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black side 8

「じゃあ、十七日でいいな」


俺が言うと、四人ともこっちを見た。


午前四時。営業を終えた伊勢佐木の店の2階には、もう客の声も上がってこない。テーブルの上には赤レンガ倉庫で買った装備と、柴田が追加で用意した資料が広がっていた。何度も開いた資料の端が、少し折れている。


ここ数日は、装備を揃える合間に訓練も続けていた。何度か五人でタワーの九十階に向かい訓練したのだ。広いし無料だしな。


戦闘が長引いたらどうするか。床が崩れたら、誰か一人が動けなくなったら、途中で撤退すると決めたら。前ならその場で何となくやっていたことを、一つずつ試していった。


牙狼が先に行きすぎて、摩耶が勝手なことをして、澪が追いかける。そこへ柴田の長い説明が始まって、俺がキレる。やっていることは大体いつも通りだったが、何度も繰り返すうちに、誰がどこへ動くのかは前より分かるようになっていた。


「十一月十七日ですね」


柴田の声で、資料から顔を上げる。


「おう」


「では十六日は完全休養日にします。装備の最終確認も十五日までに終わらせてください」


「完全休養日?」


牙狼が眉を寄せた。缶コーヒーの蓋を開ける音が、静かな部屋にやけに大きく響く。


「前日まで訓練でよくね?」


「駄目です」


「即答かよ」


「百階へ行く前日に疲労を残す理由がありません」


「酒は?」


「論外です」


「一本くらい」


「論外です」


牙狼が缶を持ったまま俺を見た。そんな顔で助けを求められても困る。


「飲むなよ」


「黒まで!?」


澪が隣で笑っている。摩耶はそのやり取りを聞きながら、テーブルの端に置かれた変な臭い玉を指先で転がしていた。


「じゃあこれ、結局持ってくの?」


「持ってく」


牙狼が即答すると、澪が露骨に顔をしかめた。


「嫌だにゃ」


「敵に効くかもしんねえだろ」


「味方にも効くでしょ」


摩耶に言われて、牙狼の勢いが少し落ちる。


「それは……まあ」


「置いてけ」


「黒!?」


「臭えんだろ」


「臭えけど!」


「じゃあいらねえ」


牙狼がまだ何か言いたそうにしていたが、無視してテーブルを見渡した。


緊急固定杭にワイヤー、回復薬、魔力灯。携帯鍋と食料の脇には、何に使うのか分からない物まで積まれている。柴田に聞けば全部説明するんだろうが、今それを始めさせたら朝になる。


この山を五人で分けて持って、百階へ行く。そう思うと、散らかって見えていたテーブルが、少し違って見えた。


準備は、ほぼ終わっている。あとは、持っていく俺たちの方だ。


「澪。身体は?」


「もう大丈夫にゃ」


澪は九十八階でやられた脇腹を軽く叩いてみせた。その手の動きを、つい見てしまう。


「痛くないにゃ」


「無理すんなよ」


「にゃ」


柴田を見る。資料へ落としかけていた顔が上がると、目の下がやっぱり少し黒かった。


「柴田……、寝ろ」


柴田が黙り、牙狼が吹き出した。


「お前、それ黒に言われんの相当だぞ」


「黒もしっかり寝るにゃ」


「黒ちゃん、寝つき悪いもんね……」


うるせえ。


俺のことになると急に口が揃う四人を見て、言い返すのも面倒になった。椅子の背にもたれると、身体に溜まっていた疲れが少し出てきた。


こんな時間まで起きて、同じテーブルを囲んで、くだらないことで揉めている。百階へ行くと決めても、こいつらはこいつらのままだ。


それでいいと思った。


「十六日は休み。十七日に行く」


笑い声が収まった。牙狼が缶を置き、摩耶の指も止まる。


「全員で百階」


四人の顔を順に見た。牙狼が頷き、澪がまっすぐこっちを見る。摩耶も、今度は茶化さなかった。


「了解です」


柴田が答えて、開いていた資料を揃える。


その紙の音を聞きながら、俺はもう一度、テーブルに並んだ装備を見た。買ったばかりだった物に、もう細かい傷がついている。


あと少しで、こいつらを本当に使う。


◇


それから数日後の夕方、俺は眠い目をこすりながら野毛山の坂道を上っていた。


俺にとっては、まだ朝みたいな時間だ。坂を上る足まで重い。できることなら、さっきまで寝ていた布団へ戻りたい。


なのにここまで来ているのは、昨日ハイネから連絡があったせいだった。


『黒、明日ちょっと来て』


読み上げ音声から、ハイネによく似た声が流れた。俺は焦って「嫌だ」と返したのに、次に届いたのは『待ってるね』だった。


何でだよ。嫌だって言っただろ。

それで俺も、言われた通りに来たけどさ。


「……くそ」


坂の先に寺の門が見えた。境内へ入って辺りを見回すと、すぐに白い耳が目に入る。


「あ、黒!」


ハイネがこっちに気づいて笑った。


坂を上っている間、あれだけ重かった足が、勝手にそっちへ向く。待っていたみたいに顔を上げたのを見て、来てよかったと思った。


……じゃねえ。


「何だよ」


「来た!」


「呼んだのお前だろ」


「でも嫌だって言ってたじゃん」


「でも来たよ」


ハイネは笑いながら俺の顔を覗き込んだ。近づいた白い耳の向こうで、まだ明るい空が見える。


「眠そう」


「眠い」


「ごめん」


「じゃあ呼ぶな」


言ってから、ハイネの耳が少し伏せたのが見えた。


「帰る?」


俺はあくびを噛み殺して、そっぽを向いた。そういう顔をさせたかったわけじゃない。かといって、今さら眠くないと言うのも変だ。


そもそも、帰るつもりなら来ていない。


「帰らねぇよ。親父さんは?」


「良かった! お父さんは町内会のお仕事に行ってるよ」


良かったと笑うハイネの顔が眩しい。


何なんだ、その顔。こっちは坂を上ってくるだけで、散々文句を考えてきたのに。


◇


ハイネの家は、古くからあるお寺だ。


ごちゃごちゃした街並みを抜けてここへ来ると、いつも少しだけ声を落としたくなる。境内に風が通って、木の葉が擦れる音がする。ガキの頃は、こういうのが『神聖な空気』ってやつなのかと思っていた。


本堂の裏へ回り、居住空間にある縁側へ並んで座った。腰を下ろすと、ようやく坂を上ってきた足が楽になる。


庭の木には夕方の光が残っていた。寝起きの目には、その葉の明るささえ少しまぶしい。細めた目を遠くへ向けると、見慣れたランドマークタワーが立っていた。


70階あたりから靄がかかり、その上では時折、稲光が走っている。ここは静かなのに、あの中では今も何かが暴れているんだろう。


「ねえ、黒」


「何だ?」


「百階、いつ行くの?」


「十七日」


ハイネの耳が一度だけ動いた。


「決めたんだ」


「おう」


「みんなで?」


「五人で」


「そっか」


ハイネもタワーへ目を向けた。それきり少し黙ったので、俺も何も言わずに隣にいた。横顔を見ても、何を考えているのかまでは分からない。


やがてハイネが、膝の上で手を動かした。


「それでね」


やっぱり、何かある。


俺はタワーから目を戻した。


「黒、十一月十六日空けて」


「何かあるのか?」


「あ、もしかして予定ある?」


「……休みだな」


「じゃあちょうどいいね」


「何がだよ」


ハイネがこっちを向いた。さっきまでタワーを見ていた目で、まっすぐ俺を見る。


「白と会ってほしいの」


その名前を聞いた途端、胸の奥が落ち着かなくなった。


「嫌だ」


「即答!?」


「何で会うんだよ」


「会ってみたくない?」


「別に」


「本当に?」


答える代わりに、庭へ目を逸らした。


会いたくないと言えば、たぶん嘘になる。何でまたタワーへ登り始めたのかも、どんな奴なのかも、気になってはいる。


ただ、今までは名前だけで済んでいた。


会えば、そいつがどんな顔で笑って、どんな声でハイネを呼ぶのかが分かる。ハイネも、俺の知らない顔でそいつに笑うのかもしれない。


それを自分の目で見るのは、何となく嫌だった。


「黒、大丈夫?」


「何が」


「すっごい考えてる」


「考えてねえよ」


「考えてる顔。ほら、眉間に皺が出来てるよ?」


白い指が伸びてきて、眉間に軽く触れた。反射的に顔を引くと、ハイネが笑う。


俺は庭の方を向いたまま、触られたところに力が入らないようにした。そんなことまで気にしているのが、また腹立たしい。


「白のこと気になるでしょ?」


「白? 別に。なんで、ハイネは俺たちを会わせようとすんだよ?」


俺の質問にハイネは空を見上げる。


「私にもわからないんだ。三人で遊べたら……って子どもの頃から思ってたのは本当だよ」


「でも、最近はね。そうしないとふたりが消えてしまうような。そんな気がするの」


「変、だよね?」


コロコロと変わるハイネの表情を見ていた。


「……俺が、消える?」


「気がするだけだよ! ねぇ、本当に白のこと興味ないのー?」


「ま、少しくらいはな」


「あ!」


「認めた」


「うるせえ!」


ハイネが嬉しそうにするから、余計に目を合わせづらくなった。別に、お前を喜ばせるために言ったわけじゃねえ。


それでも、せっかく口にした以上、聞いておきたいことはあった。


「何で、また登ることにしたんだ?」


「さあ」


あまりにあっさり返されて、俺はハイネを見た。


「ハイネ、知らねえの?」


「白の全部を知ってるわけじゃないよ」


当たり前みたいな言い方だった。


少し意外で、それから、少し安心した。ハイネに聞けば白のことは何でも出てくるような気が、勝手にしていたらしい。


「気になるなら、本人に聞けば?」


そこでようやく、自分がどっちへ話を運ばれていたのか分かった。


この前もそうだった。俺に喋らせて、そのまま白に送った。あの時と同じ顔で、ハイネは今も隣に座っている。


「お前、最初からそれ狙ってただろ」


「何が?」


笑ってやがる。絶対そうだ。


「性格悪いな」


「黒に言われたくない」


「俺はいいだろ」


「どこが?」


少しは考えてから答えろよ。


言い返す言葉を探しているうちに、ハイネがまた俺の顔を覗き込んだ。


「で? 会う?」


逃がす気のない目だった。俺は一度タワーを見て、それから、縁側の板へ視線を落とした。


「……条件ある」


「条件?」


「長くすんな」


「うん」


「お前もいろ」


「いるよ」


「絶対いろ」


「何で?」


聞き返されて、板の上に置いていた指を曲げた。


「知らねえ奴と二人にされても困るだろ」


「白は変なことしないよ」


「そういう話じゃねえ」


「じゃあどういう話?」


うまく言えなかった。


会って、何を話せばいいのか分からない。白がどんな奴かも分からない。そのうえハイネまでいなくなったら、何のために行ったんだか分からなくなる。


そこまで考えて、俺は話を切り上げた。


「あと」


「まだある?」


「俺が帰りたくなったら帰る」


「いいよ」


「分かった」


どの条件も、拍子抜けするほど簡単に通った。もう少し揉めると思っていたのに、ハイネは返事を待っている。


自分から出した条件に、逃げ道を塞がれた気分だった。


「……それでいいなら行く」


ハイネの耳が、ぴんと立った。


「ほんと!?」


「うるせえ」


「やった!」


「そんな喜ぶことかよ」


「喜ぶよ!」


隣で身体ごとこっちを向く。そこまで喜ばれると、今さら嫌だとは言えなかった。言うつもりも、もうなかったけど。


「じゃあ白にも聞いてみる!」


「まだ聞いてねえのかよ?」


「うん」


「先に聞いとけよ!」


「黒から聞きたかったの」


庭の隅を這っていたダンゴムシから、ハイネの顔へ目が戻った。


胸が一度、変な打ち方をした。そんなことを言った本人は、何でもない顔でこっちを見ている。


「……な、何でだよ」


「うーん、何となく?」


何となく、でそんなことを言うな。


俺はまた庭へ目を落とした。さっきのダンゴムシは、もうどこにいるか分からなかった。


「じゃあ十六日ね」


「おう」


「白が来るって言ったら、絶対来てね」


「分かったよ」


「絶対?」


ハイネを見た。冗談みたいに繰り返しているけど、返事を待つ顔はさっきより少し真剣だった。


「……絶対行く」


それでようやく、満足したように笑った。


庭を抜けた風が、縁側まで届いた。座った時より冷たくなっていて、いつの間にか日が傾いていたことに気づく。


「十七日も、ちゃんと帰ってきてね」


ハイネの声に、俺は顔を上げた。


今度はすぐに、うるせえとは返せなかった。ハイネは笑ったままだったけど、その向こうにタワーが見えている。


「要求多すぎだろ」


「二つだけだよ」


「分かったよ」


「約束」


「分かったって」


ハイネは俺の顔を見てから、小さく頷いた。


十六日に白と会って、十七日には百階へ行く。一日しか違わないのに、ずいぶん違う予定が並んだ。


百階のためには、ずっと準備してきた。何を持っていくかも、誰と行くかも、危なくなったらどうするかも決めている。


白に会った時、最初に何を言えばいいのかは分からない。


隣でハイネが嬉しそうにしている。その顔を見ていたら、聞くつもりだったことまで、うまく口にできなくなりそうな気がした。


死ぬかもしれない場所へ行くより、知らない奴と会う方が落ち着かないなんて、どうかしている。


◇


店へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。


階下から上がってくる音を背に2階へ入ると、摩耶がいた。こっちを見た顔が、何か面白いものでも見つけたみたいに緩む。


「おかえりー」


「何してんだよ」


「暇だったから」


「帰れ」


「ひど」


俺がソファへ腰を下ろしても、摩耶はこっちを見ていた。


「ハイネちゃんのとこ?」


「何で分かる」


「その時間に黒ちゃんが外出する理由、他にある?」


言い返せなくて、背もたれに身体を預けた。眠気が戻ってきているのに、頭の中だけは妙にはっきりしていた。


「十六日」


「ん?」


「俺、用あるから」


摩耶の動きが一瞬止まった。それから、ゆっくり口元が上がる。


「へえ」


嫌な顔だ。言わなきゃよかった。


「何だよ」


「黒ちゃんが予定」


「あるだろ」


「仕事以外で?」


黙っていると、摩耶が少し身を乗り出した。


「ハイネちゃん?」


「違う」


「女?」


「違う」


「じゃあ誰?」


「関係ねえ」


摩耶がにやっと笑った。何か掴んだつもりらしいが、教える気はない。


「ふーん」


「何だよ」


「別にー」


「十六日は休みだろ」


「そうだね」


「だから俺はいない」


「はいはい」


「何だその顔」


「何でもないよ」


何でもなくはない顔で言うな。


相手をするのが面倒になって、俺はソファへ横になった。まだこっちを見ている気配がしたが、目を閉じて無視する。


十一月十七日には、百階へ行く。


そのために調べて、買って、鍛えてきた。五人で何度も動きを合わせて、失敗したところはやり直した。目を閉じれば、訓練の時の足音も、柴田の長い説明も思い出せる。


なのに、気づくと考えているのは、その前日のことだった。


白はどんな奴なんだろう。


顔も、声も知らない。ハイネがあれだけ会わせたがる理由も、まだよく分からない。


ただ、俺が行くと言った時のハイネの顔は、目を閉じてもはっきり浮かんだ。


あんなに喜ぶとは思わなかった。


ソファの上で寝返りを打つ。誰にも見られていない方を向いて、ようやく少し息を抜いた。


予定は空けた。条件も全部、聞いてもらった。


今さら何だかんだ理由をつけて、あの顔をがっかりさせるのは嫌だった。


十一月十六日。


絶対に行く。

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