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white side 7

「白、明日暇か?」


夜、カンタじいちゃんから電話が来た。


「暇だけど」


というより、最近はずっと暇だった。

部活もない。タワーにも行かない。放課後も真っ直ぐ帰る。


何をしたらいいのか、よく分からない。


「じゃあ釣り行くぞ」


「え」


「朝五時な」


「早くない?」


「魚はお前に合わせて起きねえよ」


電話が切れた。

相変わらずだ。


◇


翌朝。


十月の海は、夏の名残をわずかに残しながら、すでに秋の色を帯びていた。


空は高く、薄い雲が刷毛で引いたように伸びている。朝の光が海面に細かく砕け、銀色の道を作っていた。


少し離れたみなとみらいには、ランドマークタワーが朝日を受けて立っている。


潮の匂いを含んだ冷たい風が吹き、岸壁にぶつかった波が白くほどけていた。


「遅い」


「五分前だよ」


「釣りじゃ五分前は遅刻だ」


カンタじいちゃんが言う。

その横では、バロンじいちゃんがすでに竿を出していた。


「おお、白。来たか」


「バロンじいちゃんもいるの?」


「儂も誘われた」


「邪魔だったんだがな」


「なんじゃと?」


「聞こえてんのか。長生きのくせに耳はいいな」


「お前よりはな」


朝からうるさい。

でも、二人の声を聞いていると、少しだけほっとした。


二人の間に座ると、カンタじいちゃんから竿を渡される。


「ほら」


「餌は?」


「自分で付けろ」


「そこまでやってよ」


「甘えんな」


「病み上がりなんだけど」


「もう治ってんだろ」


その通りだった。


糸を垂らす。

仕掛けが水面を割り、朝の光の中へ沈んでいった。


三人で海を見る。

遠くを船がゆっくり横切る。


誰も何も喋らない。

聞こえるのは、波の音と時々鳴く鳥の声だけだった。


こういう時間も、悪くない。


「来た!」


最初に声を上げたのは僕だった。

竿がしなる。


「お、巻け巻け」


「分かってる!」


久しぶりに、少し夢中になった。

上がってきたのは、朝日に鱗をきらつかせる小さな魚だった。


「……これ何?」


「アジ」


「小さくない?」


「お前みたいだな」


「どういう意味?」


「まだ小せえってことだ」


カンタじいちゃんが笑う。


その直後、今度はカンタじいちゃんの竿が大きく曲がった。


「うお」


「でかそう」


「白、見とけ」


数分後。

上がってきた魚を見て、僕は黙った。


僕が釣ったアジの三倍くらいある。


「……ずるくない?」


「腕だ」


カンタじいちゃんは満足そうに魚を締めると、クーラーボックスから包丁と小さなまな板を取り出した。


「何で持ってきてんの?」


「寿司屋なめんな」


手が速い。

鱗を落とし、頭を落とし、腹を開く。三枚におろして、皮を引く。


あっという間に、さっきまで泳いでいた魚が刺身になった。


「ほれ」


醤油まで出てきた。


「準備良すぎない?」


「だから釣りなんだろ」


意味が分からない。


バロンじいちゃんが横から一切れ取る。


「うむ」


「勝手に食うな」


「作ったら食うじゃろ」


「お前のために作ってねえ」


「白、食え」


「うん」


一切れ、口に入れる。

冷たくて、少し弾力があって、海の味がした。


「……うま」


「だろ」


「悔しいけど」


「何が悔しいんだ」


久しぶりに、普通に笑った。


◇


しばらくして。


刺身も減り、竿の動きも落ち着いた頃には、太陽が少し高くなっていた。海面の反射が眩しい。


カンタじいちゃんが海を見たまま言った。


「白」


「ん?」


「本当のことを言え」


手が止まった。


来た。そう思った。やっぱり、そのために連れてきたんだ。


ランドマークタワー、九十六階、探索者を辞める約束。僕は……。


「……分からない」


正直に答えた。


すると、バロンじいちゃんが眉を寄せた。


「お前は、自分がどの女を好いておるかも分からんのか?」


「え、ランドマークタワーのことじゃ?」


二人のじいちゃんが顔を見合わせた。


「白、おめー何言ってんだ?」


カンタじいちゃんが言った。


「え?」


「誰がタワーの話をしてんだ」


「ハイネちゃんの話じゃよ」


「え」


今度は僕が二人を見る番だった。


「なんで今!?」


「今だからじゃ」


「最近のお前、死んだ魚みてえな顔してるからな」


「魚の前で言うなよ」


刺身を見る。

死んでいる。


「で」


カンタじいちゃんが聞く。


「どうなんだ」


「何が」


「だから、ハイネちゃんだよ」


僕がハイネをどう思っているか。

それなら分かっている。


「……好きだよ」


口に出すと、妙に恥ずかしかった。


「うん」


「それだけ?」


「それだけって?」


「他にもいるじゃろ」


「いないよ!」


二人が笑う。


「なんだよ」


「いやいや」


「若いのぅ」


「バロンじいちゃんに言われたくない」


「儂は今も若いぞ」


「見た目だけだろ」


バロンじいちゃんはドワーフという種族で、人間の二倍ほどの寿命を持つ。大して年齢が違わないカンタじいちゃんとは、かなり条件が違うのだ。


「なあ、白」


「何?」


カンタじいちゃんが、少し笑って言った。


「黒ってやつが気になるのか?」


言葉に詰まった。


「……まあ」


「ハイネちゃんと仲いいんだろ?」


そう言ってバロンじいちゃんも僕の目を覗き込む。


「うん」


「お前より?」


「知らない」


「じゃあ聞け」


「聞けないよ!」


「めんどくせえな、お前」


ひどい。


「……負けたくないんだよ!」


思わず言った。


「何に?」


「黒に」


口から出ると、止まらなくなった。


「タワーも」


「うん」


「ハイネも」


二人は黙って聞いている。


「百階だって、あいつに先に行かれたくない」


子どもみたいだ。

格好悪い。


「ハイネにも……」


言いかけて、やめる。


「何じゃ?」


「……格好いいって思われたい」


言ってしまった。

海へ飛び込みたい。


「はっはっは!」


カンタじいちゃんが声を上げた。


「笑うなよ!」


「いや、いいじゃねえか」


「何が」


「理由なんて、そんなもんでいいんじゃよ」


バロンじいちゃんも笑っている。


「世界を救うためじゃないと塔へ登ってはいかんのか?」


「そういうことじゃないけど」


「ならよかろう」


少し、肩の力が抜けた。


僕は海を見る。

光が波の一つ一つに揺れている。


カンタじいちゃんが一切れ残っていた刺身を口へ放り込んだ。


「さて、白。お前どうする? ここでやめるのか?」


「……」


「白よ」


今度は、少し真面目な声だった。

腕を組んで、僕を覗き込むように言った。


「全部、どうにかなるとしたらよ」


風が吹いた。

十月の風が、シャツの袖から入り込んでくる。


「学校も、親父とお袋も」


「……うん」


「ヘルメスさんとの約束も」


胸が痛む。


「そういうの、全部どうにかなるとしたら」


カンタじいちゃんが僕を見る。


「本当は、どうしたい?」


答えは出ないと思った。

病院では出なかった。


ハイネに聞かれても、学校で話をされても、ずっと分からなかった。


でも。

今は。


「……登りたい」


小さな声だった。


「ふん。そうだろうな」


「登りたいよ! でも、怖いんだ……」


「そりゃそうだ。死にかけたんだ」


「今でも、あいつの声を思い出す」


キキキ。

シネシネ。


「またあんなのに会ったらって思う」


「うん」


「それでも」


僕は海を見る。

遠くで波が光を砕き、白い筋になって岸へ流れてくる。


「登りたい」


今度は、はっきり言えた。


「百階に行きたい」


「そうか」


カンタじいちゃんは、それだけ言った。

バロンじいちゃんも頷く。


「なら、登ればよかろう」


「でも」


「でもじゃない」


「約束が」


「それはちゃんと話せ」


「学校も」


「話せ」


「父さんたちも」


「もちろん話せ」


「怒られるよ」


「そりゃ怒られるだろ」


カンタじいちゃんが笑う。


「ヘルメスさんは怖いぞ?」


「知ってるよ!」


バロンじいちゃんが咳払いした。


「白」


「何?」


「命は大事にせい。無駄に捨てるな」


「うん」


バロンじいちゃんは、隣のカンタじいちゃんへ顔を向けた。


「儂は、お前よりずっと長く生きる」


「俺に言ってんのか?」


「他に誰がおる」


「長生きのあんたが言うと腹立つな」


「黙れ若造」


「誰が若造だ」


二人ともじいちゃんだ。


バロンじいちゃんは少し笑ってから、また海を見る。


「それでもな。振り返れば短いものよ」


潮風が、僕らの間を抜けていく。


「命は大事にせい。じゃがな、大事にしすぎて、使わずに終わるなよ」


胸の奥で、何かが動いた。


「お前の人生じゃ。たとえ、誰が何と言おうと、な」


今度は僕を見た。


カンタじいちゃんが続ける。


「やりたいことがあるなら、やれ」


「……うん」


「失敗したら?」


「帰ってこい」


「また怖くなったら?」


「帰ってこい」


「死にそうになったら?」


「絶対帰ってこい」


即答だった。


「死ぬのだけは禁止だ」


「無茶言うなあ」


「じいちゃんなんてそんなもんだろ?」


笑った。本当に、久しぶりに。心の底から。


二人のじいちゃんが、僕のために、笑わせてくれたんだ。


◇


「ところで白」


バロンじいちゃんが言った。

その顔が、少し変だった。


「何?」


「誰にも言うなよ」


「何を?」


「絶対じゃぞ」


「うん」


「ヘルメスにもな」


「それはやばくない?」


「特にヘルメスにはじゃ」


その時点で、かなり嫌な予感がした。


バロンじいちゃんが、悪い顔をする。


「九十六階を正面から抜けねば、百階へ行けんと……」


「うん」


「誰が言った?」


「……え?」


思考が止まった。


「あるんじゃよ」


「何が?」


「裏道が」


「え? どこに?」


じいちゃんは笑った。


「八十階じゃ」


「……八十?」


「昔の探索者しか知らん道」


僕は竿を落としそうになった。


「それ、先に言ってよ!」


「聞かれんかったからの」


「九十六階で死にかけたんだけど!?」


「生きておる」


「そういう問題!?」


カンタじいちゃんが腹を抱えて笑っている。


「笑うなよ!」


「いや、悪い悪い」


絶対、悪いと思っていない。


「でも」


僕はバロンじいちゃんを見る。


「本当に、百階へ行けるの?」


「ああ」


即答だった。


胸が、どくんと鳴った。


「簡単なの?」


「簡単なら、秘密の道になどならん」


「……やっぱり?」


「途中に一つ、厄介なのがおる」


「魔物?」


「まあな」


「あんまり、みんな死ぬもんじゃから、秘密になったというわけじゃ」


バロンじいちゃんは、がははと笑い、それ以上を言わなかった。でも、その口ぶりだけで分かる。


楽な道ではない。

九十六階を飛ばして百階へ行けるからといって、ただの近道ではないらしい。


「今のお前が行っても、たぶん死ぬぞ」


さっきまでの軽い口調が消えた。


「……そんなに?」


「ああ」


「じゃあ何で教えたの?」


「今すぐ行けとは言っとらんじゃろ?」


バロンじいちゃんが鼻で笑う。


「登りたいなら、まず強くなれ」


その言葉に、少しだけ息を呑んだ。


「九十六階で何が足りなかったか。自分で考えろ」


「……うん」


「怖いなら、その怖さも使え」


海の向こうに、ランドマークタワーが見えた。

秋の光を受け、ガラスの壁面が眩しく輝いている。


ずっと、見ないようにしていた。でも今日は、ちゃんと見られた。


「白」


カンタじいちゃんが言う。


「まず、ヘルメスさんと話せ」


「……うん」


「約束したんだろ」


「うん」


「なら、逃げずに話せ」


僕は頷いた。


「俺らも一緒に行ってやる」


「絶対怒られるよ」


「だから俺らも一緒に怒られてやるって言ってんだろ」


「バロンじいちゃんも?」


「……儂はその日、用事があっての」


「逃げるなよ!」


三人で笑った。


◇


家へ帰る途中。


十月の午後の空気は、朝より少しやわらかくなっていた。


スマホを取り出し、ハイネとのトーク画面を開く。


彼女の最後のメッセージ。


『答えは急がなくていいよ』


そうだね。当たり前すぎて笑う。

だけど言葉に込められた彼女の優しさを感じる。


何と返せばいい。何を書けばいい。

ハイネに今の僕の気持ちを伝えたい。


『答え、分かったよ』

違う。


『諦めないことにした』

これも違う。


『待っててくれて、ありがと』

なんか恥ずかしい。


結局、スタンプ一覧を開いた。


筆で大きく書かれた文字。


『復活』


少し迷って、押した。送信。


画面に『復活』と、それだけが表示された。


僕はスマホをポケットにしまった。

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