white side 8
「もう一度、登りたい」
言ってしまえば、思っていたよりもずっと簡単な言葉だった。
山手の家。
夕食を終えたあとのリビングには、まだ紅茶の匂いが薄く残っていた。
大きな窓の向こうには横浜の夜景が広がっている。坂の下に並ぶ街の灯り、そのずっと向こうには、みなとみらいの高層ビル群が見えた。
ランドマークタワーも。
ここからなら見える。
今日は、見ないふりをしなかった。
僕はソファの端に座り、ヘルメスばあちゃんと向かい合っていた。
ばあちゃんの背筋はいつも通り真っ直ぐで、膝の上で組まれた細い指も動かない。
少し離れたところには父さんと母さんがいる。母さんは両手でカップを包み、父さんはソファへ深く腰掛けていた。
二人とも何も言わない。
僕とばあちゃんの間にあるものを知っているからだ。
「白」
「うん」
「あなたは、私と約束しましたね」
分かっていた。
そこから始まると思っていた。
「帰還石を使わなければならないような事態になった時は、探索者を辞める、と」
「覚えてる」
「そして、あなたは使った」
「うん」
九十六階。
その数字を頭の中で思っただけで、暖房の効いた部屋にいるはずなのに指先が冷えた。
石壁が閉じる音、鉄格子、暗い通路の向こうで響いた笛、次々と現れたゴーレム。そして、身体の中へ直接針を打ち込まれたような痛み。
――シネ。
耳元でもう一度聞こえたような気がして、無意識に右手を握った。
ばあちゃんは、その小さな動きを見逃さなかった。
「怖くなくなったのですか?」
僕は首を振った。
「怖いよ」
声にすると、胸の奥に残っていたものが少しだけ形になった。
「今でも怖い」
「では、なぜ?」
言葉が止まる。
釣りをした日のことを思い出した。
カンタじいちゃんと、バロンじいちゃん。
二人の前で、僕は一度全部言った。
世界のためでも、歴史のためでも、誰かを救うためでもない。
そんな立派な理由じゃない。
「百階に行きたい」
ばあちゃんは何も言わない。
「探索者を、やめたくない」
「……」
「黒にも負けたくないし」
父さんの眉が少しだけ上がった。
母さんは、もう何かを察したように口元を押さえている。
嫌な予感がする。
「ハイネにだって……」
やっぱり言いづらい。
釣りの時に一度言っているのに、二度目だから楽になるわけでもないらしい。
「格好いいって思われたい」
父さんが咳払いをした。
母さんの肩が震えた。
僕は、視線だけで『笑わないでよ』と母さんに抗議する。
母さんが、口の動きだけで『ごめんね』と言う。
全然ごめんなさいの顔じゃない。
ばあちゃんは笑わなかった。
「それが、あなたの理由ですか」
「うん」
「子どもっぽいとは思いませんか?」
「思う」
即答した。
たぶん、誰より僕が分かっている。
十八歳にもなって、好きな女の子に格好いいと思われたい。会ったこともない男に負けたくない。百階へ行きたい。
そんな理由で、また死ぬかもしれない場所へ行こうとしている。
「それでも?」
「それでも」
僕は、ばあちゃんの目を見る。
「僕には、大事なんだ」
部屋が静かになった。
壁の時計が、やけに大きく聞こえる。
ばあちゃんはしばらく僕を見ていた。それから目を閉じ、ほんの少しだけ長い息を吐いた。
「困った孫ですね」
「ごめん」
「謝って許されるのであれば、最初から約束などしません」
「……はい」
何も言い返せない。
あの約束は、僕を縛るためだけにしたものじゃない。
ばあちゃんが僕を死なせたくなくて、それでも僕が探索者になることを認めるために、ぎりぎりのところで決めた約束だった。
それを破ろうとしている。
分かっている。
「それに」
ばあちゃんが目を開ける。
「あなたは、九十六階で同じものに遭遇したらどうするつもりですか?」
今度は答えられる。
これは、考えてきた。
「九十六階には行かない」
「……何ですって?」
「別の道から行く」
父さんと母さんも、同時に僕を見る。
「八十階から、百階まで行けるルートがあるらしいんだ」
ばあちゃんの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「八十階から?」
「うん」
「探索者組合は、そのようなルートを把握していません」
「秘密の道なんだって」
「誰から聞きました?」
来た。ここだ。バロンじいちゃん、大丈夫。名前は出さない。
「超ベテラン」
「……」
「すごいベテランの探索者」
「名前は?」
「秘密」
「白」
「言えない」
ばあちゃんの目が細くなった。
怖い。
九十六階とは違う種類の怖さだ。
でも、ここで言ったら、たぶんバロンじいちゃんは死ぬ。
しばらく僕を見つめたあと、ばあちゃんの表情がごくわずかに変わった。
怒ったというより、呆れたような。
何かを納得したような顔だった。
「……そうですか」
「あれ?」
思わず声が出た。
「怒らないの?」
「何にです?」
「いや、その……」
「何でもありません」
分かった顔をしている。
絶対分かってる。
「ばあちゃん?」
「私は何も聞いていません」
完全に分かってる! バロンじいちゃん、逃げて。
「ただし」
声が変わった。
さっきまでの呆れが消える。
「別の道があるからといって、危険がなくなるわけではありませんね」
「うん」
「あなたも、それは理解しているでしょう」
バロンじいちゃんにも言われた。
今の僕が行けば、たぶん死ぬ。
秘密の道だから安全なんじゃない。
九十六階を通らないだけで、別の危険がある。それに……。
「それに、あなたが怖かったのは、その魔物だけではない」
ばあちゃんの声が、すぅっと頭に染み込んでくる。一番の問題。
「仲間を失うことが恐ろしかったのでは? まだ、高校生のあなたのお友達。先ほどの子どもじみたわがままで命を預かるのですか?」
「仲間とはキチンと話します。必要があれば、たとえ仲間を変えたっていい。本当の気持ちを伝えるつもりです」
ドランたちはきっと行くと言うだろう。
それでも、ちゃんと話そう。これに大事な命を賭けていいのか、を。
ばあちゃんは、僕から視線を外さなかった。
「前回と同じあなたのまま、行くことは認めません」
息が止まった。
「え?」
「行くのでしょう?」
「……いいの?」
「良いとは言っていません」
やっぱり。
「私は、今でも反対です」
「うん」
「できることなら、二度と塔へ入ってほしくありません」
静かな声だった。
窓の向こうでは、横浜の街が何事もなかったように光っている。
僕は何も言えなかった。
その言葉は、怒られるよりずっと痛かった。
ヘルメスばあちゃんが僕に帰還石を渡した日のことを思い出す。
あれは、お守りじゃない。
最後の最後。
僕が死なないための道だった。
そして僕は、本当にそれを使った。
ばあちゃんが想像していた最悪の出来事が、本当に起きた。
それなのに。
僕はまた、登りたいと言っている。
「……ごめん」
「謝らないでください」
少し強い声だった。
「あの日……」
顔を上げる。
ばあちゃんの眉間には細い皺が寄っていた。
怒っている。
でも、それだけではない。
「あなたが生きて帰ってこなければ、私は自分を許せなかったでしょう」
「……うん」
「だからこそ、もう一度同じことになるのが嫌なのです」
胸が詰まった。
ばあちゃんは少しだけ視線を落とした。
膝の上で組まれていた指が、一度だけ強く重なる。
それから、また僕を見る。
「ですが」
長い息を吐いた。
「私が反対した程度で止まるのであれば、あなたはそもそもここまで登っていないのでしょうね」
「……」
否定できない。
ばあちゃんの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「ならば、せめて生きて帰る準備をしなさい」
すぐには返事ができなかった。
許された。一瞬そう思った。でも違う。
ばあちゃんは、僕が塔へ行くことを好きになったわけじゃない。今だって嫌なのだ。
それでも、僕が自分で選んだものを、最後には僕のものとして受け止めてくれた。
「……うん」
喉が少し詰まった。
「ありがとう」
「まだ礼を言うところではありません」
いつもの声に戻る。
「かなり厳しくします」
「……はい」
そこで、ようやく父さんと母さんの方を見た。
母さんは心配そうに僕を見ていた。それでも、僕と目が合うと、ほんの少しだけ笑った。
その隣で父さんが、母さんに見えないようにこっそり親指を立てている。
僕の視線を、ヘルメスばあちゃんが追う。
父さんの親指が、静かに下がっていった。
――許してくれた。
こんなわがままな僕を。
◇
自分の部屋へ戻る。
部屋の明かりをつけると、机の脇に置いたままの細長いケースが目に入った。
あの日から、一度も触っていない。
埃が積もるほど長い時間ではないのに、ずいぶん昔のもののように見えた。
ケースを机の上へ置く。
留め具に指をかけたところで、手が止まった。
これを開けば、本当に戻る。
そんな気がした。
カチッ。
小さな音がした。
蓋を持ち上げる。
黒い布の上に、ラディッシュが寝ていた。
何も変わっていない。
僕が勝手に離れていただけだ。
あの日、僕が『今までありがとな』と言ったら、こいつは、
『……腰抜けが』
そう言った。柄へ手を伸ばし、握る。
手のひらに硬い感触が戻ってくる。
少し重く感じた。
でも、重さが変わったわけじゃない。
変わったのは僕だ。
「……また、よろしく」
沈黙。
「聞こえてる?」
返事はない。
「ラディッシュ?」
数秒。
頭の奥に、ひどく不機嫌そうな声が響いた。
『……遅えよ』
一瞬、呆気に取られた。
それから笑った。
胸の奥にあったものが、少しだけほどけた。
「ごめん」
腰へ差す。
重さが身体の横へ戻ってくる。
『へへっ。じゃあ行くんだろ? 百階に』
「ああ、また一緒に冒険できるな!」
久しぶりなのに、そこにあることの方が自然だった。
◇
翌日。
僕はハイネを呼び出した。
みなとみらいの海沿い。
日が傾き始めた空は薄い橙色で、海の向こうから吹いてくる風には十月らしい冷たさがあった。
ベンチの向こうを、犬を連れた人や、買い物帰りらしい家族が通り過ぎていく。
その中で、ハイネの白い耳だけが風に合わせてふわふわと揺れていた。
「で?」
隣に座ったハイネが僕を見る。
「話って?」
「うん」
昨日は家族に言った。
今日はハイネだ。
家族へ話す時とは違った怖さだ。
もし、嫌われたら……。
格好いいところを見せたいなんて言ったけど、ハイネがそんなことを望んでいないのは分かっている。それでも、やりたいんだ。
「僕、また登るよ」
風に揺れていた白い耳が止まった。
ハイネの表情から、さっきまでの柔らかい笑みが消える。
驚いたというより、僕の言葉をちゃんと受け取ろうとしている顔だった。
「だよね。……怖くない?」
「怖い」
迷わなかった。
「今でも?」
「うん」
「それでも?」
「うん。やりたいことが分かったから」
ハイネは僕から視線を外して、海を見た。
白い耳がまた風に揺れ始める。
少し長い沈黙だった。
「そっか」
ようやくそう言って、小さく笑った。
「止めない?」
「止めてほしい?」
「……嫌だ」
「じゃあ止めない」
即答だった。思わず笑いそうになる。本当にハイネらしい。
でも、次に僕を見た時、その目は少しだけ寂しそうだった。
「ただ」
「うん」
「ちゃんと帰ってきて」
胸の奥を、何かに掴まれた。
一瞬。
黒にも、同じことを言ったのかな。
そんな考えが浮かぶ。
自分でも嫌になるくらい、自然に。
でも。
今は僕の話だ。
「帰ってくるよ」
「絶対?」
「絶対」
ハイネが右手を持ち上げ、小指を出した。
「何それ」
「約束」
「子どもみたい」
「白が言う?」
「何で僕」
二人で笑った。
僕も小指を出す。
指先が触れる。
ハイネの指は、秋の風のせいか少し冷たかった。
小指を絡める。
「絶対帰ってくる」
「うん」
「百階行って」
「うん」
「それから」
言葉が止まった。
百階の先で何をするのか。どこまで行くのか。
僕にもまだ分からない。
でも、今は全部を決めなくてもいい。
そう教えてくれたのも、ハイネだった。
「また、ハイネに会いに来る」
ハイネの目が少し大きくなった。
それから、いつもの笑顔になった。
「待ってる」
海の向こうで夕日が揺れていた。
僕の探索者としての冒険は、一度終わった。そう思っていた。
でも、どうやら、まだ終わっていなかったらしい。




