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black side 6

深夜一時を回っていた。


今日は店を早めに閉めさせた。テーブルの上にあるのは酒でも料理でもなく、柴田が持ち込んだタブレットと、何十枚もの写真だった。


百階。

巨大な岩の塊が、画面の中で動いている。


「ここです」


柴田が映像を止め、眼鏡を押し上げて画面の端を指差した。


「前回も話しましたが、階層支配者は壊された部位を床と壁から補充しています。ただ、追加で過去の映像を十二本確認したところ、単純に修復しているわけではない可能性が高いです」


「どう違うんだ?」


俺が聞くと、柴田は待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「戦場そのものを身体にしているんです。例えば、この映像。右腕を破壊されていますよね。その十五秒後、右側の壁が三メートルほど消えています。それからこちらは、脚部損傷の直後に床が――」


「長い」


牙狼がソファに沈んだまま言った。


「まだ二分しか話してません!」


「体感で二十分だ」


摩耶が笑う。


「柴田、今日は何時間コース?」


「最短で四十五分です」


「最短なんだ」


澪の耳がぴくりと動いた。


「長いにゃ」


「でも聞いとけ」


俺は写真を一枚取った。字は分からない。

だから見るのは、写真と図と映像だ。


床が大きくえぐれている。その下では、虹色の亀裂が光っていた。


「柴田。続けろ」


「はい」


柴田は嬉しそうに眼鏡を直した。


「問題は狭間です。長期戦になれば床と壁の損傷が増え、結果として狭間の露出も増える可能性が高い。つまり、時間をかければ有利になる相手ではありません。むしろ――」


「こっちの足場がなくなる」


「そうです」


別の映像が再生される。巨大な腕が床を叩いた。

人が吹き飛ぶ。


画面の端で虹色の光が広がり、一人がそこへ落ちた。

消えた。そして戻ってこないまま映像は終わる。


「この探索者は?」


「未帰還です」


「死んだ?」


「分かりません。狭間の転送先は予測不能です。生存記録もあります。このダンジョンのどこかに転送されます。ただし、壁の中、溶岩地帯、海中、高高度と思われる場所への転送例もあります」


牙狼が画面を見たまま鼻を鳴らした。


「落ちたら運ゲーか」


「だから落ちないでください」


「分かってるよ」


「牙狼さんは『分かっている』と言った三分後に忘れるので言っています」


「お前、最近俺に当たり強くない?」


「統計です」


何の統計だ。

俺は次の写真を見る。


百階へ挑み、生きて帰った連中の記録。顔が写っている。

何人かは包帯だらけだった。黒焦げになった装備もある。


今までの階とは違う。


それは前から分かっていた。だが、調べれば調べるほど、分からないことが増えていく。


柴田は、それを一つずつ拾っていた。映像を探し、証言を集め、食い違いを並べて、また調べる。


こいつは昔からそうだ。

一つ気になると、止まらない。


◇


雨の日だった。


川の音が大きかった。俺は橋の下に段ボールを組んで、その中にいた。


別に住むためじゃない。

雨を聞きに来ただけだ。


雨粒が橋を叩く音。増水した川が流れる音。車が水を跳ねる音。

俺は、こういう音を聞くのが好きだった。


その中に。

急に変な声が混ざった。


「だから何で僕だけこうなるんだよ。普通にしてるつもりなのに、普通って何だよ。みんな普通にしろって言うけど説明しないし、説明されても条件が毎回違うし、それなら僕が間違ってるんじゃなくて普通の定義が――」


うるさい。

でも。


少し面白かった。


雨。

川。

車。

それから、こいつ。


今日、この場所で鳴っている音の一つだった。


段ボールの隙間から覗く。どんな奴の声なのか気になったんだ。


犬みたいな耳を生やした男がいた。


顔は人間とほとんど変わらない。服は濡れ、髪もぐしゃぐしゃで、眼鏡には水滴がついている。


犬の獣人なんだろう。


獣人にもいろいろいるらしいが、俺にはその辺の違いなんて分からない。


一人で喋っていた。誰かに聞かせている感じでもない。

頭の中から、そのまま漏れているようだった。


「家でもそうだし学校でもそうだし、何で僕が喋るとみんな嫌な顔するんだよ。聞かれたから答えてるだけなのに長いって言われても、どこまで説明すれば足りるのか分からないし――」


俺は段ボールの扉を開ける。


「おい」


「うわあああああっ!」


犬の獣人が跳ねた。三歩くらい後ろへ下がり、そのまま尻もちをつく。

そして、怯えた目で俺を見る。


段ボールを見る。

また俺を見る。


「え、え? 人いたんですか? いや、いたのは分かりますけど、なんでそこから……え、スーツ? それ高いやつですよね? ホームレスじゃない? でも段ボールにいて、いや、そもそも何でそんな良い匂いが――」


「腹減ってるか?」


「え?」


「腹。減ってるか?」


「あ、はい。いや、でも今はそういう話じゃなくて――」


「減ってんだな」


段ボールの奥から、小さな手鍋を出した。キャンプ用のやつだ。


「ちょ、待ってください。それ、たぶん僕の鞄より高いやつですよね?」


「よし、石拾え」


「石?」


「その辺の。でかすぎないやつ」


「何個ですか?」


「適当」


「適当が一番困るんですけど。三個ですか、四個ですか、形は? 同じ大きさの方が安定しますよね。だったら――」


「お前、名前は?」


「柴田って言います!」


「よし、柴田。ドーンと行け」


「ドーンって何ですか!?」


柴田は、ギャーギャー騒ぎながらも拾い始めた。

俺は右手を地面へ向けると、指先から影を垂らした。


黒い線が濡れたコンクリートの上を這い、円を描き、その内側をいくつもの線が走った。


曼荼羅。


あの人から教わった図形の一つ。文字で何と書いてあるのかは知らない。

だが、形は覚えている。魔力をどこへ流せばいいのかも、何となく分かる。


ゴォッ。

中央から火が上がった。


大した火じゃない。人を焼き殺すような力もない。

だけど飯を作るにはそれで十分だった。


「は!?」


柴田が石を落とした。


「何ですか今の!? 魔法陣を影で描いた? いや、そもそも詠唱してないですよね? それに今の構造、一般的な火属性式と全然――」


「いや、俺には分からねぇよ。石、集まったか?」


「あ、はい!」


「いい感じに並べてくれ。お前が思うとおりにな」


「ぼ、僕が決める……?」


拾ってきた石を組ませ、その上に網を置いた。


「次、飯」


「飯って、ここで?」


川へ手を向けた。今度は影そのものを伸ばす。

黒い網が水の中へ沈む。少し待って、俺は掌を上へ返す。


ザバァッ。

水面が持ち上がる。


「うわああっ!」


影の網の中で、魚が跳ねていた。


小魚。ボラ。ザリガニ。シジミ。

水草。空き缶。ビニール袋。

よく分からない靴まで入っている。


「すごっ、え、これどうなってるんですか!? 影ですよね!? 影なのに網目があって、水だけ抜けて、魚は残る? じゃあ物質なんですか? いやでも、さっき指先から出て――」


「まあ、俺には細かいことは分かんねぇって。食えるもん取り出してくれ」


「はい!」


さっきまで何かで死にそうな顔をしていたくせに、急に元気になった。


単純な奴だ。

俺も食えそうなものをより分ける。


手鍋を置き、今度は別の曼荼羅を指先の影で描いた。火よりも少し面倒な形だ。

こぼさないように、慎重に魔力を流す。すると手鍋の中に水が湧いた。


これも大した量は出ない。戦いではほとんど役に立たない。

でも、飯を作ったり、喉が渇いた時には便利だった。何度も救われた魔法だった。


柴田が具材を軽く洗い、鍋の脇へ置いていく。

シジミ。水草。道路脇に生えていた、匂いの強い草も少し。


「これ、食べられるんですか?」


「食える」


「本当に? 下処理とかは?」


「食えんだろ? たぶん」


「たぶん!?」


「何入れる?」


「え?」


「鍋。食いたいの選べ。下処理とかいうのもしろ」


柴田は網を見る。

魚を見る。


鍋を見る。

また魚を見る。


魚を処理して、網の上に並べる。

ザリガニを見た柴田が黙った。


「シジミは出汁が出ますよね。でも魚も入れた方が栄養的には……ただボラは臭みがあるかもしれないし、ザリガニも処理の仕方によっては。でもせっかく採ったなら使わないともったいないし、そもそも組み合わせとして――」


「ドーンといけ」


「またそれですか」


「ドーンと入れりゃいい」


「でも味が」


「まずかったら次やめればいい」


「……そんな決め方でいいんですか?」


「鍋ってそういうもんだって、俺は聞いたぞ」


柴田はしばらく考えていた。それからシジミを掴んで入れる。

網で少し焼いた魚も入れる。少し迷って、ザリガニも入れた。


「これも」


「おう」


「じゃあ、これも」


「入れろ」


最後には、鍋がぎゅうぎゅうになった。


「入れすぎたかもしれません」


「ずいぶん、ドーンといったな」


「あなたが言ったんでしょう!」


いつの間にか柴田は声を出して笑っていた。

鍋が煮えるまで、柴田はまた喋った。


学校のこと。家のこと。兄弟のこと。

言ったつもりが伝わらなかったこと。


説明したら余計に怒られたこと。

笑われたこと。


何で自分だけ違うのか分からないこと。


どうして。

なぜ。

だったら。

でも。


話は何度も枝分かれした。途中で最初の話に戻ったり、全然違う話になったりした。

俺はそれを鍋を混ぜながら聞いていた。


雨はずっと降っていた。川も流れていた。

柴田の声も、その中でずっと続いていた。


しばらくして。

急に止まった。


「……すみません」


「何が」


「僕、ずっと喋っていますね」


「喋ってるな」


柴田は俯いた。


「よく言われます。長いって。もういいって。だから、その……」


「終わったのか?」


「え?」


「話」


柴田が俺を見る。


「まだ途中だったろ」


しばらく、何も言わなかった。

雨と川の音だけになった。


それから柴田は、また口を開いた。

今度は、先ほどより少しゆっくりだった。


俺は最後まで聞いた。

鍋の中身がなくなる頃には、雨も弱くなっていた。


◇


「――黒さん?」


目の前で柴田が眼鏡を押し上げていた。


「聞いてます?」


「聞いてる」


「本当ですか?」


「三つあるんだろ。長期戦にしない。床の損傷を見る。狭間が増えたら、攻撃より退路を優先する」


柴田が黙った。


「……聞いてますね!」


柴田の尻尾がぶんぶんと振れだす。


「だから言っただろ」


牙狼が欠伸をする。こいつは聞いてないな。


「で、結局どうなんだよ。勝てそうなのか?」


柴田は画面へ目を戻した。先ほどまでの勢いが、少しだけ消える。


「分かりません」


誰も喋らなかった。


「今ある記録だけでは、安全な攻略法は作れません。相手の全能力も分からない。狭間も完全には予測できない。僕らが今まで戦った相手とは、条件が違いすぎます」


「ふーん」


摩耶が頬杖をつく。


「つまり、死ぬかも?」


「かなり、あり得ますね」


「全員?」


「はい」


澪の耳が怯えるように折れる。

牙狼は腕を組んだ。


俺は写真をもう一度見る。


巨大な岩。

壊れた床。

虹色の狭間。


なるほど。


「やべえな」


「だからずっとそう言ってるんです!」


柴田が叫んだ。


俺は笑った。摩耶も笑う。

牙狼まで笑った。


柴田だけが怒っている。

澪の尻尾はぱたぱたと揺れていた。


「で?」


牙狼が俺を見る。


「いつ行く?」


「お前、今の話を聞いてたか?」


「聞いてたよ」


「死ぬかもって」


「お前もだろ」


「俺はいいんだよ」


「何でだよ」


知らん。

摩耶がくすくす笑う。


「黒ちゃん、自分だけ特別扱いするのずるいよ」


「してねえ」


「してるにゃ」


澪まで乗ってくる。柴田がため息をついた。


「念のため言いますけど、僕も行きますからね」


「当たり前だろ」


「当たり前です」


即答だった。


「黒さんが行くのに、僕が行かない理由がないでしょう」


こいつらは、たまに本当に意味が分からない。

金なら、もう十分に稼いだ。


九十九階まで来た。

百階へ行かなければならない理由なんて、誰にもない。


それでも。

一人も帰ると言わない。


「……お前ら、変な奴らだな」


「今さら?」


牙狼が笑う。


「黒ちゃんにだけは言われたくないなあ」


摩耶も笑う。

澪も。

柴田まで、少しだけ笑った。


俺も人のことは言えないらしい。

危ないことは分かった。なら、あとは、やるだけだ。


「全員、準備できたら行くぞ」


牙狼が口角を上げる。


「おう」


「はーい」


「にゃ」


柴田も頷いた。それから、すぐにタブレットを操作する。


「では次です。残り三十二項目あります」


「まだあんのかよ!」


牙狼が叫んだ。柴田がむっとする。


「百階ですよ! 当たり前でしょう!」


俺は次の写真を取った。


「よし、続けろ柴田」


柴田の眼鏡が、少しだけ光った。

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