幕間:十四年後
母が死ぬ。
その言葉を聞いた時、私は意味が分かったつもりで、まったく分かっていなかった。
「……もう一度、言ってください」
白衣を着た人間の医師が、目を伏せた。
「アメージア様は、今夜を越えられない可能性があります」
隣に立つエルフの治癒術師は俯いたままだった。いつもなら医師の説明に何かしら付け加えるその人が、何も言わない。
「何を言っているの?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「母はエルフよ。死を待つような年齢ではないでしょう」
母には膨大な魔力がある。エルフの身体は、その大部分が魔力で出来ていて、その魔力量で寿命が決まる。伝説の魔女のように千年たっても若々しい者もいるし、母も少なくとも四百年は生きるはずだった。
十四年前、この世界へ来たばかりの母は、元の世界の多数の住民の命を救った。そして今では、この世界に根を張り、魔法で人の心を操らずとも人間社会が私たちを選ぶ、そんな支配の完成までもう一歩というところまで来ていた。
たとえこの世界の銃火器で撃たれようと、自らの魔法で直ちに修復してしまう。
その母が、病気で死ぬ。
そんなことを言われても、何をどう受け止めればいいのか分からなかった。
「上級治癒魔法は?」
「何度も行っています」
治癒術師が、ようやく顔を上げた。
「傷ついた肺を修復しても、しばらくすると、また同じ場所が壊れていくのです」
「なら、また治せばいいでしょう」
「繰り返すうちに、アメージア様のお身体が、治療に耐えられなくなってきています。傷む場所も増えています。これは……」
私は人間の医師を睨む。
「この世界特有の疾患なのであれば、この世界の人間に調べさせなさい」
「ヘルメス様。もちろん、この国の医療関係者達にも協力させていますが、身体組成が違いすぎるのです」
「ならば世界中から識者を集めればいい。必要な物があるなら、何でも用意します」
二人が黙った。
そして、誰も頷かなかった。
私は返事を待った。命令を聞き取れなかったはずはない。もう一度言おうとして、喉が詰まった。
私たちは、この世界を征服している。
旧アメリカを制圧し、国号をプルメリアへ変えた。軍や政府を作り直し、人間たちが望んで私たちを選ぶようになった。
逆らう者は退けた。必要なら、考え方そのものまで変えた。
それができる私たちに、どうして母の命が救えない。
どうして。
◇
母たちが世界へ伸ばした手は、いつも目に見える形を取ったわけではなかった。
記憶を操り続けるには、術師が対象のそばにいなければならない。母ほどの力がなければ、一人か二人が限界だった。
だから母は、各国の権力者のもとへ術師を送り込んだ。表向きは、彼らを助ける協力者として。
困難を解決し、信頼を得る。必要なら迷いや恐怖に少しだけ魔法で触れ、それでも邪魔になる者は排除する。やがて魔法を使わなくとも、その人間は術師の言葉に耳を傾けるようになる。
ある国の指導者が、机に置かれた進軍計画を前に手を止める。昨日までなら即座に署名したはずの紙を見つめ、考え直す。
今ここで攻めれば、取り返しがつかなくなるのではないか。
本人には、自分で選んだ判断だった。実際、何年もかけて信頼を得た術師には、もう魔法を使う必要すらなかった。
母は言っていた。
すべてを変える必要なんてない、そもそもそんなことは出来ない、と。
右へ進もうとしている人間を、ほんの少し左へ向ける。その先で出会う者が変わり、戦う相手が変わる。生きる者と死ぬ者が変わって、十年も経てば、歴史そのものが違う場所へ進んでいる。
大統領や総督だけでなく、官僚、財界人、新聞社の経営者まで。母たちは十四年かけて、人間社会を動かす者たちの信頼を手に入れてきた。
それでも各地で戦争は起きた。一人の指導者を止めても、別の誰かが銃を取る。私たちの手が届かない場所で、人間たちは争い続けた。
私たちが望む方へ、人間たちは素直に歩いてはくれなかった。
魔法も使えず、寿命も短い。その弱い人々が、何をそこまで守り、何を奪い合っているのか。
母の隣で報告を聞きながら、私は何度も理解に苦しんだ。
◇
RN0014年。
地球の暦では、西暦1945年と呼ばれる。
この世界へ来た時には想像していなかったほど巨大な戦争が、ようやく終わろうとしていた。
各国の政府は、自分たちの意志でその結末を選んだと思っている。その判断に、私たちが植えた迷いがどれだけ混ざっているのか、知る者はほとんどいない。
それでも今では、魔法を使わなくても人間たちは自ら私たちに協力する。
うまくいっていたのだ。
◇
「……母一人、救えないの?」
目の前の医師が唇を噛んだ。
「申し訳ありません」
「謝罪を聞きたいわけではありません」
「我々も力を尽くしたのです」
若い男だった。母とは比べものにならないほど短い時間しか生きていない。その人間が、今は私よりも母の身体について知っている。
「我々の薬がエルフにどう作用するのか、まだ十分な実証データがありません。人間とは身体が違いすぎるのです」
「……分からないことばかりです」
治癒術師が、自分の手へ目を落とした。
「壊れた身体を治す術は知っています。しかし、その内側で病の原因が何をしているのか。この世界の医学でウイルスや菌と呼ばれるものに対して、我々は知識も免疫もないのです」
人間の医師と、エルフの治癒術師。
二人は同じ部屋に立ち、同じ患者を診ていた。それなのに、一方が知っていることを、もう一方は知らない。
治す術がある。原因を調べる知識がある。
それを持ち寄るには、十四年では足りなかった。
そして、母だけではなく、多数の同胞が体調を崩し、中には命を落とす者もいる。
「……このようなことが」
二人が私を見た。
「十四年も一緒に暮らして、何をしていたの、私たちは」
自分の声が震えていた。責める相手を探していたのに、その言葉は、私自身へ戻ってきた。
◇
母の部屋は、廊下よりも暖かかった。
薬品の匂いの中に、汗の匂いが混じっている。枕元の魔道具が淡く光り、その明かりに照らされた母の髪が、頬へ貼りついていた。
あれほど大きな存在だった人が、寝具の中でひどく小さく見えた。
「ヘルメス」
目を開けた母が、私を呼んだ。
「近くにいる?」
「ここにいます」
椅子を寄せ、寝具の上に出ていた手を握った。
熱かった。
指の間に汗が滲んでいる。私が握ったことを確かめるように、母の指がわずかに曲がった。
「……変な感じね」
「何がですか」
「あちこちが痛くて、とても苦しいの。まるで、お婆さんみたいでしょ?」
途中で息を継ぎ、母は薄く笑った。
「ママ……」
多くの同胞たち、多くの人間たちを前に指導者として君臨した母は、いつも力強い目をしていた。燃えるような赤い瞳で。
その目が今は、私の顔に焦点を合わせるだけで疲れてしまう。分厚い掛け布団に埋もれるように横たわる母の身体はひどく痩せていた。
「……不思議ね。母さんの予言は回避したのに、この世界でこんなことになるなんてね」
私は母の髪を頬から除けた。その下の汗を、拭う。
「この世界の『人間』は少し、違うな」
「違う?」
「殺し合ってばっかりだったのに、……今では手を取り合っている」
また汗を拭おうと布へ手を伸ばした。けれど母の指が動いたので、握っていた方の手は離せなかった。
「ママがそうしたのでしょ?」
「いいえ。きっとね。これはプロセスなのよ。遥か未来のために必要な、ね」
「どういうことかしら?」
「……」
言ってから、続きを探した。
もっと話せる。もっと見られる。まだ知らないことは、いくらでもある。
どの言葉も、声にする前に喉へ引っかかった。
「私。本当はね。エルフのことだってわからないのよ」
母は目を閉じた。
その両頬から雫が落ちる。
「自分の母親のことでさえ、わからなかった」
浅い呼吸が続く。時折、その間が長くなった。私は次の息を待ちながら、握った手を両手で包み込んだ。
時が止まったように感じた。
鳥さえ鳴いていない。
やがて母の瞼が、ゆっくりと開いた。
私を見ている。
けれど、さっきとは違った。
張りつめていた口元が緩み、眉の間にあった苦しそうな皺が薄くなる。母は私の顔を、確かめるように見つめた。
「……お母さん?」
「ママ、私は――」
言いかけて、止まった。
母が笑ったからだ。
国を率いていた時にも、私を叱る時にも見せなかった、ひどく幼い笑顔だった。
「来て、くれたの」
熱に潤んだ目が、私の向こうにいる誰かを見ていた。
ヨルカ。
母が待っていた、母。
私は唇を閉じ、握った手に頬を寄せた。
百年以上前、祖母は突然家へ来て、幼い私を抱き上げた。
『勇者様が召喚されてくる元の世界へ行くのよ』と。
いつものように甘えた私に、大きくなったらねと笑った。そのまま帰ってこなかった祖母。母はどれほど待っていたのだろう。
身勝手な人だと呆れながら、その帰りを話題にしなくなってからも。母は、母を思っていたのか。
祖母は、普段は明るく笑っていたという。けれど、いなくなった兄のことになると、娘である母の前でひどく泣いた。幼い母は、そんな祖母を何度も慰めたのだと聞いている。
それでも、母にも祖父にも、祖母の寂しさを埋めることはできなかった。母はそのことを、ずっと悲しんでいたのだろうか。
母の指が動いた。
私の頬へ触れようとしていると気づき、私は少し顔を寄せる。
熱い指先が、私の目の下を撫でた。
「お願い。もう、泣かないで……」
母は自分の息を整えるように、しばらく黙った。
私は何も言えず、頷いた。けれど、その言葉は私ではなく、祖母ヨルカに向けられていた。
「お兄ちゃんに……」
声が細くなる。
聞き逃さないよう、顔を近づけた。母の瞳に私が映っていた。その目に、私とは違う人が見えている。
「お兄ちゃんに、会えると、いいね」
母の口元に、また笑みが浮かんだ。
私は頬に触れた手を支える。
国のことも、自分の命のことも、母はもう口にしなかった。
そして、私のことさえ口にしなかった。
ずっとそばにいたのに。
そんなことを思ってしまう自分が嫌だった。母がどれほど祖母を愛していたか、私は知っている。それでも、少しだけ恨めしかった。
母は最期まで、祖母の寂しさを案じていた。
自分の母親に、会いたい人がいることを覚えていたのだ。
「私たちは間違いなく母娘のようね」
私は何故か気が緩み、笑って言った。
母が息を吐いた。
「ヘルメス……」
指先から力が抜け、私の手に重さがかかった。
私はその手を握り直した。
「……ママ?」
返事はなかった。
次の息を待った。さっきも少し間が空いた。今度も、待っていれば胸が動くと思った。
「ママ!」
私は母の手を離さなかった。
まだ、こんなに熱かった。
◇
葬儀から七日後、私はエルフ十三支族会議、通称「十三人会」の会議室へ入った。
十三人会にはエルフ以外の三種族と、元の世界の友好的な『人間』も加わっている。ここが実質、世界の意思決定機関だった。
母の後を継ぎ、私はプルメリア国の大統領と、この十三人会の長になっていた。そして今日は、初めて自ら主導する会議だった。
席に着くと、用意されていた書類の厚さが目に入った。
戦争はまだ完全には終わっていない。移民の受け入れ、外交、食糧、治安。返答を待っている案件は、母が生きていた頃と同じように届く。
私はその上へ、自分で用意した資料を置いた。
「始めましょう。最初の議題です」
集まった者たちが顔を上げる。
「医療制度を、作り直します」
一人のエルフが眉を寄せた。
「医療、ですか。しかし、我々には治癒魔法があります」
「その治癒魔法で、母は救えませんでした」
紙を繰る音が止まった。
「人間の医学でも救えなかった。双方が知らないことを抱えたまま、同じ部屋で立ち尽くしていました」
私は資料を開いた。医師と治癒術師から聞き取ったことが、何枚にもわたって書き込まれている。
「一緒にやればいいでしょう」
治癒魔法と薬学、外科、感染症の研究。魔道具が身体へ与える影響も、人間とエルフ、獣人、竜人の身体の違いも、別々の場所で扱い続ける理由はなかった。
「人間側の医学者を、正式に研究へ入れます。同時に、我々が保有する治癒魔法の理論と術式を、人間側へ開放します」
「なりませんぞ、ヘルメス様!」
椅子が鳴った。
「人間側に魔法の技術を渡せば、いずれ我々にも危険が―」
「可能性はあるでしょうね」
私は顔を上げた。
「それでも、私たちはここで生きていかねばならないのです」
魔法も、知識も、自分たちだけのものとして受け継いできた。それを外へ出せば、失うものがある。相手が善意で使うとも限らない。
私も、同じことを言っただろう。
あの部屋で母の呼吸が止まるのを待つまでは。
「開放する範囲と、研究の進め方は決めなければなりません。ですが、何も渡さず、相手からも学ばないままにしておくことを、私はもう認めません」
立ち上がった者は、すぐには座らなかった。
私はその人を見て、返事を待った。
やがて椅子が引かれた。机の上で資料を開く音がし、隣の者がそこへ顔を寄せる。
賛成されたわけではない。それでも、ようやく同じ紙を見てもらえた。
窓の外には、人間の街があった。
十四年前は未知の街だった。
今では人間とエルフが同じ店へ入り、同じ道を歩いている。母を診た二人も、この街の同じ病院で働いていた。
「十四年前、私たちは、この世界を支配すれば生き残れると思っていました」
指導者の考えを曲げ、判断を変えた。本人たちに気づかれないまま、歴史まで動かした。
それでも母は死んだ。
「支配するだけでは、足りないようです」
私は会議室へ向き直った。
「私たちは、この世界で生きていくんです。だったら、この世界の人たちから学びましょう。私たちの知っていることも、教える」
母の手の熱を、まだ覚えていた。
あの人を救える知識は、間に合わなかった。これから研究を始めても、母の呼吸が戻ることはない。
それでも、あの部屋で互いに顔を見合わせていた二人を、もう一度、同じ机に着かせることはできる。
今度は、できない理由を告げるためではなく。
私は資料の最初の一枚を、会議卓の中央へ差し出した。
右へ進むはずだった歴史を、少しだけ左へ向ける。
今度は、私たち自身が変わる番だった。




