、承諾ももらうこと。四人はこう見えて、良いところの子息子女でもあるのだ。彼らの親が大事な子どもに簡単に命を懸けさせるとは思えなかった。
だから何人かの入れ替えも視野に入れていた。
それなのに。五人が揃って来てくれた。
僕たちは五人で九十六階へ行った。
なら、次へ進むための準備も五人でする。
そういうことらしい。
◇
施設の中央には、ヘルメスばあちゃんが凛と立っていた。その前には、見知らぬ男女が何人か並んでいる。
「全員揃いましたね」
「はい」
僕が答える。
その横で、シエナとトウヤの背筋が妙に伸びている。
「へ、ヘルメス様? 本日は……」
トウヤが頭を下げる。
シエナも続く。
「よろしくお願いいたします、ヘルメス様」
僕は二人を見る。
「何でそんな固いの?」
「白は黙ってて」
小声でシエナに睨まれた。
家では普通に「ばあちゃん」と呼んでいるから忘れそうになるけれど、二人にとってはそういう存在らしい。
ばあちゃんは何事もなかったように、隣に立つ男たちへ視線を向けた。
「こちらが、今回あなたたちを指導してくださる方々です」
四年に一度開催される、タワー攻略チーム世界大会。
その全日本代表チーム。
チーム最高到達階、六百九十階。
チームを率いるのが、カツヤ・トーサカ。
前衛。タンク。
探索者の間では『不屈』という二つ名で知られている。
その隣には、柔らかく笑う女性がいた。
アイ・ヘンドリク。
全日本チームのヒーラー。
初めて見た時、僕は勝手にユイみたいな人を想像した。後ろから全員を支える、穏やかなタイプ。
この時は、まだそう思っていた。
「では、始めなさい。白、成果がなければ登らせませんよ?」
ばあちゃんのその一言で、五人はそれぞれの訓練へ分けられた。これから三週間の合宿をする僕たちを残し、ばあちゃんを乗せた車が去っていく。
ドランと僕はカツヤさんのところへ。
ユイはアイさんのところへ。
シエナとトウヤも、それぞれ担当の指導者についていく。
「まず、お前の癖を見る」
そう言われてから、十分も経っていない。
「立て、白!」
声が飛んだ。
僕は床に転がったまま息を吐いた。肺が熱く、喉の奥には鉄みたいな味が残っている。
視界の端で影が動いた。
まずい。
身体を捻る。
木剣が頬のすぐ横を通り、風が皮膚を撫でた。
「遅い!」
「はい!」
床へ手をついて立とうとする。
でも、その瞬間。
次はどこから来る?
正面か。横か。それとも後ろ。
一瞬、考えた。
その一瞬で、肩へカツヤさんの木剣が落ちた。
「ぐっ!」
鈍い衝撃に身体が傾き、そのまま床へ転がる。
「また止まった」
頭上から声がした。
カツヤさんが木剣を肩へ担ぎ、僕を見下ろしている。
息ひとつ乱れていない。
「見えてないんじゃない。考えすぎてる」
「……はい」
「怖くなると、お前は全部を一度に見ようとする」
その言葉で、九十六階が浮かんだ。
ゴーレム、吹き矢、鉄格子、仲間、逃げ道。
全部を見なければいけないと思った。全部を何とかしなければいけないと思った。
そして、何もできなくなった。
「一個ずつだ」
カツヤさんが木剣を肩から下ろした。
「まず立て」
僕は立つ。
「次に見ろ」
前を見る。
「次に決めろ」
木剣が動いた。
分かった。
そう思った時には、もう遅かった。
また床へ転がされた。
◇
訓練期間は、三週間ほど。
費用を聞こうとした時、ばあちゃんから、
「あなたが気にすることではありません」
とだけ言われた。
つまり、聞かない方がいい額なのだと思う。
朝から晩まで、訓練は続いた。
走って、戦って、魔力を使う。状況判断に、撤退判断。視界を奪われた状態での行動、仲間が倒れた想定、自分が怪我をした想定。
途中で訓練内容が突然変更されることもある。
一番嫌なのは、僕たちが何も知らされないまま始まる訓練だった。扉を開けた瞬間に攻撃が飛んでくることもあれば、休憩だと思って座った直後に背後から襲われることもある。
最初の数日は、ずっと誰かに見られているような気がしていた。
僕だけじゃない。
ドランはカツヤさんから、前衛としての位置取りを徹底的に叩き込まれていた。
ただ攻撃を受けるだけでは駄目だ。仲間が逃げるための道を作る。崩された時に、誰を先に守るか。撤退すると決めた時、最後尾で何をするか。
巨大な盾を構えたドランが、カツヤさんの体当たりを受けて床を滑っていく。
「受けるだけが盾じゃない!」
「分かっている!」
「なら味方の道を作れ!」
ドランが歯を食いしばり、盾の角度を変えた。
少し離れた訓練区画では。
「ちょっと待ってください!」
ユイの悲鳴が聞こえていた。
追いかけているのは、アイさんだ。
「待ったら死ぬよ!」
「ヒーラーにこんな動き必要なんですか!?」
「必要! あったりまえでしょ」
「白! 見てないで助けて!」
「僕も、今、それどころじゃ、ない!」
「薄情者!」
直後。
僕の目の前へ木剣が飛んできた。
慌てて避ける。
「よそ見するな」
「はい!」
シエナとトウヤはカツヤたちのチームに所属するエルフ、ドギムに師事した。
シエナも索敵役として、視界を制限された状態や、複数の反応から優先順位を決める訓練を。トウヤは支援役として、誰へ先に補助を回すのか、戦況が崩れた時に何を切るのかを。
また、二人はドギムから、エルフとしての心得も教わっているようだった。ドギムは僕やトウヤたちと違って、この世界の生まれではない。
彼はこのランドマークタワーを降りて、この世界にやってきたのだという。ばあちゃんと同じように、違う世界から来たんだ。
◇
みんな、それぞれ違うことをやっていた。
でも、目的は同じだった。
もう一度、五人で帰ってくるために。
一週間後。
「来るぞ!」
今度は分かった。
正面。
いや。
カツヤさんの肩が少し開いた。
囮だ。
横。
僕は一歩下がる。
木剣が鼻先を通った。
その瞬間。
足元から蹴り。
「うわっ!」
完全には避けきれず、膝をついた。
でも。
止まらない。流れるように次につなぐこと。これを練習してきた。
床を蹴って、そのまま距離を取る。
ラディッシュを抜いた。
刀身へ淡い光が走る。
振り抜く。
白い斬撃が空間を走った。
カツヤさんが横へ避ける。
当たらない。
でも、追わない。
出口、壁、距離、自分の魔力。一つずつ見る。
カツヤさんが、ほんの少しだけ口角を上げた。
「今のは悪くない」
「本当ですか?」
「攻撃は駄目だ」
「どっちですか」
「でも、倒れなかった」
胸の奥が少しだけ熱くなった。
「もう一回」
「はい!」
◇
「はい、終わり」
女性の声と同時に、腕にあった青痣が淡い光へ包まれた。熱を持っていた痛みが、すっと引いていく。
「ありがとうございます」
「これくらいならすぐだよ」
アイさんが手を離す。
数秒後。
「白、構えて」
「え?」
蹴りが飛んできた。
「うわっ!」
咄嗟に腕で受け、そのまま横へ流す。
二撃目。
しゃがむ。
足が頭の上を通過した。
「ちょっと待ってください!」
「待ったら訓練にならないでしょ」
「ヒーラーですよね!?」
「そうだよ」
アイさんは楽しそうに笑っている。
「上級までなら治癒系は全部使えるよ」
「それは聞きました!」
「じゃあ問題ないね」
「何が!?」
また踏み込んでくる。
速い。
僕は横へ逃げた。
「高階層じゃね」
アイさんがそのまま追ってくる。
「ヒーラーだから守ってもらえる、なんて考えてたら死ぬよ」
蹴り。
避ける。
拳。
受ける。
「治す人間が最初に死んだら?」
「全員困ります!」
「正解!」
全然嬉しくない。
なんとか距離を取って息を整える。
少し離れたところでは、同じことを言われたらしいユイが床に座り込んでいた。
僕と目が合う。
ユイが無言で首を振った。
分かる。この人、ちょっと怖い。
◇
二週間後。
照明が落ちた。
視界が、一瞬で真っ暗になる。
直後。
音。
左。
身体を沈める。
風が頭の上を通った。
後ろから足音。
振り返らない。
前へ走る。
壁まで三歩。
一。
二。
三。
壁へ手をつき、そのまま右へ。
また音がした。
今度は見えた。
いや。
見えてはいない。
でも、分かる。
木剣の気配。
身体を捻る。
空振り。
そのままカツヤさんの腕を掴んだ。
「お」
初めて止めた。
でも、次の瞬間。
足を払われた。
「うわっ!」
床へ落ちる。
受け身。すぐ立つ。
止まらない。流れるようにだ。
距離を取る。
照明が点いた。
眩しさに目を細めると、カツヤさんが少しだけ笑っていた。
「今ので何個できた?」
「音を聞いて、壁までの距離を測って、逃げ道を作って……敵の位置も」
「音、距離、退路、敵。四つだ」
「四つ……」
「最初は一つもできなかった」
息が止まる。
「でも」
カツヤさんは木剣を下げた。
「まだ遅い」
「そこは褒めて終わってくださいよ」
「本番は褒めてくれない」
「……はい」
その通りだ。
◇
休憩時間。
僕は自動販売機の前でスポーツドリンクを飲んでいた。
汗が冷え始めて、少し寒い。
アイさんが隣へ来た。
「そういえばさ」
「はい」
「九十六階で会ったやつ」
ボトルを持つ手が止まった。
「黒い小さい魔物だっけ?」
「はい」
できれば思い出したくない。
それでも。
今は逃げない。
「黒い頭巾を被ってて、その額のあたりに黄色っぽい印がありました。ボロボロのマントみたいなのを着てましたね」
「そのマントで姿が消えるんでしょ?」
「……はい」
アイさんを見る。
「知ってるんですか?」
「そのものじゃないよ」
すぐに否定された。
「私も見たわけじゃない。ただ、似た記録を聞いたことがある」
「似た記録?」
「黒い頭巾。その額のあたりに黄色い印。それと、姿を消すマント」
心臓が少し速くなる。
「そいつです!」
「まだそう決めない」
アイさんの声が低くなった。
さっきまでの軽さが消える。
「姿はちょっと違うから」
「どんな姿だったんですか?」
「長身の男」
「男?」
「少なくとも、通信ではそう言ってた」
通信。
その言葉に、嫌な感じがした。
「両手と両足がね」
アイさんが自分の手を見る。
「燃えていたんだって」
「……燃えてた?」
なんだそれ?
僕はそのような生物を想像できなかった。
「炎みたいなものが、ずっとまとわりついていたって」
頭の中に、あの小さな黒い影が浮かぶ。
笑っていた。キキキ、と。でも、今聞いているものは全然違う。長身の男。炎。
ただ、黒い頭巾、額の黄色い印、姿を消すマント。そこだけが同じ。
「何階ですか?」
アイさんは、すぐには答えなかった。
「……七百五十」
「え?」
聞き間違えたと思った。
「七百五十階」
六百九十階まで登ったこの人たちより、さらに上。
世界記録の九百八十階から見れば下。
でも、僕にとっては想像もできないほど遠い。
「その人は?」
「分からない」
「分からない?」
「そのチームから残った最後の通信に出てきただけ」
アイさんは壁へ背中を預けた。
「黒い頭巾の長身の男。額のあたりに黄色い印。姿を消すマント。両手足が燃えている。ってね」
「……」
「その通信のあと」
わずかに間が空いた。
「チームごと消息不明なんだよね」
スポーツドリンクのボトルが、急に冷たく感じた。
アイさんが僕を見る。
「共通点がある。それだけの話だよ」
黒い頭巾、黄色い印、マント、消える。四つ。それだけなのに、頭から離れない。
「怖くなったか?」
後ろから声がした。
振り返ると、カツヤさんが立っていた。
いつから聞いていたんだろう。
「……はい」
正直に答えた。
「なら、やめるか?」
それには、すぐ答えられた。
「行きます!」
カツヤさんは数秒、僕を見る。
「そうか」
それだけだった。
「じゃあ休憩終わり」
「え!?」
時計を見る。
「まだ三分あります!」
「怖い話聞いて休んだだろ」
「それ休憩に入るんですか!?」
「立て」
不屈。
それは、訓練される側にも必要だと思う。




